8月2日 「寒く凍えているペトロ」 牧師 伊藤節雄
- 8月14日
- 読了時間: 7分
『ヨブ記』37:6~13
『ヨハネ福音書』18:15~18,25~27
祈ります。
天の父、ペトロが三度主イエスを知らないと答えたことの意味をお教え下さい。
主の御名によって祈ります、アーメン。
捕らえられてしまった主イエスは、元大祭司アンナスの屋敷に連れて行かれました。この後、総督ピラトの所へ連れて行かれます。そして死刑の判決をお受けになる。判決の通り十字架につけられ、息を引き取られ死を迎えます。墓に葬られ、三日目に復活される。
十字架を中心にして、主の復活前までの期間を受難の期間と言えます。福音書が丁寧に書き記して、主の受難に込められた喜びの知らせを何としても伝えたいという強い願いを込めたのです。
主のご受難を丁寧に書き記したと申しました。どの位丁寧に、とお思いですか。勿論、そこに伝えたいと願われている救いの重さを考えれば、ページの多さや文字の多さでは、測りきれません。しかし、福音書の願いの強さが自然にページの多さや文字の多さにあらわれています。ヨハネ福音書の1章から12章迄右手で挟むようにして持ってみて下さい。13章から19章迄左手で挟んでみて、そしてページの量を比べてみて下さい。お気付きになりますね。およそ3:1になります。ヨハネ福音書は、主のご受難の記録に全体の4分の1をあてているのです。
捕えられ連行される主イエスについて行ったのは11弟子全員ではありません。二人だけでした。シモン・ペトロともう一人の弟子でした(15)。ペトロは名前が明らかにされています、がもう一人は名前が書かれていません。もう一人の弟子とだけです。誰だと思いますか。ヨハネ福音書を書いているヨハネではないかと言う答えが一番多いことでしょう。主を見捨てずついて行ったのは、他でもないこの「私」だと名乗る程厚かましい者ではないと我が身を慎み、控えたのではないか、ということです。しかし、確定は出来ません。
もう一人の弟子は誰か。今迄多くの提案がなされてきました。①遂に名前の分からず仕舞いの弟子②ニコデモ(夜主イエスのもとにやってきて信仰を求めたユダヤの議員)③アリマタヤのヨセフ(ユダヤの議員で、主イエスのお体を十字架から降ろし、自分が用意した墓に埋葬した人)④イスカリオテのユダ。
こういう時は、確定せず、何故そう言う提案がなされているかについてあれこれ思い巡らせればよいのでしょう。
主のご受難の期間に起きた多くの出来事の中でも私達の心を捕え、思いを引き付けるものがペトロの答えです。門番の女中に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは「違う」と言った(17)。人々が「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った(25)。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人-マルコス(10)-の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した(26~27)。ペトロの答えは、「私はイエスを知らない」というものでした。弟子ではない、主イエスに従う者ではない、というものでした。主イエスを信じるものではない、と答えたのです。
これは主イエスが13章で予告されたことが実現したことを告げています。イエスは答えられた。「私の為に命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言う。」(13:38)
主の受難に込められた喜びの知らせを伝えようとしているのです。このペトロの答えに喜びの知らせを聴き取ることが出来ますか。ペトロは「違う」と言った。ペトロは、再び打ち消した。この「違う」「知らない」という答えに福音を聴き取ることが出来るのか。
ペトロが三度も主を知らないと答えてしまったことをどう受け止めたらいいのか。ヨハネは、これをどのような福音として伝えようとしているのか。
鶏が鳴くのを聞いたペトロは、主イエスの予告された御言葉を思い返し、激しく泣いたことを他の福音書は伝えています。ペトロの泣く声が聞こえそうです。流れ落ちる涙が見えそうです。その激しい泣き声と涙は、ペトロの悔いの強さと主イエスを知らないと言ってしまった自分の過ちを悲しむ悲しみの強さを表しています。ここに込められている福音は、マタイやマルコ福音書の御言葉から聴き取れます。
