5月10日「苦しむことも、恵み」 伝道師 金井恭子
- 5月15日
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詩編27編:1節-6節
フィリピの信徒の信徒への手紙第1章:27節-30節
フィリピの信徒への手紙を読み進めてまいりました。
今、パウロは獄中にあって自由に宣教できないどころか、命の危険さえある状況です。しかし彼は喜んでいます。指導者を失っても尚、フィリピの教会の人々がしっかりと信仰に立っていることを喜び、パウロを妬む者たちによってであってもキリストの福音が宣べ伝えられていることを喜び、獄中にある自分の身に起こったことが「福音の前進に役立った」ことを喜んでいるのです。そして、死んでこの世を去りキリストと共にいたいと熱望しながらも、しかし板挟みに悩んだ末に、地上にとどまり教会のために生きることを選ぼうとしています。「生きるとはキリストである」と言い、「死ぬことは利益である」と言うパウロは、生きるときも主のものとして生き、死ぬときも主のもとにあるのだという確信と希望を私たちに伝えています。
苦難の中にあっても喜びに満たされていることを手紙に書いたパウロは、今度は教会の人々に対する勧めを書いています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言うのです。こんなことを言われたら、私たちは戸惑い、尻込みするのではないでしょうか。「キリストの福音にふさわしい生活」とは一体どういうものなのだろうか。自分はそのような生活ができているだろうか……と。しかも「ひたすら」という言葉がつくのですから、これはとても厳しいものを求められているのではないかと、身構えてしまいます。しかしパウロは決して厳しいことを言おうとしているのではありません。
ここで、キリストの福音とはどういうものであったかを思い起こしてみましょう。福音とは「よきおとずれ」です。私たち人間のために、神さまが愛する御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、そのイエスさまが私たちの罪を負って十字架に架かってくださり、救いの御業を成し遂げてくださったという、大いなる恵みです。その恵みによって、すでに罪を赦され救いにあずかっている私たちはに求められていることとは何でしょうか。
この頃、フィリピの町はローマ帝国の植民地でありました。原文を辞書で引きますと、ここで「生活を送りなさい」と訳されている「市民として生活する、社会の一員としての義務を果たして生きる」という意味を持つ言葉の命令形「ポリテュエステ」という言葉は、「キリストの福音にふさわしい生き方で、生活と信仰とが結びついて足が地についた)市民生活をしなさい」ということだ、と解説されています。
では、私たちのキリスト者の住む処はどこでしょうか?パウロはこの手紙の3章20節で「わたしたちの本国は天にあります」と言っています。キリストを信じる私たちの国籍は、天にあるということです。そしてパウロがここで「生活」を語るとき、それは神の国の市民として生きることを言っているのです。
私たちはこの地上で、さまざまなものに属しています。会社や家庭、学校、地域。そしてそれぞれの役割を果たしながら生きています。しかし何よりも先ず、キリストの福音に属する者であれ、とパウロは語るのです。その自覚こそが、信仰の出発点なのです。
パウロは続けて「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており……」と言います。「一つの霊」とは、すべての人の考えが一致するということではありません。むしろさまざまな背景と考えを持っている者たちが、それでも尚、福音のために一つにされている姿です。キリストの福音によって呼び集められ、互いに違いを持ちながらも、同じ主に結ばれて、一つの霊によって立たされている群れです。だからこそ、私たちは互いに支え合いながら、福音のために共に立つのです。
私たちには主にある兄弟姉妹との交わりが必要です。交わりとは、気の合う者同士が仲良く集うことではありません。御言葉に養われるよう互いに励まし合い、祈り合い、労苦を共にすることです。そのことによって、福音の一致を妨げる破壊者と戦う力が得られるのです。現代では、当時のように教会を迫害する者たちに遭遇することは殆どないかもしれません。しかし敵は、いつ、どのような形で現れるか分かりません。悪魔は、私たちが簡単に見分けることができない姿で襲いかかってきます。他者に対する優越感や劣等感、妬み嫉み、時には、自分自身の怖れや迷いによる不信仰が、信仰の敵になることもあります。それらは教会の一致を破壊することさえあります。けれども、教会から離れることなく、苦しみながらも、聖霊によって一つとなった兄弟姉妹と共に戦うなら、敵や破壊者に対抗することができるのです。
