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8月24日 礼拝説教 「地上の生は希望に向かう」

『詩編』52:10~11 

『ヨハネ福音書』11:1~16

天の父なる神様 マルタ、マリアの願い方から執り成しの祈りを学べますように。また、病気が死では終わらないと言う主のみ言葉の意味を理解できますように。主の御名によって祈ります。アーメン

 

姉妹たちはイエスの許に人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。ここに登場する三人は兄弟姉妹です。兄か弟か、姉か妹かという関係はよくは分かりません。名前の意味は分かります。マルタは「婦人、女主人」。マリアは「高められた者」。ラザロは「神が助けられた」。三人はエルサレムと言っていいほど近いベタニアに住んでいます。

ラザロの具合がとても悪く、使いの人を送って主イエスに知らせたのです。この方の知らせ方にある特徴があります。ラザロが病気です、とか、マリア、マルタの兄弟ラザロが病気です、とは知らせていません。名前を挙げる代わりに、あなたの愛しておられる者が病気なのですと伝えています。この方は使いの者です。だから自分で言葉を選んだのではありません。伝えられた通りに話したのでしょう。

 

マルタ、マリアは、兄弟ラザロが主イエスに愛されていることが深く、確かに、分かっていました。あなたの愛しておられる者というだけで、それがラザロだとお分かりいただけると思っていたのです。

マルタ、マリアは兄弟ラザロのことを、主に愛されている兄弟だと分かっていたのです。これは私達に何かを教えようとしていませんか。私達には多くの兄弟姉妹がいる。信仰による兄弟姉妹です。信仰によるとは、主キリストに結ばれている兄弟姉妹ということです。(コロサイ1:2)主にある兄弟姉妹のことを、主に愛されている兄弟姉妹だと分かりましょう。

兄弟が病気ですと主に伝える。これも何かを教えようとしている。兄弟の受けている試練を主イエスに訴えるように教えているのです。兄弟姉妹が緊急にとしていることがある、非常に苦しんでいる、大きな悲しみの中にある、重い悩みの中にある、そう言って、主に伝える。それを執成しの祈りと言います。

 

テモテへの手紙に、第一に勧めると言って、4つのことを勧めています。その4つのことを全ての人々の為に捧げなさいと言うのです。(テモテ一2:1)捧げるというのですからそれは祈りです。聖書はあちこちで祈りを教えてくれます。今日はテモテ書の祈りです。―思い出したり、推測したりして答えてみませんか―願いと祈りと執り成しと感謝の4つです。ここに、執り成しの祈りがあることを強く覚えます。

ヨハネ福音書の11章は、主の十字架と復活を前にした重要な御業、ラザロの復活を告げるところです。神の御業ですから、マリア、マルタの言葉によって事が成ったという事はありません。二人の執り成しの祈りが、神の計画の中に取り入れられて、神の御業が行われたのです。兄弟が病気ですと主に伝える、兄弟姉妹が助けを必要としていますと主に伝える、主の教会が苦しんでいますと主に伝える、その執り成しを救いの御業の中に取り入れ、救いをお与え下さるのです。どうぞ、執り成しの祈りの人となって下さい。

執り成しの祈りは、聖書が教える祈りとして大きな特徴を持っています。他の人の為に祈ることを教えています。家族の為、勿論祈ります。教会の兄弟姉妹の為にも、祈ります。今も戦争で激しい痛みを負う多くの方の為に祈ります。

では、戦争を起こしている者の為に祈りますか。主イエス・キリストは、初めて聞くときには、とても理解できない勧めをされます。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43)敵と思える人、迫害する人のために祈る、そういう祈りがあることが、聖書の祈りの特徴なのです。

人のために祈ること、執り成しの祈りをすること、それはその人の救いを求めることに集中します。神の救いの御業がその人に起こることを祈るのです。

迫害者のために祈るのは、その人も天の父の子となるためですと主が言われています(マタイ5:45)。

 

執り成しの祈りの仕方を覚えます。マリア、マルタに遣わされた人は、二人に教えられたとおりに主イエスに伝えます。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。何か少し舌足らずという感じがしませんか。

