8月16日 「満たしてくださる神」 伝道師 金井恭子
- 8月17日
- 読了時間: 9分
歴代誌上29:10-13
フィリピの信徒への手紙4:15-23
4月からご一緒に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙も、今日で最後となりました。先週読みました4章10節以下から、パウロはフィリピの信徒たちが自分のために送ってくれた贈り物について語っています。けれども、パウロがここで目を向けているのは、贈り物そのものではありません。14節でパウロは「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言います。彼が喜んでいるのは、そこに表されたフィリピの信徒たちの姿です。同じキリストに結ばれ、同じ福音に生き、獄中にあるパウロの苦しみを覚え、その働きを共に担ってくれる兄弟姉妹の姿を「主において」喜んだのでした。
ところが、12節では「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言います。パウロはなぜこのような、この世的には失礼ともとれる言い方をしたのでしょうか。これは、支援を軽んじているわけでも「別に自分は困っていない」という強がりでもありません。神との関係に生きる人生を与えられた自分は、貧しくても豊かでも、そのことによって人生の土台が揺らぐことのない「秘訣」を授かっているという確信です。自分を真の意味で支えてくださっているお方はキリストである、ということを見失っていないのです。そして、自分の人生の鍵は自分の手の中で握っているのではなく、主イエス・キリストの手の中にあり、そこに人生を預けることによって、どのような境遇にあっても歩める者とされている、という告白なのです。
今日の聖書箇所15節には「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」とあります。パウロには、自分で働いて生活を支えることのできる職業もありました。ですから、テサロニケの教会においても、コリントの教会においても、経済的な支援は受けませんでした。それは主から禁じられていたわけでも、その権利がなかったからでもありませんでした。むしろ、ルカによる福音書10章7節で主イエスは、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を得るのは当然だからである」と、福音を宣べ伝える者はその働きによって報酬を得ることを認めておられます。「霊のもの」を蒔いたなら、「肉のもの」を刈り取る権利があるということ、すなわち聖霊によって与えられる御言葉、祈り、信仰による励ましを通して、食事や住まい、衣服や生活費など宣教者の働きを支える物質的援助を受ける権利があるということです。
しかしパウロは、その権利を用いませんでした。そんなパウロに、フィリピの教会は、彼が他の地域で伝道をしていた時も、彼の窮乏を救うための支援を送ってくれたのです。新共同訳聖書では「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会」と訳されていますが、聖書協会共同訳では「会計を共にしてくれた教会」と訳されています。これは現代の共同口座のような意味合いではなく、フィリピの教会が、パウロの福音宣教を自分たち自身の働きと受け止め、経済的にもそこに参与した、ということです。まさに、自分事として受け止め、福音の働きを共に担ったということでしょう。
そんなフィリピの教会に、パウロは17節で「贈り物を当てにして言うのではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と語ります。この「あなたがたの益となる豊かな実」は、聖書協会共同訳では、「あなたがたの帳簿を黒字にする実り」と訳されています。原文にも勘定や利益を思わせる比喩があり、パウロが敢えて経済の用語、商売の用語を使っているのが印象的です。
ところが、18節では彼の言葉の世界が突然変わります。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」と。帳簿上の「支出」だったものが、神の前では「供え物」となり、パウロへの送金が、神に捧げられた礼拝として受け止められているのです。
さらに19節では、「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と語ります。ここでは、地上で行われるような取引はありません。神によって満たされた人々が自ら献げ、その献げ物を神が喜んで受け、さらに神ご自身が彼らの必要を満たし支えてくださる、という豊かな恵みの循環があります。
パウロが求めていたのは贈り物そのものではありませんでした。贈り物を通して、フィリピの人々の信仰が実を結び、その実りが神の前に豊かに積み重ねられることを求めていたのです。言ってみれば、貸し借りの帳簿ではなく、恵みの帳簿へと書き換えられているのです。
私たちは、与えたら減る、受け取ったら返さなければならない、と考えがちです。贈り物でさえ、知らず知らずのうちに相手への負い目や、返礼への期待を伴うことがあります。しかしパウロがここで語っているのは、そのような貸し借りの関係ではありません。19節の「あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」という言葉も、私たちの願いどおりのものが、何でも与えられるという約束ではありません。パウロ自身、牢獄からこの手紙を書いています。苦しみが取り除かれ、自由になり、何不自由のない生活を与えられてからこの言葉を語ったのではありません。苦しみのただ中でなお、「わたしの神は、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださる」と語ったのです。
