8月23日 「福音が始まる」 伝道師 金井恭子
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イザヤ書40:3-11
マルコによる福音書1:1-11
私たちが4月から共に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙は、先週の主日礼拝で最後となりました。その中で、「教会はキリストの体であり、私たちは主にあって一つとされる共同体である」ということを聞いてまいりました。「では、そのキリストとはどのようなお方で、そのお方に従って歩むとはどういうことなのか」ということを、本日からマルコによる福音書から聞いてまいりたいと思います。
新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。マルコによる福音書は、その四つの福音書の中で一番最初に書かれたものと考えられています。マタイとルカはそれぞれがマルコの記述を補うなど手を加えたものだとされています。そして、ヨハネもまたマルコの存在を知っていたと推測されます。
マルコとは一体どういう人物だったのか。
伝承によれば、彼は十二弟子の一人であるペトロの伝道旅行に同行していた人物だと言われています。ペトロの手紙一の5章13節には「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています」と記されています。ここでの「バビロン」とはローマのことを指すと考えられており、そこでマルコも行動を共にし、「わたしの子」と呼ばれていたのです。彼はペトロから主イエスの教えや様々な出来事、また初代教会の人々に語り継がれてきたことを伝え聞いていたはずです。ですから彼は、ペトロの死後それらを編集し、まとめたのだと伝えられています。そしてそれは、主イエスの十字架と復活の出来事から約30年後の、紀元60年代〜70年代の頃であったろうと推測されています。
この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。
マルコは、「福音」とは何かをこれから語ろうとしているのです。「福音」とは、元のギリシャ語で「エウアンゲリオン」。「良き知らせ」という意味です。私たちキリスト者は「福音」と聞くと、なんとなくその意味を知っていますし、一般的な国語辞典にも「キリスト教で、キリストによって人類が救われるという、喜ばしい知らせ。またそれを伝える教え」と記されています。けれども、ペトロとマルコがキリストの伝道をしていたこの時代、「福音」とは戦争で勝った時や皇帝の即位、後継者の誕生の際に使われる言葉でした。この時代の人々の命や生活に大いに影響のある「良き知らせ」のことを表していたのです。
ローマ帝国が支配する時代の中に生きているマルコはしかし、この「福音」という言葉を用いて「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出したのです。それは、このイエス・キリストというお方がこの世に来てくださったことこそが、真の平和と救いを実現する王が来られた「良い知らせ」であり、このお方こそが自分たちにとっての「勝利の知らせ」なのだと示しているのです。この「福音」について、マルコは2節〜3節で預言者イザヤとマラキの言葉を引用しています。
見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ』
ここで「わたし」と語っているのは神です。「あなた」とは主イエスのこと。そしてその道を整えるために遣わされる使者として、マルコはヨハネを示しています。ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者」と呼ばれ、イエス・キリストの登場に先立つ者として「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」と叫びます。これは「悔い改める」ことを促しているのです。そして4節では、ヨハネが人々に罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことが記されています。
この「悔い改め」とは、何でしょうか。単に後悔するとか反省するとかいうようなことではありません。「神さまへと心を向け、神さまへと立ち帰る」ことを言います。ヨハネは、今こそ罪を悔い改め、そのしるしとして洗礼を受けることを人々に勧めたのです。
5節に「ユダヤ全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。6節にあるように、ヨハネが預言者エリヤとそっくりの服装(列王記下1:8)をしていたことから、彼を預言者とみなしていたのかもしれません。
ヨハネは7節で「わたしよりも優れた方が、後から来られる、わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言います。当時、履物の紐を解くのは非常に身分の低い人の仕事とされていました。ですからヨハネは、自分はそのお方の前でそのような仕事をする価値さえないほど、後から来られるお方は優れたお方なのだと言うのです。
先ほどお読みしましたイザヤ書40章は、神に選ばれし民イスラエルが戦争に敗れて国を失い、バビロンという場所に連れて行かれた苦しみを背景として語られた預言です。預言者は、国を失い苦しみの中にあるイスラエルの民に向かって、やがて主なる神が来られ解放してくださり、イスラエルを回復させてくださるという預言をしたのでした。40章9節では「良い知らせ」について記されており、10節では力を帯びて来られた神がご自身の御腕をもって民を治めてくださるという、勝利をもたらす「良い知らせ」を伝えています。
