8月17日礼拝説教 「主イエスの業のなかに神の御業を見抜く」
- 教会 松本東
- 8月21日
- 読了時間: 7分
『詩編』82:6
『ヨハネ福音書』10:32~42
天の父なる神様 聖書の伝える「美しさ」の意味が分かりますように。また、主イエスの業のなかに神の御業を見抜くことが出来ますよう。主の御名によって祈ります。アーメン
ご自分に迫る人達の考えは、聖書の教えとは違うものですと主イエスは答えています。この人達は、主イエスが、自分を神としているから石で打ち殺そうと 考えたのです。それに対して主は言われます。聖書に、神の言葉を受けた人達が、「神々」と言われている。聖書の詩編の言葉を伝えて、神の働きを任せられた人達でさえ、「神々」と言われている。その詩編の言葉は、廃れることはあり得ない、だから、自分を神としているから石で打ち殺そうと するのは、間違いですと主イエスは指摘するのです。
神が、人を神と呼ぶとは、その人の信仰や働きを非常に高く評価されていることを表しています。最高の誉め言葉です。その人の名誉を讃える呼び方です。神になった、というのではありません。神に遣わされる人、神から任せられた働きをする人、そういう者を褒める表現です。イザヤは、それを、他の言葉で讃えています。いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。(イザヤ52:7)これはパウロがローマ人への手紙の中で引用しました。神は、私達を救う言葉を人に与えます。ヨハネでは、神の言葉を受けた人、と言われています。その救う言葉を皆に運び届ける使いの人を立てます。その使いの人を、良い知らせを伝える人と言っています(ローマ10:15)。そういう人を神はどの様に評価されるのでしょうか。そういう使いの人の働きをどの様に高められるのでしょうか。
詩編では、あなた達は神々と呼んで、神の高い評価を歌いました。イザヤとパウロは、良い知らせを伝える者の足は美しい という言葉で名誉を与えました。美しいという言葉で神による高い評価を表そうとしたのです。
美しいという言葉は大変珍しいみ言葉です。新約聖書では数回しかありません。パウロの言葉を入れてもわずかです。この言葉はとても希少価値があると言えます。
「美しい」という言葉が新約聖書のどこで告げられているか、当ててみますか。神殿に「美しい門」がありました(使徒3:2)。それ以外では如何?ヒント:ある人物を説明するのに使われています。「美しい誰か」という具合です。2回、現れます。-神の目に適った美しい子でした。(使徒7:20)その子の美しさを見、王の命令を恐れなかった。(ヘブライ11:24)生まれたばかりの幼な子モーセのことです。
赤ちゃんはかわいい、見るだけでも嬉しくなってしまいます。それを聖書が美しい子 と呼ぶとき、それは大きなことをその子の中に見ることになります。神に遣わされる人、神から任せられた働きをする人、そういう人になることをその子の中に見るのです。美しい、神のみ心を背負う人になるのを見るのです。美しい、神の救いの御業を担う人になることを見るのです。
モーセを覚えます。モーセの美しさは、何によって明らかになりましたか。「行きなさい。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」という神の命令によって、明らかになったのです。(出3:10)
モーセの両親は、我が子の中に神の目に適った美しい子を見ることが出来ました。親に出来る非常に大事なことです。主の体である皆さんは、多くの子供たちを持つ、信仰による両親です。幼い子供もいる。私達より年齢の進んだ方もいる。あなたは、その子供たちの中にある美しさに気付いていますか。それが見えていますか。見えていて、それを祈り求めていますか。美しい、神のみ心を背負う人になるのを見るのです。美しい、神の救いの御業を担う人になることを見るのです。今日から、この信仰による子供たちの為に祈る私達の教会になります。
父の業を、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい(37~38)。主イエスは、この前になされた御業は、神の御業だと説明されています。目が開かれ、見えるようにされたのは、神の業を行っているというのです。その最近の業だけでなく、今までなされた御業は、全部、神の恵みの御業を行ってきたと言われるのです。
