4月26日 「生きるとは」 伝道師 金井恭子
- 4月29日
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更新日:5月16日
詩編104編:31節~35節
フィリピの信徒への手紙 第1章19節〜26節
「生きるとはキリストである。」
この言葉は神秘的で美しく、キリスト者にとっては違和感なく受け止めることができる言葉でありましょう。しかし、21節にあるこの言葉に続く「死ぬことは利益」という言葉には戸惑いを覚えます。すぐには受け入れ難い強い響きを持っているからです。この「利益」の元の言葉は、何かと引き換えに得るものとして商売の場で用いられる「利得」や「儲け」のことを表しますが、パウロは敢えてこの世における現実的な言葉を「死ぬ」ことに当てています。
普通に考えれば、「死」は地上での全てを失うことを意味します。命を失うことによって人との関係性も、この世での働きも、やがて親しい人に残された自分自身に関する記憶さえも失うことを意味します。私たちにとって「死」とは、失うことの象徴であり、恐れの対象でもあります。ですから、死を「利益」と呼ぶパウロの言葉は、私たちの自然な感覚とは大きく異なっています。何かを得るどころか、すべてを失うように見えるところに、どうして利益があるのでしょうか。
その答えは、パウロが見つめているものにあります。生きることにおいても死ぬことにおいても、パウロが見つめているのは自分自身ではなくキリストだけです。私たちが考えるような、地上における絶大な影響力のあるものとして「死」を捉えていません。むしろ、生も死も超えて貫く確かな結びつきについて語ります。それは、私たちとキリストとの結びつきです。その結びつきは尊く、純粋なものであり、決して断ち切られることのないものです。23節では「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望している」とさえ言うのです。おそらくそれは、私たちの地上での歩みはキリストから引き離されそうな誘惑が多く、私たちの心が揺れ動く現実の中に置かれているからでしょう。
けれども、ここで注意したいのは、パウロが地上の生を軽んじているのではないということです。彼は生きることに絶望して死にたいと言っているのでも、死を美化しているのでもありません。むしろパウロは、この地上の生を、キリストが用いてくださる大切な場として受け止めています。だからこそ20節で、「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるように」と願っています。自分が解放されるか、処刑されるかという不安定な状況の中で、彼が第一に願っているのは、自分の安全ではなく、キリストがあがめられることなのです。
ところで、今月から木曜日のオリーブの会ではカトリックの司祭ヘンリ・ナウエンの本を共に読み、黙想をしています。先日の会で読んだナウエンの「キリスト者として生きるということは、この世に属さずに、この世に生きることです」という言葉に引きつけられました。ヨハネによる福音書にも「世にあって世に属さない」という表現がありますが、分かるようで分かりにくい言葉です。この世を離れて生きるというのではありません。かといって、この世の価値観にのみ込まれて生きるというのでもありません。キリストに結ばれながら、この世界のただ中に置かれて生きるということです。
ふと、私が修士論文のテーマに選んだドイツの神学者ボンヘッファーの初期の教会論を思い出しました。彼は、教会はキリストの体であるというだけでなく、「現実の人間のために、教会は全くこの世的でなければならない。それはわれわれにとって益となるこの世性である。真性のこの世性は、教会があらゆる特権とあらゆる所有を断念することができ、ただキリストの言葉と罪の赦しに依り頼むときに成り立つ。キリストと罪の赦しとを背負うことによって教会は、他のすべてのものを手離す自由を得る」と言い、そのことはしかし、「世俗化とはなんの関係もない」と言います。
つまり、教会はキリストの十字架において、すでに存在の根拠が与えられているから、他のどんな存在にも依存する必要がなく、ただキリストに結ばれているがゆえに全く自由なのだ、ということなのでしょう。この「この世にあってこの世に属さない」という現実こそ、パウロが語る「生きるとはキリストである」という言葉の具体的な姿ではないでしょうか。私たちキリスト者は、「世俗に生きる現実」と「神の現実」とに同時にあずかることができる、類まれなる恵みをいただいているのです。
では、この世界の現実を生きる意味とは何でしょうか。地上におけるキリスト者以外の人々もまた、生きる意味や自分の存在価値について問いかけながら生きています。それは大変悩ましい、簡単には答えの出ない問いです。時代とともに価値観も変わり、多様性が尊ばれるようになると、「どのように生きてもよい」と言われる一方で、「何を拠り所として生きるのか」という問いは、かえって深まっていきます。「自分らしく生きる」ことが求められる時代にあって、その「自分」とは何かが分からず、不安を抱えることも少なくありません。自由であるはずなのに、かえって自分で自分の価値を証明しなければならないような重荷を負うこともあります。