マルコ福音書に、ヤイロという人のことが伝えられています。お嬢さんが病気なので、主イエスにお願いをします。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。(マルコ5:23)主が家まで来て下さること、そして娘に手を置いて下さること、をお願いしていますね。これと比べてみると、マリア、マルタの願いはもっと単純です。主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのですというものです。それだけです。これは願いというよりも、一つの報告のようにも感じます。こうして下さいという願いを伝えていません。ただ主の愛して下さっている者が病気です、と伝えるだけです。ここにマリア、マルタの信頼する心が分かります。主にお伝えするだけでいいと思ったのです。その知らせで自分たちの願いと期待を、主は応えて下さると信じたのです。言葉を多くしなくてもよいと思ったのです。

子どもが進路で悩んでいます。母が入院しています。お昼がなくて子供食堂で食べる子供達がいます。一人で生きる年老いた方がいます。多くの差別に苦しんでいる人がいます。戦争で家族を失っている方がいます。この様な、主にお知らせする祈りも捧げる者になりたい。

 

友達のために粘り強く祈ることの大切さを主は教えます。友達のしつこさのゆえなら必要なものを何でもあげるでしょう、と教えています。(ルカ11:8)神に求め続けることの大切さを教える譬話です。友達のための祈りを止めないという教えです。

それとは違う見方で祈りが教えられます。人に見せる見せかけの長い祈りには気をつけなさい、と言われます。(マルコ12:40)祈る時は、くどくどと述べてはならない、と言われます。(マタイ6:7)見せかけの祈りだと、信頼が伴わない祈りになります。祈りを届ける神への信頼がない、長い祈り、くどくどいう祈りになってしまうのです。

もう一度マリア、マルタの願いを振り返ってみましょう。主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。兄弟ラザロを愛していて下さる主イエスを信じています。その信頼の強さを表すように、短く祈っています。主イエスがこのことを知っていて下さればそれでいい、と信頼するのです。

短い、信頼にあふれる願いでした。主はどの様に受け止めて、聞いて下さったのか。イエスは、それを聞いて言われた。この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)ラザロの病気が、苦しみで終わらず、死で終わらないと言われています。

 

死について聖書は二つの見方をします。救われた者にとって、死は神の祝福に入れられることです。だから、死を恐れないのです。主イエスの隣りで十字架に掛けられた強盗の一人が「イエスよ、御国においでになる時には私を思い出して下さい」と信仰を表しました。直ちに主が答えられた「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」(ルカ23:41)楽園はエデンの園を思い出します。天地創造の後、第七の日を祝福し聖別されたのです。(創世記2:3)楽園に入ることが、神の祝福に入ることなのです。

私達は、今地上で生きていると言う時の所属する国籍は様々です。私は日本です。教会堂の向かいに住む青年はネパールです。そして救われた人の信仰の国籍は、誰でも、いつでも、天にあります。私達の国籍は、主の言われたあの楽園、隣りの十字架の人の言うあの御国にあるのです。フィリピへの手紙では、私達の国籍は天にあり、と教えています(フィリピ3:20)。

 

それと別の見方から聖書を読んでみます。死は罪に対する神の裁きです。罪人にとっては死は刑罰です。罪の支払う報酬は死である、と言われている通りです(ローマ6:23)。罪に対する裁きが死です。罪に対する刑罰が死です。

一方で、死は罪に対する神の裁きと言う。また一方では死は神の祝福という。何が起こったのか。裁きと刑罰の死を、主キリストが引き受け、担って下さったのです。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」と言うことが出来たのは、主がその者の罪に対する神の裁きをお受け下さっているからです。病気は死で終わるものではないと言うことが出来たのは、ラザロの罪に対する神の刑罰をお受け下さるからです。私達の国籍は天にありと私達が言えるのは、主が私達の罪に対する神の裁きをお受け下さっているからです。

 

天の父、マルタ、マリアの様に家族の救いを祈る者として下さい。隣り人の救いために祈る者として下さい。教会の働きのために祈る者として下さい。世界のために祈る者として下さい。御国に入れられる希望を持てる根拠である主キリストの贖いを信じます。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 

 
 
 

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