単なる人の業とは違うのです。人が頑張れば出来る、そういう働きとは違うのです。確かに人は相当大きなことが出来ると言えば言えそうです。科学と技術の大きな進歩で人は宇宙旅行が出来るようになってきています。幾つかの感染症をなくしてきました。しかしそういう、人が自分の能力を発揮して出来るような業ではありません。人の業、それは、人に出来る程度の業、人の力に可能な程度の業です。このぐらいなら出来そうだと思える業です。
主イエスは、神の業を行われているのです。目の見えない方の目を開く、これが神の業だという事は、この人達はよく分かっていたのです。本人からも、目を開く、それは神の許から来られたのでなければお出来にならなかった、と教えられています。(9:33)皆さんがそれが分からないのは、実に不思議です、とまで言われています。(9:30)
それに加えて、ユダヤの人であれば、目が開かれ、見えるようにされることが神の業であることを聖書から学びとっていた。それを教わり、覚えとり、目を開く救い主の到来を祈っていました。特に聖書の先生たちは心に刻みつけるように覚えていました。皆さん、掛け算の九九が言えますか。「さんく?二十七。」そのぐらい鮮やかに、「見えない人の目を開くのは?神の御業」、と答えることが出来ました。主は、あなたを形創り、あなたを立てた。見ることのできない目を開くために。(イザヤ42:6~7)イザヤの言葉です。
その業を信じなさい(38節)。主イエスの御業を信じるという言葉はヨハネ福音書の特徴を表します。御業を信じるとはどういうことか。特に主キリストを信じなくても、その業を信じなさい、と言われているのです。
信仰は、主キリストを信じることです。教会の信仰として使徒信条を礼拝毎に告白しています。そこでは、「我は、その独り子、我等の主イエス・キリストを信ず。」と信仰を表しています。
パウロとテモテがフィリピの町で伝道していた時のこと。占い師の件で訴えられ投獄される。獄中で二人は讃美歌を歌う。地震で牢の戸が開いてしまい、囚人たち皆逃げてしまったと思い込んだ看守が責任をとって剣で死のうとする。パウロがそれを押しとどめる。看守が問う、救われるためにはどうすべきでしょうか、と。パウロが答える、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:16~34)信仰とは、主イエス・キリストを信じることです。これが信仰の土台、基本と言えます。信仰の中心とも言えます。信仰の頂点と言ってもいいでしょう。
そうすると、主の業を信じるという事は、信仰の出発点と言えます。頂点まで行くために、この主の業を信じるという事から始めることになるのです。中心が分かるようになるために、信仰の生き方を始める、それが主の業を信じるという事です。
信仰の出発点と言いました。ただし、それは一度すればいいというものではありません。主の御業を聴き続けます。繰り返し、主の御業を信じます。繰り返すのですから、繰り返し出発するのです。
主の御業の中に、何を見抜いたら、御業を信じると言えるでしょうか。11章はラザロの復活の御業で始まります。罪の贖いとしての十字架の御業を19章で聴きます。主の御業の中に何を見るのでしょうか。
私の業を信じなさいと言えたのは、ご自分が父なる神の御業を行っているからなのです。それは自分から出た人の業ではないのです。主イエスは、ご自分の生き方の目指すことが自分の意志を通すのでなく、神のみ心を行うことだと言われました。私は自分の意志ではなく、お遣わしになった方の御心を行う。(ヨハネ5:30)
主の心の中にあるものは、神の御業を行うこと、神の御心を行うこと、なのです。
私達教会は、主の御業の中に、神の御業を見抜くのです。人には出来ないことをなさる神の御業を見抜くのです。自分の出来事の中に神の御業を見抜いた方を、信仰の先輩として覚えたい。そんなことはあり得ません、と答えたマリアに神のみ使いが告げます、神に出来ないことは何一つない。そのみ言葉によって、自分の中に神の御業を見たのです。神の御業を見る、お言葉通り、この身に成りますようにと信仰を告白し、表すのです。(ルカ1:34~38)
天の父、我が子等の美しさに気付かせて下さい、本当に美しいのですから。教会の子供たちが、美しい、神のみ心を背負う人になるようにどうぞ御業を進めて下さい。
私達は、自分に出来そうなことを計画します。しかし、伝えられた主の業の中に、人には出来ないことをなさる神の御業を見抜くことが出来ます様に。お言葉通り、この教会に成りますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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