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5月31日 「星のように輝く」 伝道師 金井恭子

  • 6月6日
  • 読了時間: 9分

ダニエル書12章1〜3節

フィリピの信徒への手紙2章12〜18節

 

 「わたしの愛する人たち」と呼びかけるパウロは、自身が獄中にあるため指導者を失ったフィリピの教会の人々に、なおさら従順であるようにと勧めます。前回、共に読みました1節〜11節でも、キリストのへりくだりと従順について語られました。それは、人間の姿形で現れてへりくだられ、神と等しい者であることに固執しようとせず、ご自分を無にして僕の身分となり、十字架の死に至るまで従順であった「父なる神にすべてを委ねる」生き方でありました。私たちは、キリストの従順を真似ることはできないけれども、全てを主にお委ねして、自分を低き者として他者を尊重し、キリストを中心とした歩みを進めていくことはできる、というお話をしました。

 

 12節の「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように」という言葉を見ると、少々緊張感がよぎります。しかし、神が怖いお方であるという意味ではありません。聖なる全能の神であられるお方への敬いと慎みを持ちなさい、ということでしょう。

神学校の学びの中で、新約聖書では「神を信じる」という言葉が意外と少ないことを知りました。そして、旧約の人々にとって「恐れおののきつつ神の御前に出る」ことが「信じる」と同じ意味を持つのだと知りました。私たちの信仰においても、それは大切なことだと言えるでしょう。神を恐れる敬いと慎みの心を持たないと、神との真の応答は得られないからです。そしてそれがなかったら、教会は単なる聖書研究サークルのような場になってしまうでしょう。

神は、今ここにも臨在しておられます。この小さき説教者を通して語りかけておられます。私たちは恐れおののきつつ神の御前に出て、従順であるように心がけたいと思います。しかしながら、私たちは自分の力で従順になることはできません。世にあって自分という者の存在を認めてほしい、評価してほしい、自分の思い通りにならないことには不満を感じる。そのような愚かな者です。

13節で「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行われておられるのは神である」と語られているように、救いの恵みというものは、私たち人間が望んだら得られるというものではありません。それは神の働きによるものだからです。

私たち人間に及ぶ神の働きというものに思い至る繊細で柔軟な心を持つこと、そして心から神を信頼してお仕えすること。そこに救いの達成はあるのです。そのようにして恵みを受け取る信仰の歩みを、神は支え導いてくださるのです。そのお方が愛する独り子主イエス・キリストを地上に遣わされ、私たちは罪を赦され生かされています。ですから、14節で「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とパウロは言うです。

 

私たちに、それができているでしょうか。

 与えられている恵みよりも「足りないもの」「思い通りにならないこと」に心を奪われ、不平や理屈を口にすることはないでしょうか。自分の思いや望みにこだわるあまりに、互いを裁き合い、

傷つけ合ってしまうことはないでしょうか。パウロは、そのような私たちに、「文句を言ってはいけない」という道徳的な教えを伝えているのではありません。神が既に私たちの内に働いてくださっている、その恵みを信頼して生きなさい、と勧めているのです。

 

出エジプト記の物語を知っている方々は、思い出してみてください。理不尽で苦しい奴隷生活を送っていたイスラエルの人々は、モーセと共にエジプトの地を脱出し、約束の地へと向かいます。それは長い長い旅でしたし、試練の多い旅でした。神の確かな約束と守りがあったはずですが、目の前の現実は厳しかったのです。だから人々は「水がない」と騒ぎ、水が与えられると「食べ物がない」と叫ぶ。神がマナという食べ物を降らせてくださったら、今度は毎日同じものばかりで飽きたと文句を言う。そして何度も何度も「こんなことならエジプトにいた方がよかった」と不平不満を叫びました。そして、モーセが神に呼ばれてしばらく不在になると、目にみえるものを拝みたいと金の仔牛の像を作り、真の神に背いてしまいました。歴史の結末を知っている私たちからすれば、なんと愚かな……と思うかもしれませんが、もし私たちがあの時代に同じ境遇にあったなら、同じように不平不満を言い、嘆き騒いだかもしれません。現代における私たちもまた、日常生活において、あるいは教会生活において、自分の思い通りにならないことに不平や理屈を口にしたり、あるいは口に出さないまでも、心の中に持っているのではないでしょうか。

このような私たちが、人間的な自己主張に支配される生き方から解放されていくにはどうしたらいいのでしょうか。それにはやはり、神が働いてくださることを信じて歩むしかありません。その歩みの中で、少しずつ主イエスの救いの御業の前に自分自身を明け渡し、お委ねできる者になっていくしかないのでしょう。信仰の歩みとは、自分の力で正しく立派になっていくことではなく、恐れおののきつつ神の御前に立ち、神のお働きに身を委ねて歩むことなのです。

 