しかし今日読んでいるヨハネにはこの激しく泣くペトロのことが書かれていません。すると直ぐ、鶏が鳴いた。とだけ伝えています。何故、激しく泣くペトロのことを伝えないのでしょうか。何故それを語り伝えなくていいと考えたのでしょう。ヨハネの願いは何だったのでしょう。
やがてこのペトロは、私は主イエスを知っていると告げる程度でなく、救い主としての主イエスを宣べ伝える説教者として立てられ、活躍しています。イエス・キリストを伝えるなと禁止されても、頑として承諾しません。「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい。」と力強く答えて、禁止命令を跳ね返しています(使徒4:19)。
その強いペトロ、主イエスを告白し宣べ伝える確かなペトロへと変えて行ったのは、ペトロが泣くほど悔やんだからではないと伝えようとしているのです。主イエスを知らないと言ってしまったことを深く悲しんだから、それで強いペトロに変えられたと言うのではない、と言おうとしているのです。ペトロを強くしたもの、確かなペトロへと変えるものは、ペトロの中にはないのです。ペトロにではなく、神にあるのです。主イエスの中にあるのです。だからペトロは神に従って、この務めに励むのだと言うのです。
三度も主を知らないと答えてしまったペトロは、お従いすることにおいて失敗したペトロ・信じることにおいて弱かったペトロ・告白することにおいて欠点があったペトロとして言われてきたことがあります。失敗し、弱く、欠けのある弟子としてペトロはその弱さを指摘されて皆から馬鹿にされ、嘲られたという伝説があります。
主を知らないと言ってしまった出来事は、直ぐに知れ渡りました。そこで、ある者たちがペトロを見掛けると鶏の鳴く真似をして嘲ったという言い伝えです。誰かの失敗を言い立てて噂をする人が多いのです。しかも悪意を込めて嘲り笑うのです。あなたは、誰かの失敗や弱さ、欠点を指摘して言い立てて嘲り笑う側にいますか。
さてペトロは弱かったのか。見逃してはならない。捕らえられた主イエスについて行ったのは、このペトロです。他の弟子達は、イエスを見捨てて逃げてしまったではないか(マルコ14:50)。ペトロこそ逃げない弟子だったのです。ローマ兵もいる一団に剣を抜いて主イエスを守ろうとしたのもペトロでした。剣以外に主イエスをお守りする方法を見つけられなかったのです。ペトロこそ主をお守りする弟子だったのです。ペトロは弱かったのか。勇気のあるペトロを見落とさないように注意したい。あってはならない失敗をしたのも、実は勇気をもって主についてきたからでした。弱さだけでなく強さも見逃さないようにしたい。
ペトロは「違う」と言った、ペトロは打ち消して、「違う」と言った、ペトロは、再び打ち消した。勇気あるペトロも主を知らないと言うペトロになっていました。その信仰は、寒く凍えていた。体が寒く凍えていたので、ぺトロは立って火にあたっていたのです(18、25)。炭火で温められないと過ごせなかったのです。信仰は何で温められるのでしょう。「私は主イエスの弟子です。」と言い表せるように信仰を温められるのは炭火ではなく、何にあたったらいいのでしょう。何に凍えた信仰の手をかざしたらいいのでしょう。
主が復活された日、二人の弟子がエマオの村に向かっていました。途中でお甦りになった主イエスが同じ道行きになり、エルサレムで起きたことを話題にしました。村に着いて主イエスが見えなくなった時、二人は「道で話しておられる時また聖書を説明して下さった時、私達の心は燃えていたではないか」と語り合ったのです(ルカ24:32)。信仰は何で温められるのでしょう。復活の主によって温められるのです。エマオの二人は心が燃える程に温められたではありませんか。体は炭火に、信仰は復活の主にあたって温められるのです。
どうしたら復活の主に温めていただけるのか。エマオの二人が、主イエスだと分かったのはいつだったのか。イエスはパンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったのです(ルカ24:30~31)。主イエスのパンを受けそれに与った時、二人の信仰は温められたのです。
私達も聖餐に与る時、信仰は温められるのです。主に温められた者としてこの一週を過ごします。
天の父、いかなる時も主イエスを私の救い主と信じ告白し答えていけます様に教え導いて下さい。聖餐に与り、信仰が温められ続けられます様に。それによって神の栄光をあらわせる者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
