7月27日礼拝説教 「羊飼いの声って素晴らしい」
- 教会 松本東
- 7月28日
- 読了時間: 7分
『詩編』118:7~10
『ヨハネ福音書』10:7~10
短く祈ります。
天の父なる神様 羊飼いの譬によってもっとよく救い主キリストのことを知ることが出来ますよう。その主の御名によって祈ります。アーメン
イエスは又言われた。「はっきり言っておく。私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
少し角度を変えて例えを使ってご自分を示されます。今度も重要なお話です。はっきり言っておくと前置きがあるからです。この前の話でも主イエスが羊飼いに例えられていることはよく分かるのです。それでも、いつもの決まり文句がありません。「私は何々である。」という言葉です。
これは旧約では神がご自分を表す時の決まった表現です。神の自己紹介です。大切な御業を行われる時、この自己紹介をなさる。アブラハムに契約を与えようと現れた時こう言われました「私は全能の神である。」(創世記17:1)主イエスは8章で言われました。「私は世の光である。」(ヨハネ福音書8:12)神の自己紹介と同じ事が起こっていると覚えましょう。
この話はつい先日、目を開けて頂いた方に聞かせようとお語りになったものです。この方は見えるようになったあと、魂の目も開けて頂きました。つまり主キリストの救いが鮮やかに見えるようになったのです。「主よ、信じます」と言って跪いた(9:38)とは、魂の目が開けられて、救いが鮮やかに見えるようになったという事です。
この、救いの見え始めた方に羊飼いと羊の譬が話されている。その続きで、今日の聖書箇所では、明確に私は羊の門であると言われました。この様にご自分のことを示された事には、そこにどの様な願いが込められているのか。この後、私は良い羊飼いである、と言われます。門に例えたり、羊飼いに例えたりされるには、主のある願いが込められているのです。
信じますと信仰を表した目の前の主キリストをもっと知るようにと主は願っているのです。救いが見えるようになることは、主キリストが鮮やかに見えるようになることだと教えようとされたのです。この譬えには、主キリストがもっと見えるようになることが願われているのです。主キリストのことがどれだけ見えていますか。
私は羊の門である。9節にはもっと簡潔に私は門である。とあります。今日は門としての主キリストを知りましょう。
門は旧約聖書でも重要な意味を持っています。朗読した詩編118編では、神が「正義の城門」「主の城門」と歌われていますね。そして、主に従う人々はここを入る、と歌うのです。私は羊の門と言われた時、その詩編の言葉が実現したと告げたのです。私を通って入る者は救われる、と主は言われる。(9節)
もう一つ覚えたい詩編がある。詩編24編7~8節、城門よ、頭を上げよ。永遠の門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。これは、神が通られる門ということを歌っています。
主キリストは、私達に神と出会わせて下さるために神の通られる門となって下さる。更にもう一つ、私達がそこを通って入っていき、救いに与る門となって下さる。
さて、この門と主が言われる門には、出入りを止める柵とか扉が付いているのか。それとも左右に二本の門柱があるだけの解放されたものでしょうか。詩編では、城門とありました。そもそも3節に、門番は門を開き、とありました。柵や扉がしっかり付いている門です。
だから門は、羊を守る門でもありました。誰から、守ってくれるのでしょうか。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。と言われた盗人、強盗から守るためです。この盗人、強盗が実際に誰を指して言われたのでしょうか。意見が幾つか分かれます。8章に、姦通の現場で捕らえられた女性が連れて来られて、どう考えるかと問われたことを告げてします。主イエスは地面に何か書き始められたという。(ヨハネ福音書8:6)主は何をお書きになったのでしょうか。これも意見が幾つか分かれます。前後の遣り取りから推測は出来るでしょう。しかし意見が分かれるのは、聖書が書いていないのを各自が推測して判断するからです。
ここでも私より前に来た者としか伝えていないのです。こういう時は、それが誰かということを特定しなくて構いません。盗人、強盗が来たと受け止めれば十分です。
では、羊は盗み出されたのでしょうか。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。つまり羊は盗み出されなかったのです。羊は羊飼いの、素晴らしい声を聞き分けるのです(3節)。この声に引かれるようにして、門を出て、牧草にありつくのです。
羊が羊飼いの声は聞き分ける、盗人らの言うことは聞かない、と二つを比べて羊たちの反応を伝えています。
「聞く」という言葉には、じっくりと心を込めて聴くという意味がある。それとなく聞こえてきたというのとはまるで違う聴き方です。聞く、の意味が、もう一つある。聞き従うという意味もあるのです。聞いてそれによって、心と体が動かされることです。聞いて決断する、もある。聞いて一歩踏み出す、もある。聞いて過ちに気付いて悔い改める、もある。聞いて神の正しさに目を開かれる、もある。
そのうちの一つ、聞いて見分けることが教えられるのです。羊飼いの、素晴らしい声を聞き分けるとの訳は見事です。先ず、羊飼いの声と盗人の声を聞き分けるのです。次に、盗人の言うことは聞かず、羊飼いについて行くことを実行するのです。聞き分けること、そして、実行すること。
主キリストの御心を伝えることと、御心でない他のことを伝えていることを、私達は聞き分けねばならない。羊飼いの声と盗人の声を聞き分けるのです。主キリストの声と主キリストから私達を引き離す者の声を私達は聞き分けねばならない。神の声なのか、罪へと誘う声なのか聞き分けねばならない。信仰を教える声かそうでないか、信頼を教える声かそうでないか、神に自分を献げることを教える声かそうでないか、聞き分けねばならない。
聞き分ける二つの声が、神の声と私達の声となることがある。これは神の声か、自分の声かとなることがある。神のみ心を表す声か、自分の思いを表す声か、となることがある。ここは慎重に、静かに、聞かねばなりません。聖書から学びます。創世記の善悪の知識の木をめぐっての神のみ心と、アダム・エバの思いとの二つです。「決して食べてはならない」これが神のみ心。「見るからに美味しそうで、頭もよくなりそうよ。蛇もそう言ってたじゃない」これがアダム・エバの思い。そして二人は神のみ心ではなく、自分の思いを選び、実行したのです。信仰を教える声かそうでないか、私達は聞き分けねばならない。
もう一つ聖書から学びます。実は主キリストも、この二つの声の事態に直面されました。神のみ心か、自分の思いかという事態です。十字架の意味する深さ、重さを引き受ける時、主は祈りを捧げます。血の滴るような汗を流してその深さ、重さを覚えてお祈りを捧げます。「出来る事なら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」
これはご自分の思い。「しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」これが神の御心。神に自分を献げることを教える声かそうでないか、聞き分けねばならない。
主キリストの素晴らしい声を聞き分けて過ごす一週間であります様に。
天の父、救いを与えられたこと感謝いたします。救われていることが益々救い主キリストを鮮やかに知ることになるよう、今日のみ言葉を聴き留めることが出来します様に。み言葉を聴くことが、聞き分けてあなたの御心を聴き取り従うことになります様に。自分の思いではなく、御心のままにと祈ることが出来るように私達を教え導いて下さい。御心に従う者となりたいからです。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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