神が満たしてくださるものは、私たちが欲しいと思うものと、いつも同じであるとは限りません。しかし神は、ご自分の栄光の富に応じて、私たちが神と共に生きていくために本当に必要なものを、キリスト・イエスによって満たしてくださいます。状況が変わらないときにも、そこで生きる力を与え、孤独の中には共にいてくださり、行く道が見えないときには御言葉によって、進むべき一歩を示してくださいます。そして何よりも、御子イエス・キリストによる救いを与えて、私たちを神のものとしてくださいます。
今日、併せて読みました歴代誌上29章で、ダビデはこう祈りました。「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる」と。ダビデもまた、自分たちが神殿のために豊かなものを献げたとき、その豊かさの源が自分たちにあるとは言いませんでした。すべてのものを支配し、富も力も与えてくださる神を仰いだのです。
フィリピの教会の人々も同じです。彼らがパウロを支えることができたのは、単に経済的に余裕があったからではありません。神に支えられ、キリストの恵みに満たされていたからこそ、福音のために献げる者とされたのです。そして、その献げ物を神は喜んで受け取ってくださいました。ですから、献げる者が上に立ち、受け取る者が下に置かれるのではありません。献げる者も受け取る者も、共に神から与えられ、共に神によって支えられているのです。そこでは「私がこれだけしてあげた」という誇りも、「これだけ受けたから返さなければならない」という負い目もありません。献げる者も受ける者も、共に「満たしてくださる神」を仰ぎ、神の恵みに感謝するのです。
だからこそパウロは、20節で「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と語ります。フィリピの人々の献げ物を称賛して手紙を閉じるのでも、自分の働きの成果を誇って終わるのでもありません。すべてを与え、すべてを支え、福音の働きをここまで導いてくださった父なる神に、すべての栄光をお返しするのです。
そして21節以下には、手紙の結びの挨拶が記されています。「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください」。同じ救いにあずかり、主によって養われている者としての挨拶が、パウロと共にいる兄弟たちから、またすべての聖なる者たちから、フィリピの教会へ送られます。中でもパウロは、「特に皇帝の家の人たちから」と記しています。「皇帝の家」とは、皇帝の家に属し、その仕事に仕えていた人々を指すと考えられます。パウロを牢獄につないでいる権力のただ中にさえ、キリストを信じる者たちがいたのです。人の目には福音が閉じ込められたように見えても、獄中にいるパウロを通して、福音はなお前進し、思いがけないところにまで届いていました。
思えばこの手紙の初めで、パウロは「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った」と語っていました。宣教に伴う苦しみも、牢獄も、主の福音を止めることはできませんでした。そして今、そのことを証しするかのように、「皇帝の家の人たち」からの挨拶が届けられています。
こうしてパウロは、最後に「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」と祝福して、この手紙を閉じます。フィリピの教会を本当に支えるものは、パウロの存在でも、フィリピの信徒からの献げ物でもありません。主イエス・キリストの恵みです。
私たちもまた、自分の力だけで信仰に立ち続けるのではありません。私たちの教会も、人間の力や持っているものだけによって支えられるのではありません。私たちに先立って恵みを与え、必要を満たし、福音の働きに参与する者としてくださる神によって支えられています。
この四月から、私たちはフィリピの信徒への手紙を共に読んでまいりました。喜びのときにも苦しみのときにも、互いを思い、同じ福音のために心を合わせ、キリストに倣ってへりくだり、主にあって歩むようにと御言葉から教えられてきました。その歩みを最後まで支えるのは、私たちの決意の強さではありません。「あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださる」と約束された神の真実です。
私たちは、すでに主から与えられている恵みを覚えつつ、それぞれに託されたものをもって互いに仕え、福音の働きを共に担ってまいりたいと思います。私たちの献げるものが、どれほど小さく見えるとしても、神はそれを喜んで受け取り、香ばしい供え物として用いてくださいます。
恵み深い天の父なる神様。
私たちをいつも支え、必要なものを満たしてくださるあなたの恵みを、今日も御言葉を通して覚えることができましたことを感謝いたします。
私たちは、自分の力や決意によって歩もうとする者ですが、どうか私たちの目をいつも主イエス・キリストに向けさせてください。すでに与えられている恵みを覚え、それぞれに託されているものをもって互いに仕え、あなたの福音のために用いられる者としてください。
私たちの思いを超えて必要なものを満たしてくださるあなたに信頼して、これからの日々を歩ませてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。 アーメン。