15節でパウロは、「そうすればとがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」と言います。

「よこしまな世の中」とは、今の時代にも言えることです。国と国が、人と人が、互いに自分の正しさを主張し、傷つけ合うことが少なくありません。そのような世の中にあって「星のように輝く」とはどういうことでしょうか。この言葉を聞くと、自分のような者には不似合いな、もっと素晴らしい人のことを言っているのではないかと尻込みしてしまいそうです。そして立派な信仰者となるように努力が必要なのではないかと思ってしまいます。

 しかし、パウロが言う輝きとは、そのような種類のものではありません。信仰者が世にあって優れた者であるとか、特別な輝きを持つとかいうことでもありません。人々が神の存在など知ろうともせず自己中心的な生き方をし争い傷つけ合う世の中にあって、キリストの光を受けて輝く者のことを言うのです。自分自身で輝きを放たなければならないのではなく、ただ神によってそこに置かれ、キリストの光によって輝くことのできる星です。月が太陽の光によって輝くように。

 

教会は、完全な正しい人間の集まりではありません。不完全で弱さを抱えた者たちの群れであります。そのような群れが共に主を礼拝し、御言葉に聞き続けながら共に歩むとき、この世とは異なる光が現れて、星のように輝くのです。それは人間の力による光ではありません。私たちの罪を赦し新しい命をくださるキリストの光によって初めて輝くものとなるのです。

 パウロ自身がまさにそうでした。彼は今、牢獄の中にいます。自由に動くこともできず、命の危険にさえ晒されています。この世的に見れば、成功者として輝く者ではないはずです。しかし、そのような身の上であっても、彼は「福音の前進に役立った」と言い、尚も「喜びなさい」と呼びかけ、フィリピの教会を励まし続けます。その姿そのものが、まさにキリストの光に生かされた者の姿なのです。16節で「命の言葉をしっかり保って」とパウロが語った「命の言葉」こそが主イエス・キリストの福音です。十字架によって私たちの罪を赦し、新しい命を与えてくださった、その福音の言葉です。私たちは自分の努力や正しさによって輝くのではありません。キリストの命の言葉によって支えられ生かされる時にこそ、星のように輝く者とされるのです。

 ここでパウロは「キリストの日」と言っています。これは、主イエス・キリストが再び来られる終わりの日のことを言っています。すべてのものが主の御前に明らかにされる日のことです。それは裁きの日であると同時に、救いが完成する日でもあります。

 

 私たちは普段、目の前のことに目を奪われ勝ちです。うまくいったとか、失敗したとか、評価されたとかされなかったとか……そのようなことに左右されます。教会の歩みにおいても「自分の働きは評価されただろうか」「自分は何かに貢献しただろうか」という考えにとらわれることがあります。しかしパウロは、もっと遠くのものを見ています。最終的に大切な「キリストの日」においてどうであるか、ということを念頭に置いて生きているのです。

 彼は、フィリピの教会の人々が「命の言葉」をしっかりと保ち信仰にとどまり続けるのなら、自分の宣教における苦労は無駄ではなかったと、その日を喜ぶことができると言います。それは、自分の成功や評価を誇るのではなく、自分が伝えたキリストの福音によって人々が終わりの日までキリストに結ばれて歩み、救いにあずかることを願っていたからです。そこにパウロの牧会者としての深い思いがあります。

 現代の教会においても同じことが言えるでしょう。教会は、この世の成功を競う場所ではありません。むしろ「キリストの日」において、共に主の御前に立つことを目指して共に歩む群れなのです。だからこそ、今の歩みがすぐに実を結ばないように見えても、私たちは絶望する必要はありません。こうして共に礼拝を守り、祈り、御言葉に聞き続ける。この小さな歩みは、「キリストの日」に至るまで、決して無駄にはならないはずです。

 

 この世は過ぎ去っていきます。人の評価も、成功も、栄光も、永遠ではありません。しかし「キリストの日」に主の御前で「あなたはよくやった」と言っていただけることこそ、本当の喜びであり希望なのです。その希望を見つめながら、パウロは獄中にあってなお、喜びを失いませんでした。

ここにいる私たちもまた、終わりの日に完成する救いを待ち望みつつ、自分の力ではなく神のお働きに信頼しながら、この世にあって星のように輝く者として歩んでいきたいと願います。

 

                                          

 

天の父なる神さま。

あなたは、このよこしまな曲がった時代の中にあっても、私たちを見捨てることなく、御子キリスト・イエスの光によって照らし、生かしてくださることを感謝いたします。

私たちは弱く、すぐに不平を口にし、自分の思いに捕らわれ、あなたを中心に置くことを忘れてしまう者です。どうか私たちが命の言葉である主イエス・キリストに結ばれて歩むことができますように。そして、この世の中にあって、あなたの光に照らされながら星のように輝く群れとして歩ませてください。やがて来るキリストの日に主の御前に立つ望みを与え、たとえ小さな歩みであっても、あなたにあって決して無駄ではないことを信じる者とさせてください。

今日からのこの一週間も、あなたがいつも共にいてくださいますように。この祈り、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。          アーメン。

 
 
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