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4月5日 「復活の主イエス」 

  • 4月8日
  • 読了時間: 7分

『詩編』118:22~29   『コリント信徒への手紙』15:1~9 

 

祈ります。

天の父、御子が復活を与えられたことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。

 

パウロという伝道者は大変頭の良い人でした。若い時からとても熱心に学問に励みました。その頃ガマリエルという名の非常に優れたユダヤ教の学者がいました。ユダヤの議会の議員でもある律法学者です。そのガマリエルの下で聖書の勉学にいそしんだのです。パウロ自身がこう言っています、この都で育ち、ガマリエルの下で先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じ様に熱心に神に仕えていました(使徒22:3)。そういう点からすればパウロは自分の優秀さを拠り所にし、学問教養を誇りにすれば幾らでも出来たのです。

そのパウロが、主キリストとの出会いが与えられて、その主キリストの救いを受けるということになった。パウロには予想もしなかった大きな人生の転換でした。しかもその上、主キリストを宣べ伝えて、伝道していく伝道者として召され立てられていくことになるのです。昔、エレミヤが預言者とされた時、「私はあなたを聖別し、預言者として立てた。」(エレミヤ1:5)と召され立てられたことと同じです。

伝道者になった時、優れた頭脳を持ち、優れた学者の下で励んだ知識、知恵、教養を使っては宣教しなかった、とパウロは告げます。

勿論勘違いをしないように注意します。パウロが優れた人物で、学問を身につけていたことが無駄だったということではありません。それらが邪魔になったということでありません。実際にその豊かな律法、旧約の知識は主イエスを宣教していく時どんなに役立ったことでしょう。律法を守って生きようとすることが信仰を教え、導いていくのにどれほど役立ったか測り知れないほどです。

では、宣教するのに、優れた言葉は使わなかった、知恵の言葉を使わなかった、というのはどういうことでしょうか。唯易しい言葉、分かり易い言葉で宣教したということではないのです。ではそれはなぜかというと、パウロはこう告げます、「私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなた方が人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため(Ⅰコリント2:2)。」

それは、主キリストの十字架が無力なものになってしまわないためだというのです。主の十字架が一番よく伝えられる、それがパウロの願いです。十字架によって、皆が救いを与えられ、信仰に生きる者とされること、それがパウロの最も強い思いだったのです。その十字架が宣べ伝えられるために、自分の巧みな知恵の言葉が前面に出ないようにしたのです。自分の知識や教養が目立つようなことをしないと志したのです。自分の巧みさ、上手さ、技術が表に出てはならないと思いました。唯、主キリストの十字架が一番力を持って伝えられるようにと願って宣教したというのです。それが巧みな知恵の言葉を使わなかったということです。

思えば、洗礼のヨハネも同じでした。皆に悔い改めの洗礼を授けたヨハネは、近付かれる救い主キリストの方に皆の目と心を向けさせました。そして伝えます「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)そのヨハネ自身は目立たなくていいとしました。表に出なくていいとしました。「私は救い主の履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネ1:27)と言って、自分は退き隠れるのです。ここにも、知恵の言葉を使わずに唯主キリストが伝えられ、指し示されればいいのだと言って、神からの務めに励んだ人物がいたのです。

パウロにしてもヨハネにしても、主キリストが全てだということでありましょう。パウロは、キリストの十字架が空しいようになってしまわぬように、知恵によらないで告げ知らせる、と言います(Ⅰコリント1:17)。十字架が空しいようなってはならない、そこに与えられる救いが空しくなってはならないのです。そうではなく、十字架が力あるものでなければならない。救いが私達を生かすものでなくてはいけないのです。

そこでその主の十字架が本当に力あるものとなる、意義のあるものとなるために、主キリストの復活が何よりも大切だと続けるのです。最も大切なこととしてあなた方に伝えたのは私も受けたものです。即ち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、です(3~4)。

