7月12日「目標を目指して」 伝道師 金井恭子
- 7月18日
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更新日:2 日前
イザヤ書40:28-31
フィリピの信徒への手紙3:12-16
「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」
広くキリストの福音を宣べ伝え、教会を建て、キリストのためならば死ぬことも喜ぶ生き方をしたパウロでさえ、「完全な者ではない」と言います。「何とか捕らえようと努めている」とは、いったい何を捕らえようとしているのでしょうか。パウロが捕らえようとしているもの、それは一言で言うなら「キリストご自身を知り、深く結ばれること」と言うことができるでしょう。しかし、パウロは13節で「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」と言います。
原文のギリシャ語の動詞には主語が含まれるのに、ここでは敢えて「わたし自身は」と主語を強調しているのは、意味深です。彼ほど豊かに主に用いられてきた人が、自分が完全ではないことを、ことさらに強調するのはなぜか。当時の教会には、人間の努力や宗教的な実績を誇る人々や「自分はもう十分に成熟した信仰者である」と考える人々がいたのでしょう。おそらくパウロは、彼らが重んじていた「完全であること」や何かを「獲得する」という考え方を意識して、敢えて「自分は完全な者ではない」と語ったのでしょう。
前回読みました2節にあるように、「あの犬どもに注意しなさい」とパウロが警戒を促したユダヤ人キリスト者は、神に選ばれ救いにあずかった神の民の徴(しるし)である「割礼」を受けることや律法を厳格に守ることが、救いの根拠であるとしていました。おそらくそのような目に見える救いの根拠に惹きつけられ、賛同する信徒が出始めたのでしょう。それは無理もないことかもしれません。地上で生きる不安や悩みを払拭してくれるような何か、それも目に見えるもので手にしたいという思いは、十分想像できます。現代に生きる私たちもまた、そこにつけ込むような新興宗教に捕えられた人々が教祖の言いなりになって高価な物を購入させられたり、高額な献金をさせられたりする姿を数多く見聞きしてきました。たとえキリスト者であっても、地上を生きる不安から「どうすれば確かな救いをこの手にできるのか」という疑問を抱いても不思議ではありません。
今日読みました箇所では、「すでにそれを得た」とか「すでに完全な者となっている」とか「捕らえる」という言葉が出てきます。おそらくパウロは、割礼や律法遵守が救いの根拠であると伝道している者たちが使っていた言葉を意識してこの手紙を書いたのでしょう。
パウロは彼らのことを、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言い、自分の行いや生まれ、割礼、努力や熱心さを頼りにすることを「肉に頼る」と表現し、そのような彼らよりも自分たちこそ、肉に頼らずキリスト・イエスを誇りとする真の割礼を受けた者だとしています。そして彼自身はイスラエルの民に属し、生後間もなく割礼を受け、生活も文化も信仰も徹底したユダヤ人であったけれども、主イエス・キリストを知ることの素晴らしさにおいては、その一切が損失であるとさえ言うのです。彼は、自分の力で完全な者になることなどできないことを悟っています。謙遜などではないのです。自分がキリストの真理を獲得することなど不可能であるが、しかしキリストが自分を捕らえてくださるのだと確信しているのです。
キリストが捕らえてくださったという証しは、いったい何処にあるのでしょうか。それは目に見えるものではありません。自分で捕らえることもできません。けれども、私たちに「キリストをもっと知りたい、キリストに救われたことを共に分かち合いたい」という願いが聖霊によって与えられて、今ここにいる。そのことこそが、キリストに捕らえられた徴(しるし)なのではないでしょうか。
パウロは13節で「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と述べます。パウロにとっての「後ろのもの」には何が含まれていたのでしょうか。そこには、かつてキリストを信じる人々を激しく迫害したという過去もあったでしょう。当時彼は、神に忠実に仕えていると信じ切っていましたが、実は神の教会を苦しめる行いをしていたのです。キリストを伝道する身となった今、彼の過去を批判する人がいてもおかしくはないし、彼にとってその過去は、生涯忘れることのできない出来事だったでしょう。しかし、「後ろのもの」とは、そのことだけではありません。パウロはキリストを知るまでは、自分の生まれや家柄、信仰への熱心さを誇りとしていました。かつて誇りとしていたそれらのものも、今やパウロにとって「後ろのもの」となったということでしょう。
人は、過去の失敗に縛られることがあります。傷つけられたことや傷つけたこと、自分や他人を赦せずにいることを苦々しく思い出したり、あるいは過去の栄光や積み重ねた実績に寄りかかってしまったりすることがあります。パウロは今、過去に犯した最大の罪にも、ユダヤ民族としては最高に輝かしい経歴にも、縛られていません。過去ではなく、今この時にも自分を捕らえてくださるキリストを見つめています。