続く28節で、さらにこう語られています。「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と。ここには教会が現実の中で直面する緊張が前提とされています。信仰に生きるとき、必ずしも周囲から理解されるとは限りません。反対や圧力にさらされることもあります。しかしパウロは「たじろぐな」と言うのです。それは相手に負けないように強くあれ、と言っているのではありません。恐れないで立つというその姿自体が、既に神の御業のしるしだということです。それは私たち人間の強さではなく、「神が共におられることのしるし」なのです。私たちの神は、すべてに勝利されているお方です。神の勝利のもとで、その神に依り頼み、キリストを信じる信仰に固く立ち、たじろがないこと。それが私たちの戦いなのです。
29節から30節で、今日の聖書箇所で最も深いところが語られます。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と。非常に驚くべきことに、「苦しむことも、恵み」であると言うのです。
信仰者は、罪と滅びから救い出され、平安を与えられたのではなかったのでしょうか。なぜ苦しむことまで恵みとして与えられていると言うのでしょうか。私たちは苦しみを避けたいと思います。できることなら、穏やかに、平安に、何事もなく信仰生活を送りたいと願います。しかし、そのような私たちにパウロは、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのだと語るのです。
パウロは苦しみそのものを美化しているのではありません。自分から苦しみを求めなさいと言っているのでもありません。そうではなく、「キリストのために」苦しむことが与えられているということです。主イエス・キリストに結ばれて生きる者が、キリストの十字架の苦しみを想いながら歩む。その歩みの中で与えられる苦しみは、見捨てられた苦しみではなく、キリストに結ばれる者として与えられた恵みなのです。
苦しみの中で私たちは、自分の弱さを思い知らされます。自分では立てないことを知らされます。しかしそのときこそ、主が私たちを支えてくださることを知らされているのです。苦しみの中にあっても、私たちは主から切り離されてはおらず、むしろキリストと共にある者として、その苦しみの中に置かれているのです。
本日の新約聖書と共に読みました詩篇27編の御言葉が、ここで深く響いてきます。「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう/主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう」この詩人もまた、敵や苦しみを知っている人です。恐れをがまったく無いのではありません。けれども恐れに支配されないのです。なぜなら、主が共におられるからです。
私たちは弱く、揺らぎやすい者です。恐れに捕えられ、立ちすくんでしまうこともあります。信仰に生きることが、時に重く感じられることもあります。しかしそのような私たちに、御言葉は語りかけます。「ひたすら福音にふさわしい生活を送りなさい」と。それは、何か特別に立派な生き方をせよということではありません。ただ、福音に属する者として、共に歩む者として、主に支えられて立つ者として生きなさい、ということです。その歩みの中で、苦しみが与えられることがあります。それは、主から見捨てられたからではありません。キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。主イエスが先に十字架の道を歩んでくださり、その主が今も私たちと共にいてくださいます。だから私たちは、一人で耐えるのではなく、教会として共に立ち、共に祈り、共に支え合いながら、福音の信仰のために歩むのです。
先ほどの詩編27編4節「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう/命ある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを」という祈りのように、私たちもまた、苦しみの中にあっても、主の光を見失わず、主の救いに支えられ、キリストの福音にふさわしく生きる者でありたいと願います。
全ての歩みにおいて、私たちは主のものです。生きるときも、死ぬときも、私たちは主のものです。そのことを覚えて、恐れることなく、たじろぐことなく、キリストの福音に生かされる者として、共に歩んでいきたいと願います。