この知らせを、イザヤ書40章の預言と重ねて聞くと、さらに大切なことが見えてきます。
単に状況が良くなるという知らせではなく、「あなたたちの神が来られる」という知らせだったのです。神が来てくださる。神がご自分の民を顧みてくださる。神が力をもって支配してくださる。そして40章11節では、その神が羊飼いのように群れを養い、子羊を懐に抱き、導いてくださる姿が語られています。
そしてマルコは、その「良い知らせ」の始まりを、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始めるのです。つまりマルコが伝えたいことは、旧約聖書を通して語られてきた神の約束が、今動き始めた。「主が来られる」と言われていた、その時が始まった、それこそが「福音」である、ということなのです。
それを伝えるために、まず一人の人が荒れ野に現れました。洗礼者ヨハネです。ヨハネは自分自身を人々の目の前に大きく見せようとはしませんでした。「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と語ります。ヨハネ自身は、道を整える者にすぎません。しかし、その「道を整える」という働きは、とても大切な働きでした。道を整えるということは、神が来られることを知らせることです。そして、そのためにヨハネが人々に求めたのが「悔い改め」であり、そのしるしとしての洗礼を授けていたのです。
ここで驚くべきことが起こります。
9節を見ると、「そのころ、イエスがガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とあります。「自分よりも優れた方」と言われていたお方が、実際に来られた。そして、その方は王宮からでも大きな都からでもない、ナザレという無名の小さな町から、一人の人として来られたのです。そしてさらに驚くことに、ヨハネが罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたその中に、主イエスご自身が入っていかれます。
マルコは、ここで主イエスがなぜ洗礼を受けたのかを説明していません。しかし、そのことを説明しなくても、私たちに一つの姿を見せてくださっているのではないでしょうか。
主イエスは、人々から離れたところに立って「悔い改めよ」と命じるだけのお方ではない。私たちのところまで来てくださる方である、というお姿です。私たちと同じ人間の歩みの中に入ってくださるお方。そのお方の歩みが、ここから始まるのです。
そして10節に、印象的な出来事が記されています。
「天が裂けて、聖霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。
「天が裂けた」とマルコは記します。神がおられる天から、聖霊が鳩のように主イエスの上に降ってくるのです。そのとき、天から声が聞こえます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神ご自身がこの世界に働きかけてくださるということを、マルコはこのような印象的な出来事として描いているのでしょう。ここで、1節に記された「神の子イエス・キリスト」という宣言が、神ご自身の声によって確かめられるのです。ヨハネは「わたしよりも優れた方」と言いました。しかし今、神ご自身がその方について証しされます。
「あなたたちの神が来られる」という言葉は、今も私たちに向かって語られています。
そしてマルコは、その言葉の成就の始まりを、イエス・キリストに見ています。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これは、昔話の始まりではありません。私たちのところにも、神の救いが訪れるという知らせです。そして、その福音を聞いた私たちに求められているのは、神の方へと心を向けることです。「主よ、私のところへ来てください。」「私の歩む道を導いてください。」そう祈るところから、私たちの新しい歩みが始まります。
主イエスは、私たちが自分の力で探し当てなければならない方ではありません。私たちが迷っているときにも、私たちが神から離れているときにも、私たちが自分自身の罪や弱さを抱えているときにも、私たちのところまで来てくださるお方です。そこに、私たちにも向けられた「福音」を見ることができるのです。
「福音が始まる」。
それは、イエス・キリストの物語が始まるというだけではありません。
神が私たちのところへ来てくださる、その救いの出来事が始まるということです。
今日、私たちはその始まりを聞きました。そしてこれから、マルコによる福音書を読み進めながら、主イエス・キリストがどのようなお方であり、何を語り、何をなさり、なぜ最後に十字架へと歩まれたのかを、一つ一つ聞いていきたいと思います。
その歩みの中で、私たちは繰り返し同じ福音を聞くことになるでしょう。神は遠くにおられるのではない。神は、私たちのところへ来てくださる。その神の愛を示してくださる方が、イエス・キリストです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」というこの言葉から、共に聞き始めてまいりましょう。
恵み深い天のお父さま。
今日、私たちに「神の子イエス・キリストの福音の初め」という御言葉を与えてくださったことを感謝いたします。
私たちが迷うときにも、弱さを抱えるときにも、あなたは私たちのところに来てくださいます。どうか今日聞いた御言葉を私たちの心にとどめ、あなたへと心を向けて歩む者としてください。
これから始まるマルコによる福音書の歩みを通して、私たちが主イエス・キリストをより深く知り、その恵みに生きることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。
