4月19日「福音のために喜ぶ」 伝道師 金井恭子
- 4月22日
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更新日:5月16日
詩編47編:2節〜10節
フィリピの信徒への手紙 第1章12節〜18節
先週からフィリピの信徒への手紙をご一緒に読み始めました。パウロは「喜びの書簡」と呼ばれるこの手紙の冒頭から、神さまへの感謝とフィリピの教会のための祈りを記しており、手紙全体に喜びが貫かれています。
しかし実は、この喜びを語っているパウロは、伝道の途中で捕えられ、獄中にある身でした。それなのになぜ、これほどまでに喜びを語ることができるのか。何を喜んでいるのか。それは5〜6節にあるように、フィリピの教会の人々がキリストの信仰を与えられてから今日まで共に福音の中に生き、一人一人が伝道の働きを担ってきたことと、神さまがフィリピの教会で始められた良い業を完成してくださることへの確信からくる喜びです。神さまがすでに働いておられ、今も働いておられる。そして、キリストが再び来られる最後の日まで働いておられるという確信からくる喜びの中にパウロは生きているのです。どんなに苦しいことがあっても、教会が神の御業によって進んでおり、その交わりの中に自分はいるのだという喜びです。
そしてパウロは12節でこう言います。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい」と。彼は今、捕えられ獄中にいますから、自由に出掛けることも語ることもできない。それどころか命の危険さえある状況です。それなのに「前進」という言葉を使っています。前進とは、文字通り「前へ進む」ことを言いますが、キリストの福音を宣べ伝えるという視点から言えば、前進というより「後退」していると言わざるを得ない状況にあります。それにもかかわらず、パウロは「福音の前進に役立った」と言うのです。そして13〜14節でこう言います。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他すべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」と。
ここで、聖書には書かれていないことを想像します。ただ単にパウロが逮捕され獄中にある、という状況だけでフィリピの信徒たちが確信を得たというよりも、おそらく、獄中にあっても御言葉に生き、喜び、賛美し、祈るパウロの姿が、それを見聞きした人の心を動かし勇気を与えたのではないかと想像するのです。「キリストのためである」というのは、原文では「キリストにおいて」と訳すことができます。ですからパウロの、獄中にあっても「キリストにおいて」喜び生きる姿が人々に受け止められていると言えるでしょう。
人間の業としては、獄中にあるパウロの身の上は、伝道にとってマイナスの出来事かもしれません。しかし、見つめるべきものは、「神の業」なのです。私たちはどうしても、人間の視点からプラスとなる結果を望みます。うまくいかない時、宣教の業が停滞しているように感じます。けれどもパウロは、困難や災いを含めた諸々のことが用いられて主の御業が進められていくことを見つめています。
パウロが人間的な力で頑張ったのではなく、キリストの福音が困難と災いを切り開いて、前へ前へと進めさせておられる。そしてパウロの姿を通してキリストが働き、そこに確信を得た信徒たちが勇敢に御言葉を語るようになったと受け止めることができます。これは、キリスト者にとってマイナスと思われる困難があるから救いがある、というメッセージではありません。福音の前進とは、「神の業」なのです。
ここまでであれば、苦難もキリストの働きに用いられるという話で終わるかもしれません。しかしパウロは、さらに踏み込みます。15節で「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいる」と言うのです。「善意でする者」とは「愛の動機からそうする」のであり、「ねたみと争いの念に駆られてする者」は「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」と言うのです。
この頃の教会がいったいどんな状況にあったのか、詳しくは書かれていませんが、どうやらパウロを妬む人々がいたようです。なぜパウロは妬まれたのか。それは、彼の賜物が宣教の働きに大いに用いられていたからでしょう。それを妬む人たちもまた、熱心に教会のために働き、宣教のために心を尽くしていたはずです。しかし、パウロほどには用いられなかった。そのことが悔しくて、獄中にあるパウロを励まし支える行動に出るのではなく、妬ましいパウロがいないのをいいことに、自分たちの力を大いに示そうと目論んだのでしょう。主の福音のための宣教と言いながら神さまの御業であることを見失い、自分自身が重んじられることを求めてしまったのです。身動きがとれない獄中のパウロにとって、これは大きな苦しみであったことでしょう。