私たちは、自分自身の力によってキリストを知り、信仰を自分のものとして獲得することはできません。「キリストを知る」とは、十字架の死と復活の出来事が私のためであったことを知ることです。人生における喜びのときも、悲しみのときも、苦しみのときも、人生の終わりまで私と共にいてくださるお方であることを確信することです。私たちがキリストを信じることができるのは、キリストが私たちを捕らえてくださったからです。
「前のもの」とは何でしょうか。それは、未だ得ることのできない神さまの約束です。キリストをもっと深く知ること。キリストの姿に近いものへと造り変えられること。そして、キリストが再び来られる最後の日に復活の命にあずかることです。パウロは、その希望に向かって前のめりに全身を向けているのです。
パウロは、やみくもに走るのではなく「目標を目指してひたすら走る」と言います。この「目標」とは何でしょうか。私たちはしばしば、仕事や勉強の上で目標を立てて、それを目指して努力するという経験をしますが、ここで言われる「目標」とは、地上における人生という枠内に収まるようなものではありません。他人より熱心で優れた信仰者になるということでもありません。神さまが約束してくださった救いの完成を見つめて走るということです。赦されたことも救われたことも知らずに生きていくことと比べたら、なんという幸いかと思います。これは、キリストを信じる者にとって最大の喜びではないでしょうか。そして、救われるために走るのではなく、既に救われた者として走る。そこにこそ、福音があるのです。
パウロが言う「賞」とは何でしょうか。徒競走のように、他人と競って勝利を得た者へのご褒美ではありません。神さまは、足の速い人や最後まで走れた人だけを救うとは言っておられません。神さまが最後の日に与えてくださる救いの完成のことを言うのです。「神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞」。それはつまり、キリストと共に永遠に生きることができる喜びです。そしてそれは、私たちが自分で勝ち取るものではなく、神さまが約束してくださった恵みなのです。
パウロは、15節で「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言います。本当に成熟した人は、自分を完成した者とは思いません。そして自分を神に委ねることができます。自分の罪を知り、弱さを知っているからこそ神に委ねることができるのです。自分で完成することができないことを知っているからこそ、神さまが完成させてくださることを信じて歩み続けるのです。
私たちはキリストによって罪を赦され、新しい命を生きる者とされています。しかし未だ完全になったわけではありません。だから今日も主の日の礼拝で御言葉を聞き、祈るのです。それは、単に救われるためではありません。既にキリストに捕らえられた者として、神さまの約束を信じて歩み続けるためなのです。
パウロはこの手紙の1章で「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と語りました。それは決してこの世を軽んじて言ったのではなく、勢いに任せて死を怖れないと宣言したのでもありません。生きることにも死ぬことにもキリストがおられる、という確信でした。キリストが自分を捕らえてくださった。その確信があるから、喜びをもって生きることができたのです。
私たちも未だ、完全な者とはなれません。罪を赦され救われているはずなのに、また罪を犯してしまうような愚かな者です。日々悔い改めて罪の赦しをいただかなければなりません。今日も悔い改め、祈ります。しかし、キリストは、このような愚かな私たちを決して見放されません。そして、しっかりと捕らえてくださいます。だから私たちは安心して前を向いてひたすら走ることができます。
「目標を目指して走る」とは、自分の力で神さまの元へ辿り着こうとすることではありません。自分の力では到底無理なのです。キリストに捕らえられた者として神さまに信頼し、全てを委ね、神さまと共に進むのです。神さまは完成へと導いてくださいます。私たちができることは、祈りによる神さまとの応答の中で、何が神さまの御旨であるかを聞き取り、それぞれ遣わされた場所で、自分というものを献げていくということでしょう。
地上での歩みにおいて悩みや苦しみ、悲しみに遭うと、私たちは度々立ち止まってしまいます。つまずき転ぶこともあります。けれども、そこで絶望することなく生きていきましょう。既に示されている救いの確かさと主が共にいてくださることを思い起こすために、共に主の御言葉に聞き、互いに祈り合いましょう。
恵み深い天のお父さま。
私たちは、信仰者として未だ道の途中にある者です。新しい命を生きる者としてくださったにもかかわらず、罪を犯してしまう愚かで弱い者です。それでも私たちを捕らえてくださり御国へと招いてくださることに感謝いたします。
どうか、後ろのものにとらわれることなく、あなたが備えてくださった目標を目指して、ひたすら前へと進ませてください。そして、迷うとき・立ち止まりときには、共に心を合わせて信仰の道へと歩みを進めることができますように。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。