そのような中で、パウロの言葉ははっきりとした方向を示します。「生きるとはキリストである」と。人生の中心にキリストがある、というだけではありません。彼の願いも、苦しみも、喜びも、そのすべてがキリストに包まれているという現実です。自分自身を拠り所とするのではなく、キリストに結ばれていることそのものが、生きる意味なのです。だからパウロは、獄中にあっても自分を見失いません。自由を奪われ、予定を妨げられ、人の目には不幸に見える状況に置かれても、キリストに結ばれている事実は奪われないからです。
その上で彼は、「死ぬことは利益である」と語ります。それは、死が単なる終わりではないからです。そしてこの世を去ってキリストと共にいる方が「はるかに望ましい」とさえ言います。それはキリストとの交わりの完成であり、この世の誘惑に揺れることも苦しみを担うこともなく、完全にキリストと共にある状態へと移されることだからです。パウロにとって、死はキリストから離されることではありません。むしろ、キリストと共にある交わりがいよいよ明らかにされることなのです。
しかし、私たちは「死ぬことは利益である」と、すぐに受け止めることができるでしょうか。むしろ私たちは、失うことへの不安や、今あるものへの執着の中で、この言葉に戸惑いを覚えるのではないでしょうか。家族のこと、託されている務めのこと、まだ終えていない働きのことを思うとき、死を簡単に受け入れることはできません。そのような私たちの現実を否定することなく、それでもなおパウロは語るのです。キリストに結ばれているとき、生も死もその意味を変えられるのだと。
パウロは二つの在り方の間で葛藤しています。23節で「この二つのことの間で、板挟みの状態です」と言います。「板挟み」とは、両側から強く押さえつけられるような状態のことを指します。そして彼は、そのことで引き裂かれるような思いをしています。しかし、彼は迷っているのではありません。どちらも本気で望んでいるのです。一方には、キリストと共にいたいという切実な願いがあります。それは信仰の完成として「はるかに望ましい」ものです。しかしもう一方には、この地上にとどまり、教会のために生きるという現実があります。自分にとって望ましいことと、教会にとって必要なこと。その二つの間で、パウロの心は板挟みになっているのです。
「あなたがたのために、肉にとどまる方がもっと必要である」とパウロは語ります。ここで重要なのは、どちらもキリストに結びついているということです。死もキリスト、そして生もキリストなのです。だからこそパウロは、その間で引き裂かれるのです。そして最終的に、「肉にとどまることになるだろう」と確信します。それは「あなたがたの信仰の進歩と喜びのため」です。ここに、キリストに生きる者の姿があります。自分のためではなく、他者のために生きること。その歩みの中に、キリストに結ばれている現実が現れます。
パウロは捕えられ、獄中にあります。けれどもその場所においても、彼は無力ではありませんでした。鎖につながれていても、福音は鎖につながれていません。彼自身の願いどおりに事が進まなくても、キリストはその状況を通して働いておられます。私たちもまた、思いどおりにならない現実、自由に動けない現実、弱さを抱える現実の中に置かれることがあります。しかしその場所も、キリストに結ばれて生きる場となります。小さな祈り、隣人への一言、与えられた務めへの忠実さを通して、主は私たちの命を用いてくださいます。
私たちは、「生きるとはキリストである」と言えるでしょうか。「死ぬことは利益である」と受けとめることができるでしょうか。この言葉はすぐに理解し尽くせるものではありません。しかしキリストに結ばれるとき、私たちの生も死も、その意味を変えられていきます。自分の価値を自分で証明し続けなくてもよい。自分の力で人生の意味を作り出さなくてもよい。私たちはすでに、キリストのものとされているからです。
生きるときも主のものとして生き、死ぬときも主のもとにある。その確かな希望の中で、与えられているこの一日を、またそれぞれに託されている場所において、主に結ばれて歩んでいきたいと思います。
天の父なる神様。
今、「生きるとはキリストである」との御言葉を聞きました。
私たちは、自分の思いや不安にとらわれ、生きることもにも死ぬことにも迷いながら歩んでいます。それでもなお、私たちをキリストに結びつけてくださるあなたの恵みによって、私たちの生も死も、あなたの御手にあることを感謝いたします。
与えられている地上の歩みを、あなたに結ばれて歩むことができますように。
どのような時にも、キリストが私たちのすべてであることを、静かに受け止めて生きるものと
してください。この祈り、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。
アーメン。
