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6月7日「一人も失わないと主は言われる」 牧師 伊藤節雄

  • 6月26日
  • 読了時間: 8分

『詩編』17:6~12  

『ヨハネ福音書』18:1~11

 

祈ります。

天の父、主イエスが御自分から進んで十字架に進まれた意味をお教え下さい。

主の御名によって祈ります、アーメン。

 

主イエスが捕らえられ縛られて連れて行かれる時の様子を細かく伝えています。

ナツメヤシの枝で喜んで迎えられた日から始まった受難週の中で、その中心と言える主の十字架の時が来ました。十字架のお苦しみ、苦難をお受けになることを、受難と言います。この一週間を受難週と呼びます。私達の教会も木曜日には、洗足の木曜の聖餐式を行います。金曜には受難日の祈りの会を持ちます。

この受難週を英語では何と言いますか。パッション・ウィークと言います。神学生になったばかりの時、この英語に驚きました。パッションとは、情熱という意味なのです。彼は情熱にあふれている、という風に言う意味なのです。そういう風に覚えていたのです。受難週を、情熱の一週間と読んだのですから驚くのは当たり前です。

十字架の出来事を伝えるのにヨハネには大きな特徴があります。12節に、兵士たちが、イエスを捕らえて縛ったとあります。しかし主は捕らわれないように逃げ惑っておられますか。縛られないようにどこかに隠れておいでですか。逮捕されないように抵抗されておいでですか。お苦しみから、逃げない、隠れない、抵抗されない主イエスをヨハネは明確に伝えています。

 

逮捕を逃れようとされないどころではありません。主は、御自分から進んで十字架に向かわれます。イエスは、「誰を捜しているのか」と言われた。「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「私である」と言われた。しかも、この後で、御自分の身に起こることを何もかも知っておられたうえで「私である」と言われたというのです。私こそその十字架に掛かるナザレのイエスである、とお答えになっています。

5節、6節、8節に注目しましょう。共通して伝えられている言葉は?そうです、「私である」!十字架に掛かる、それは「私である」とお答えになったということです。人の病を担い、人の痛みを負うのは「私である」。多くの人の背きの為に打ち砕かれるのは「私である」。御自分から進んで十字架に向かわれることを明らかにしてくれるのが、この「私である」というお返事なのです。

 

「私である」という日本語は簡潔で力強いと言えませんか。進んで責任を負う人のいさぎよい言葉にもなります。「食べるなと命じた木から食べたのか」と問われたアダムがもし「私です」と答えていたら、どんなに良かったことでしょう。そうは答えませんでしたね。でも主イエスはお答えになりました。誰が捕らわれ縛られ十字架にかけられるのか、と問われた時「私である」と。すすんで十字架にお掛かりになる新しい力がこもった言葉です。そんな、主イエスのお心の内が見えて来ませんか。その様な主イエスの確かなお心を聴き取ることが出来ませんか。すすんで十字架にお掛かりになる新しい確かな力にあふれた主イエスのお心を聴きとる!

 

この「私である」という御言葉を旧約聖書で見たことはありませんか。聖書では、この答え方は特別な意味があるのです。だから、このキドロンの谷の向こうにある園にやって来た人の中には、「私である」と聞いてハッとする者がいたはずです。旧約聖書をギリシャ語訳で読んでいた人達です。ヨハネはそのことも明らかにしようとして「私である」と書いたのです。旧約のどこでしょう?モーセと関係する所です。イスラエルの救いを実行しようとする時、イスラエルに「その名は一体何か」と問われたらどう答えましょうかと神に尋ねます。神は「私はある。私はあるという者だ」とお答えになりました(出エジプト3:13~14)。この私はあるという神のお答えが、主の御言葉の私であると同じ言葉なのです。旧約の、聖なる神の名を表す言葉を主イエスがここでお使いになったのです。主イエスは、進んで御自分が神であられることを明らかにされたのです。 我らの主は、真に神であられるのです。

 

イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えて下さった人を、私は一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。主イエスに従って園に来た人々が逮捕されないようにと、この人々は去らせなさいとお命じになります。十字架に掛かるのは私であると言われます。だからこの人々は去らせなさいと言われます。

ここに主の十字架の示す意味が聴き取れませんか。主が十字架をお引き受け下さることによって、人々が守られ、救われるという聖書の基本的なメッセージを聴き取るのです。

 

