8月10日礼拝説教 「羊飼いに従う羊たち」
- 教会 松本東
- 8月13日
- 読了時間: 7分
『詩編』8:4~5
『ヨハネ福音書』10:22~30
天の父なる神様 羊飼いに従う羊たちの譬の意味を知ることが出来ますよう。主の御名によって祈ります。アーメン
神殿奉献記念祭 ここにだけ書かれている珍しい言葉です。主イエスの時代の凡そ150年前、ユダヤの北の国シリアに支配され神殿が汚されました。ユダ・マカバイが指導者になって、神殿を回復しました。偶像を取り除け、神を礼拝する本来の神殿を捧げた献堂式が行われました。2年間かかりました。それを記念するのが神殿奉献記念祭です。ユダヤの人達は、本当に嬉しかったのでしょう。この祭りを特に「光の祭り」と呼んでいました。ユダヤの人々は「光」と聞いただけで神の救いを思うことが出来ました。主は私の光、私の救い、といつも口ずさみほめたたえていたからです(詩編27:1)。私達も、「光」と聞いただけで神の救いを思うことが出来ます。「私は世の光である」と言われた救い主を信じているからです(ヨハネ8:12)。
主イエスはソロモンの回廊を歩いておられた(22節)。この多くの柱で支えられた二階付き廊下はソロモンの回廊と呼ばれていました。この回廊はこののち、初めのエルサレム教会の大切な、活動拠点になりました。使徒言行録が伝えています。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた、と(使徒5:11)。この廊下を歩いているとユダヤ人達が囲んで「もしメシアならはっきりそう言いなさい。」と強く言います。それは信仰を求める質問とは、大きくかけ離れたものです。十字架の主キリストに向かって、議員たちが「もし神からのメシアなら、自分を救うが良い。」と語り掛けて、嘲りののしった言葉と同じ種類のものです(ルカ23:35)。
このやり取りの中で信じないのは私の羊ではないからである、とあります。主キリストに敵対する人、救いの御業なのに悪霊の仕業だと断定する人、神の恵みを明らかにしているのに昔の言い伝えに背いていると反対し受け入れない人、を私の羊ではないと言われる。
そう言われた時の主イエスの心を考えてみよう。敵対し反対する人たちをただ裁いておられるのか。そうではありません。16節にこういう主の言葉がある。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊も導かなければならない。今は羊飼いの声に従わない、その羊も導かなければならないと言われる。この羊飼いは、イスラエルの羊だけでなく、それを越えて世界の羊を導くと言われる。そして、この時の羊だけでなく、それを越えて未来の羊を導くのです。世界を包み、時代を包んで導くのです。
ここで私の羊ではないと言われてしまっている人々も、今は羊飼いの声に従わないがその羊も導かなければならないと言われる者に含められているのです。敵対し反対することを止めて、主キリストの声が分かり、それに従う者になるようと導かれます。その代表のような人がパウロです。敵対し反対していました。主の弟子を脅迫し、殺そうと意気込むほどに、激しく敵対し反対していました。所が、ダマスコの町に近づくと突然の光に照らされ地面に倒れてしまう。そのままでいると自分を呼ぶ主キリストの言葉を聞く。目が見えなくなったところ、アナニヤという主の弟子が手を置いて主キリストを教え示すと、元通り見えるようになったのです。数日の後パウロは主イエスをあちこちの会堂で宣べ伝える伝道者になっていました。(使徒9:1~20)初めは羊飼いの声に従わなかった羊が、主キリストを教え示された時、主の羊とされ、そして主に遣わされて、新しい羊飼いになっていったのです。
私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う(27節)。14節にほとんど同じ主のみ言葉がありました。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(14節)並べてみると強調点が違うことが分かります。14節の場合は、命を捨てる良い羊飼いと羊の関係。27節は、主の羊と外の羊との違い、に基づいて話されています。