教会にはいつも強い力が与えられています。強い力が与えられていることをいつも覚えていなければなりません。私達教会には神からある使命を与えられています。最後の晩餐の時、主は弟子達に言われました、「私もあなた方を世に遣わします。」と。世に遣わす、の内容は何か。弟子は世に遣わされて何をするのか。「全世界に行って、全ての創られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と勧められているのです(マルコ16:15)。

教会に与えられている力とは、救いの御言葉を宣べ伝える力です。力があるのです。そのみ言葉が私達の中に救いを生み出すのです。信仰を生み出すのです。そしてその生み出す力は計り知れぬ程強いのです。信仰は聞くことのより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです、と示されている通りです(ローマ10:17)。

 

信仰を生み出す力、救いを生み出す計り知れぬ程強い力は、どこからやってくるのか。主の御言葉にその力があるのです。教会が宣べ伝える福音の言葉に力があるのです。では、何故福音の言葉に力があるのか。福音が、キリストの十字架と復活を伝えるからです。十字架と復活に力があるので、それを宣べ伝える福音の言葉に力があるのです。

主の復活に力があるのです。14節に注目します。キリストが復活しなかった、私達の宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です(14)。これは主キリストの復活の大切さを強く表す言い方です。主キリストの復活こそ、教会の宣教に力を与え、教会の信仰に力を与える、と強く言い表しているのです。

使徒言行録の伝える初めの教会、エルサレム教会もその宣教の力を与えられています。ペンテコステに、聖霊に満たされ、その聖霊なる神の力を受けたからです。

しかし、そのすぐ前の弟子達の様子を見てみると、どこにいるか分からないくらいに、何の力もないのです。先に主が十字架に掛けられる為に逮捕された時、弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった、のです(マルコ14:50)。逃げてどうしたのか。何もなすすべがなく、故郷のガリラヤに帰ってしまったのでした。最後の晩餐で、あなたがを世に遣わす、と告げられていました。あなた方を父なる神が守って下さるようにと励ましてもらいました。しかし反対に、遣わされたことは忘れ、父なる神が守って下さることも見逃して田舎に引っ込んで、以前の漁師に戻ってしまっていたのです。力のない弟子達になっていたのです。

 

そのまま何もなければ、やがて弟子達は、年月が過ぎていく中で忘れられその名も知られずに生涯を閉じたことでしょう。所が、事実はそうではないのです。数週間後に、弟子達は社会の表に出るようにして生き生きと活躍しているのです。主が逮捕されると逃げ去った弟子達が、今や、逃げないどころか、主キリストを宣べ伝える、宣教の働きをしているのです。何も恐れないのです。主の名によって金輪際話してはならないと権力者に禁じられたのに、弟子達は恐れません。

 

この数週間に何があったのでしょう。弟子達に何が起きたのでしょう。イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って使徒たちに示し、四十日に渡って彼等に現れ、神の国について話された。と告げています(使徒1:3)。主キリストが甦り給うた、復活された、この出来事が弟子達に力を与えたのです。

キリストが復活しなかったら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。(Ⅰコリント15:17)もし主の復活がないのならば、罪が赦されるという罪の解決がないのではないかと諭しています。罪の解決には、死に勝つことが必要です。罪が支払う報酬は死です、と聖書は教えます(ローマ6:23)。罪は死に値するのです。罪は、死に至るのです。だから、死を滅ぼすものでなければ、罪の解決にはならないのです。死に対して勝利するものでなければ、真の救いにはならないのです。

主の十字架と復活は、死に対して勝利されたことで、私達の救いが確かにされたことを宣言しているのです。

あなたの救いは確かです。

 

 

天の父、独り子にお与えになった復活によって、私達教会にとても大きな恵みを下さったことを声を大きくして感謝致します。御子の十字架と復活を伝える福音の言葉によって、私達に救いを生み出して下さったことを感謝します。私達の罪を復活によって解決して下さったことを深く感謝致します。ここに与えられている救いの確かさによって生きていけます様に。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
 
 

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