7月20日 「名を呼んで下さる羊飼い」
- 教会 松本東
- 7月22日
- 読了時間: 6分
『エゼキエル書』34:11~16
『ヨハネ福音書』10:1~6
短く祈ります。
天の父なる神様 名を呼ばれることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります。アーメン
はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないで他の所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
短い譬の様に思えますが、大事な言葉が沢山あります。羊の囲い、門、盗人・強盗、羊飼い、門番、声を聞き分ける羊、羊の名を呼ぶ羊飼い、先頭に立っていく羊飼い、羊飼いの声を知っていてついていく羊達
、以上です。
この譬え話は、先に目を開けて頂いた方への御業から続く話です。この後の方の21節に、悪霊に盲人の目が開けられようか、とあるので分かります。目が見えるようになることの実質は、新しい人とされることでした。救い主の救いを受けることでした。救いを受けた私達にも、この方と一緒に、目を開けて頂いたことの意味を教える譬え話です。
羊飼いとはどなたでしょうか。11節で主イエスは明確に言われます。私は良い羊飼い。こう主が言われたのは、神の約束の言葉がここで実現しているということです。預言者エゼキエルの言葉を読みました。私は私の羊の群れを養い、憩わせる(エゼキエル34:15)。又、詩編23編を思われた方もいらっしゃるでしょう。主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。主イエスは、その様に伝える神の言葉が、ご自分に実現していると言われたのです。
主イエスとは別に羊飼いに例えられている人達がいます。誰か。甦りの主キリストがペトロを困らせたことがあります。ペトロを悲しませたのです。続けて三度も「私を愛しているか」と尋ねて悲しませたのです。問い掛けが三回であるのには意味がありますね。ペトロは三回、主イエスを「知らない」と言ってしまいました。(マタイ26:70~74)その過ちの挽回です。そのペトロの返事の都度、主はペトロに言います。「私の羊を飼いなさい。」と(Jn.21:15,16,17)弟子達を羊飼いにするというのです。初めの教会の使徒達が羊飼いに例えられるのです。福音を伝える者が羊飼いに例えられるのです。
羊とはどなたでしょう。目を開けて頂いた方です。主よ信じます、と言って跪いた方です。ただ、この方一人とお思いですか。10章には羊という言葉が繰り返し出てきます。その羊は、複数になっています。聖書によっては、「羊たち」と訳されています。ペトロを代表とした弟子達に任せるよ、と言われた羊も複数です。「子羊たち、羊たち」と訳します。複数、だからこの方一人丈ではありません。沢山の羊たちです。主よ信じます、と言って主を礼拝する皆が羊たちと言われているのです。終わりの時までこれからも続々と生まれ続く未来の羊たちも数えられます。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10年前、安曇野に来たての頃、石を取り除いて庭造り作業をしていた時、「節っちゃん!」と呼ばれました。幼い子を抱いた若いお母さんでした。どなたか分からず、返事に困りました。十数年前に大学入学試験のために推薦書を書いた教え子でした。学校生活での関りの全てを担うのが、この呼び掛けでした。
名を呼ぶという事は、特別なことです。私達は履歴書を書いたり、自己紹介をしたりする時、第一に、名前を紹介します。その後で、自分がどういう者か付け加えます。その自分がどういう者かを担うのが名前なのです。名前は、自分の全てを代表しているのです。
主キリストは、私達を一束にして導くようなことはしない。教会の主ですが、そこに繋がれている全ての枝を、名を付けて覚えて下さる。私達全ての名を呼んで救いへと導いて下さる。羊たち全部を、それぞれの名前で呼んで下さるのです。全部、だから見逃しはありません。誰も迷子になりません。もし迷子になっても、見つける迄探して下さいます。全部でいいのです。それぞれの名前、だから私自身の全てを担って下さると各自がそれぞれ確信していい。
立ち止まってここで自分の名が呼ばれることを考えてみます。私達全員の名が、一人ずつ呼ばれることがあります。何時ですか。教会総会の点呼です。議長か書記か、がなさいますね。あれは、主キリストの代わりに名前を呼んでいるのです。そして向こう一年間の教会の歩みを、主が先頭に立って導き進まれるのです。勿論、今も先の総会にて始まったこの一年の歩みを、先頭に進まれる主イエスについて行っているのです。
私自身の全て、と告げました。あなたは今自分が何を必要としているか見抜いていますか。それが祈りの内容になっていますか。全部書き出して箇条書きにしてみて下さい。
罪を悔い改めることですか。主の慰めですか。失敗を恐れない勇気ですか。
今自分にどんな能力が与えられているのか見ぬふりをしないで理解していますか。
どんな希望と目標を持っているか明らかにできますか。
自分にしか出来ない献身が何かとらえていますか。主の必要とされるこのことに、この自分を遣わして下さいと神に申し出ていますか。献身とは、神の言葉に従う事、神に仕えることです。イザヤが、主の御声に応えた様に。「私がここにおります。私を遣わして下さい。」(イザヤ6:8)
こういう私自身の全てを受け止めて下さる、それが羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すということなのです。怪我をした羊をすぐに治す。頭に突き刺さるように伸びた角は直ぐに切り取る。新しい命をもつ雌羊や生まれたばかりのかわいい子羊には丁寧な世話をする。迷子になりそうな羊の前の方に石投げで石を投げて、そっちは駄目だよと教える。襲う動物から守る。(あ、ダビデの石投げを思い出しますね。サムエル上17:49)そういう羊飼いは、主イエス。守られる羊は私達。
羊はその声を聞き分ける。聞き分けるとある。盗人、強盗の声と聞き分けるということでしょう。5節の他の者達の声と聞き分けるという事でしょう。
聞き分けるの<分ける>という言葉はありません。しかし、見事な訳です。この訳し方は、み言葉の深い聴き方を教えてくれます。でもそれは次の礼拝で学び取ります。
福音書がここで伝えているのは、真っ直ぐに唯羊飼いの声を聞くという事です。
羊がすることは、いつも唯羊飼いの声に聞くことです。真っ直ぐに唯、羊飼いの声に聞くことに集中するのです。それが、豊かな草地に導く声だからです。
神は、この、み言葉を聴くことが、何よりも大切だと私達に打ち込んで下さいます。家族も家畜も失った時、「私は裸で母の台を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と告げたヨブに、神は言われます。「聞け、私が話す。」(ヨブ42:4)主イエスが言われました。「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る。」(ヨハネ5:24)福音を順序だてて伝えたパウロが教えます。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)
主キリストの言葉を聴く達人を目指す一週間としましょう。
天の父、私達の全てを引き受けて名を呼んで下さることを教えられました。そこに、自分の献身や、自分に与えられている賜物としての能力が関わっていることを示され、信仰の襟を正して、決断すること、確信すること、に取り組めます様に。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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