今日読むみ言葉では、私の羊はで始まっています。ほかの羊と違って、という含みがあります。私達は、主の羊と言われています。マリアは救い主を産むと告げられた時、「私は主のはしためです」と信仰を表しました(ルカ1:38)パウロは信仰の生き方を力強く教えています、「生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のもの」(ローマ14:8)ペトロが信仰を告白した時、主は言われた、「この岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16:18)
主の羊ということは、主のはしためということです。主のものとされていることです。主の教会とされているということです。
私は彼らを知っている、主キリストは私達を知っていて下さる。どの位知っていて下さるのか、私のものだと言って下さるほどに知っていて下さる。旧約時代にイスラエルの王サウルとダビデとの交代が起こりました。預言者サムエルが、エッサイの家に遣わされました。その息子から次の王を選ぶためです。初めにエリアブを見て、彼こそ次の王だと見るのです。すると、主なる神が言われます「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる。」(サムエル上16:7)主キリストが私達を知っていて下さるとは、私達の心を知っていて下さるということです。私達の、喜び・怒り・悲しさ・苦しさを持つ心を知っていて下さる。心が何を必要としているか知っていて下さる。私達の心の祈りも知っていて下さる。
そして、主イエスが知っていて下さる、とは、主イエスが動いて下さるということです。知って下さり、そこから解決へと進んで下さるのです。求めなさい。そうすれば与えられる。(マタイ7:7)と主はお勧めになり、約束をされる。心の祈りに、主イエスがかなえて下さると言う約束です。
これ迄は、主の方が知っていて下さるという事でした。では反対に私達はどう主を知ればいいのでしょうか。彼らは私に従うという。14節と見比べましたが、少し違う言葉に気付かれましたか。14節では羊も私を知っているとありました。別の言葉に言い換えられています。14節の知っている、がこの27節では、従っているに言い換えられています。
これは聖書の良い読み方を教えられる良い機会です。言葉の言い換えはその意味を深く教えてくれます。その一例として、詩編の27編9節を開いてみましょう。御顔を尋ね求めますと歌った後、それが、御顔を隠さないで下さい、怒らないでください、自分を退けないで下さい、助けて下さい、救いを与えて下さい、私から離れないで下さい、見捨てないで下さい、と七つの言い換えの祈りになっています。言い換えは互いの言葉の意味の深さを教えてくれるのです。御顔を尋ね求めることがなんと豊かな祈りであるかを教えています。
14節の伝える主イエスを知るとは、27節では従うことになっています。主の声を聞くとは、聞き従うことです。それと同じです。主を知るとは、従うという、救われた新しい生き方に変えられることです。主イエスを、自分の頭だけでなく、自分の生き方で知る、のです。主キリストを知っている生き方をすることです。主を知っている者の考え方をするのです。
だから、あなたの生き方を見ると、主キリストが見えるのです。あなたの考え方を聞くと、主キリストが見えてくるのです。
主キリストに従う、それが主を知ることだと聞きました。キリストという名はギリシャ語です。ヘブライ語ではメシアと言います。メシアとは救い主のことですが、言葉の意味は「油注がれた者」です。先程話題にしたサムエルですが、エッサイの家に行くのに、「角に油を満たして出掛けなさい」と神に命じられています。次の王にその油を注ぐためでした。(サムエル上16:1)
聖書が告げる、この油を注がれた者とは、預言者・祭司・王です。これを主キリストの三つの務めと言います。真の預言者の主キリストの言葉に聴いて生きるものとなります。真の祭司の主キリストによる罪に贖いによって、罪を赦されて生きる者となります。真の王の主キリストによって守られて生きる者となります。
主の御言葉を聞く、罪赦されていることを悔い改めをもって感謝する、守られている事を覚え確信のなかを生きる、そういう一週間を過ごします。
天の父、私達は、主のはしためです。主のものとされています。主の教会とされています。だからこそ、私達の生き方の中に、主キリストが見えてくる、私達の考え方のなかに、主キリストが見えてくる、その様な者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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