主を十字架へと向かわせるこの世の力がある。主キリストに反対する力、主の教会に反対する力、信仰に反対する力がある。罪の力と言ってもいい。その力は、私達の目には非常に大きな強い力に思えます。ここではその力を、一隊の兵士と、下役達が松明や灯火や武器を手にしてやってきた、と示しています。下役達に余り大きな強い力はありません。だから一隊の兵士を連れてやってきたのです。

 

一隊の兵士とは誰のことか、又何人いたのか。これはローマの軍隊用語で、ローマ兵士隊とでも言えましょう。何人やって来たと思います。状況によって数え方が変わりますが、基本的には600人部隊でした。一番少ない時には、小隊と言われて200人部隊です。この園には入り切れなかったのではないかと推測出来ます。

一隊という言葉はある方を思い出させます。マルコ福音書の伝える、悪霊に憑りつかれたゲラサの人の癒しの記録です。この方の名前は「レギオン」さんです。苦しみの大きさを表す名前です。「大勢」の悪霊に憑りつかれ苦しんでいます、と言う様な返事をします(マルコ5:9)。このレギオンと言う言葉もまたローマの軍隊用語です。ローマ兵6000人部隊ということです。この6000人部隊=レギオンの三分の一もしくは十分の一が、ここでは「一隊の兵士」と言われているのです。下役達と言われているのは、エルサレム神殿の警備隊でユダヤの人達でした。そして少なくてもローマ兵200人部隊が来た。その大人数に驚かされてしまいます。

 

一隊の兵士と、下役達は主を十字架へと向かわせるこの世の力の強さ大きさを目に見えるように表しています。ゲラサの人に憑りついた悪霊の力に似ていると言えるでしょう。この強く大きな力に対して主はどの様に向かわれましたか。

1.私である、と言われた時彼等は後ずさりして、地に倒れた。大きな力を倒されたのです。

2.この人々は去らせなさい。人々を守り、救われたのです。これには理由があります。あなたが与えて下さった人を、私は一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであったという理由です。3.父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。この十字架は、父なる神が私にお与えになった救い主としての最も重要な使命なのです。最も重要な使命として、この救い主の担う十字架に向かうのです。杯とは神からあなたに与えられた使命のことです。皆さんは、神からどの様な使命を与えられていますか。答えてみて下さい。それを杯、神がお与え下さった杯というのです。

 

もう一度深く御言葉に聴いてみましょう。主イエスは、この人々を何から守り、救われたのでしょう。下役やローマ兵から守われたのでしょうか。そう映ります。しかし、主を十字架へと向かわせたのは、私達の罪です。その私達の罪の裁きから、お救い下さったのです。罪による滅び、からお救い下さったのです。その救いを生み出すため、主は進んで十字架に向かわれたのです。

 

私達の罪の裁きの大きさをローマ兵200人部隊の大人数が表しているのです。罪による滅びの大きさ一隊の兵士が、目に見える徴として表しているのです。

 

主の十字架は偶然ではない。父がお与えになった、救い主がしっかり担うべき使命に進んで向かわれたのです。だから、何度も十字架に掛かるのは私であるとお答えになっているのです。お苦しみから、逃げない、隠れない、抵抗されない主です。御自分から命を差し出されているのです。

 

その様に主イエスを駆り立てているものは何でしょう。その様に十字架へと主を押し出しているものは何でしょう。それを聴き取るのです。十字架へと主を押し出しているものが何か、御言葉に教えてもらいます。「キリストが私達を愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私達の為に神に献げて下さった・・・」(エペソ5:2)。主イエスを駆り立てているものは私達への愛だと伝えています。

 

私達への愛を旧約は熱情と言います。熱情とある言葉は、神がイスラエルを愛する熱心な愛、純粋な愛を表す言葉です。その言葉を借りて言えば、主イエスを十字架へと駆り立てているものは私達への熱情だと言えます。そこで、受難週を、私達の罪を熱心に救おうとされる「主の情熱の一週間」と呼べるのではないか。

 

主が十字架をお引き受け下さることによって、私達が守られ、救われるという聖書の大切なメッセージを聴き取って、主の情熱をあふれる程頂いて救いの喜びに生きる一週間とします。

 

天の父、私達の罪の力、裁きと滅びの大きさから救い出して下さる為に、主キリストは進んで十字架に向かわれました。主を信じ告白することによってこの教えに支えられて生きていけます様に。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 

 
 
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