もし私たちがパウロの立場だったらどうしたでしょう。捕えられている不自由な獄中生活で命の危険さえある上に、自分を妬んで苦しめる人々がいることを知ったら、絶望して嘆くかもしれません。あるいは、その人たちを裁く気持ちが湧いて、あれこれ非難するかもしれません。
ところがパウロは、「だが、それがなんであろう」と言うのです。そして、「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と言うのです。彼は、人間的な思いで宣教する人々のことを裁いてはいません。人の動機が純粋無垢で完全であるから福音が働くのではないと考えているのです。不純な動機で為される人間の業であったとしても、それがキリストを宣教するものであれば自分は喜ぶ、と言うのです。
もし教会で宣べ伝えられているものがキリストの福音とは異なるものであったなら、パウロは彼らを裁いたでしょう。しかし確かにキリストの福音を宣教している、そして地上での宣教は、私たち罪ある人間を主が用いられ、そこに神の業が働くのだと考えているのです。
私たちの教会も同様です。私たちは弱さや欠けのある人間です。しかし、神さまはそのような私たちを用いられ、伝道の道を歩ませてくださいます。そこには多くの困難も伴いますが、神さまが私たちの中に善い業をなしてくださることを信じて伝道の道を歩んで行くのです。私たちの思いや働きが先にあるのではなく、キリストの福音が先にあり、その福音が私たちを用いて働かれるのです。
ここで私たちが改めて問われるのは、私たちが何を見つめて生きるのか、ということです。自分の思いがどれだけ受け入れられているか、自分の働きがどれだけ評価されているか……そのようなことに心が向きますと、私たちは喜びを忘れてしまいます。パウロのように、「キリストの福音が告げ知らされている」と言う一点だけを見つめる喜びには遠く及びません。
このことは私たちにとってとても大切なことです。教会の歩みの中で、時に思い通りにならないことや人と人との関係で傷つくことがあります。あるいは自分の働きが望むような実を結ばないことに悩むこともあるかもしれません。しかし、そのような中にあっても、キリストの福音が宣べ伝えられているのであれば、そこに神の御業が働いていると言えるのです。そしてその御業は、私たちの目に見える仕方で進まないことがあります。時に停滞しているように見えたり、それどころか後退しているように見えることもあるでしょう。けれども、そのような状況にあっても、神さまはご自身の御業を進めておられます。パウロの獄中の日々がそうであったように。私たちの歩みにもまた、そのようなことがあるのです。
だからこそ、私たちは、自分自身の人間的な視点で見るのではなく、神さまがどのように働いておられるのか見つめる者でありたいと思います。時に自分の思いとはかけ離れた形であったとしても、キリストが宣べ伝えられているのなら、それを喜ぶ者でありたいと願います。それはなかなか難しいことでしょうけれども、そうありたいと願います。
パウロは18節で「これからも喜びます」と重ねて言います。この言葉は、単にその時の感情に任せて言ったのではなく、これからも変わらない彼の確信を語っているのです。獄中にあって尚、キリストが宣べ伝えられる限り、自分は喜び続ける。そのような信仰に彼は生きているのです。
私たちもまた、パウロと同じ福音に生かされています。キリストは既に十字架と復活によって罪と死に打ち勝たれました。そこに私たちは招き入れられています。だから私たちは希望に生きることができるのです。
この福音に支えられて、私たちの教会もまた歩んでいきます。互いに欠けのある者同士でありながら、キリストにあって結ばれ、御言葉に生かされて歩んでいく者として、それぞれに与えられた場所で、相応しいあり方で、主に仕える者とされていきたいと願います。
恵み深い天の父なる神さま。
御言葉を通して、どのような時にも福音が前進していることを示してくださり、
感謝いたします。
私たちは弱く、自分の思いにとらわれやすい者です。どうか、ただキリストが告げ知らされていることを喜ぶ信仰をお与えください。
また、それぞれの場にあって、あなたの御業に用いられる者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
