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8月30日 「荒れ野の誘惑」 伝道師 金井恭子

9月2日
読了時間: 8分

イザヤ書11章6-10節

マルコによる福音書1章12−13節

 

先週、私たちは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められたこの書の、「福音」という言葉の意味について知りました。ローマ帝国が支配していたこの時代、「福音」、すなわち「エウアンゲリオン」という言葉は、戦争に勝利したときや皇帝が即位したとき、あるいはその後継者が誕生したときなどに、「良い知らせ」として用いられていました。しかしマルコは、この言葉を用いて、イエス・キリストという真の平和と救いを実現する王が来られたという「良き知らせ」を告げたのです。

このお方は罪のない方であるにもかかわらず、ヨハネが人々に悔い改めのしるしとして授けていた洗礼をお受けになりました。そのとき天が裂け、“霊”が鳩のようにイエスさまの上に降り、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。イエスさまが神の子であり、同時に、神の御心に従って救いの御業を担う主の僕であることが、ここで宣言されたのです。

 

ところが、その直後の12節には、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」とあります。この「それから」という元の言葉は、「そして、すぐに」「すると直ちに」という意味を持つ言葉です。「あなたはわたしの愛する子」と言われた、その直後に、イエスさまは荒れ野へ送り出されたのです。しかも、「送り出した」という元の言葉は、「追い出す」「強く押し出す」という、とても強い言葉です。イエスさまを荒れ野へ押し出したのは聖霊でした。神様は、「あなたはわたしの愛する子」と宣言された御子を、安全な場所に留めてはおかれず、試練の待つ荒れ野へと向かわせられたのです。

 

愛する子を、なぜそのような厳しい場所へ送られたのでしょうか。

キリストを信じて生きようとする私たちも、時に同じ問いを抱くのではないでしょうか。キリストの十字架によって罪の赦しと救いを受け、神様に愛されているはずなのに、地上の現実は厳しい。経済への不安、自然災害、不穏な世界情勢、家庭や職場での問題、そして教会生活の中での悩みもあります。

キリストを信じたから、洗礼を受けたからといって、すべての問題が一気に解決するわけではありません。苦しみがなくなるわけでもありません。それどころか、「自分は本当に神様に愛されているのだろうか」「神様から見捨てられたのではないか」と疑いたくなることさえあります。主の日の礼拝で、神様の愛を告げる御言葉を受けながら、その礼拝から、この世の荒れ野へ押し出されるような現実を経験する。そこに私たちは、洗礼を受けた直後に荒れ野へ送り出されたイエスさまのお姿を、ほんのわずかではありますが、重ねて見ることができるのかもしれません。

 

13節には、イエスさまが四十日間荒れ野に留まり、サタンから誘惑を受けられたことが記されています。「四十」という数字は、聖書の中で、試練や備え、そして新しい歩みへ移る期間を示すものとして、たびたび登場します。特にここでは、エジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒れ野を四十年間旅したことが思い起こされます。

イスラエルの民は、神様によって奴隷状態から救い出され、海を渡り、荒れ野へと導かれました。しかし、水や食べ物がなくなると、神様を信頼することができなくなりました。「神は本当に私たちと共におられるのか」と疑ったり、神に背く行いをしたりしました。

主イエスも、洗礼を受けた直後、荒れ野へ導かれましたが、そこには大きな違いがあります。イスラエルが神様を疑ったその荒れ野で、イエスさまは「神の愛する子」として、父なる神への信頼と従順を貫かれたのです。

 

イエスさまを誘惑したのは勿論、神様ではなくサタンです。「サタン」とは「敵対する者」という意味です。サタンの誘惑は、ただ悪いことをさせようとするだけではありません。「神は本当にあなたを愛しているのか」「神を信じても何にもならないのではないか」とささやき、神様への信頼を失わせ、神様から引き離そうとする働きです。

それは私たちにとっても無縁ではありません。困難が続き、祈っても状況が変わらないとき、「神様はなぜ黙っておられるのか」「自分は見捨てられたのではないか」という思いが忍び込んできます。そして、「信じていても無駄なのではないか」と考えてしまうことさえあります。

 マルコは、誘惑の内容を詳しく記しませんが、私たちがここで受け取るべきなのは、私たちが信仰を揺さぶられる荒れ野を、主イエスがすでに歩んでくださったということです。主イエスは、安全な場所から、苦しむ私たちに「しっかりしなさい」と呼びかけておられるのではありません。御自身が荒れ野に入り、サタンから誘惑を受け、孤独と苦しみを経験されたのです。私たちより先に、私たちのために荒れ野を歩んでくださったのです。

 

マルコは13節の最後に、とても印象的な言葉を記しています。

「イエスは野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。これは他の福音書には無い、マルコだけが記している言葉です。野獣がいる荒れ野には大きな岩や深い谷が連なり、水を得るのも昼間の強い日差しを避けることも容易ではない、危険で孤独な場所です。しかしマルコは、イエスさまが「野獣と一緒におられた」と語るのです。

ここで、今日共にお読みしたイザヤ書11章の御言葉を思い起こすことができます。

「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」。これは、救い主によってもたらされる平和の世界を語った預言です。強いものが弱いものを傷つけ恐れによって支配していた世界が、神様によって新しくされる。互いに敵対していた者が共に生き、もはや傷つけることも命を奪うこともない。そのような神様の平和です。

 

イザヤ書11章9節には、「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」とあります。

イザヤ書の初めには、その救い主が「エッサイの株から出るひとつの芽」として語られ、その上に「主の霊がとどまる」と預言されています。エッサイとは、イスラエルの王ダビデの父親です。ダビデの家系は、かつてイスラエルを治める王家として栄えました。しかし時がたち、その王家は衰え、まるで切り倒された木の切り株のようになっていました。ところが、その切り株から新しい芽が出る。イザヤはそこに、神様がもう一度立ててくださる救い主を見ています。

そして、その救い主の上には「主の霊がとどまる」と語られています。マルコによる福音書では、洗礼を受けられたイエスさまの上に、まさにその“霊”が降りました。そのイエスさまが今、野獣と共に荒れ野におられるのです。

もちろん、この「野獣と一緒におられた」という言葉だけから、野獣がすっかりおとなしくなったと断定することはできません。野獣は、まず荒れ野の危険を示しています。しかし、その危険な荒れ野のただ中に、神の“霊”を受けた救い主がおられる。この光景には、イザヤが見た平和の世界の始まりを重ねて読むことができます。荒れ野が消えたわけではありません。サタンもおり、野獣もいます。危険も誘惑も、なお残っています。しかし、その荒れ野のただ中に、主イエスがおられるのです。ここに、私たちに与えられている福音があります。

 

私たちの人生から、荒れ野が完全になくなるとは約束されていません。しかし、荒れ野の中に主がおられないのではなく、むしろ主イエスは、私たちより先に荒れ野に入り、そこで誘惑を受け、父なる神への信頼を貫かれました。そしてその歩みは、荒れ野の四十日だけで終わりませんでした。主イエスは最後には十字架へと進まれました。弟子たちに苦しみと死を予告されたとき、ペトロがそれを思いとどまらせようとすると、主は「サタンよ、引き下がれ」と言われました。主イエスは、苦しみを避ける道ではなく、父なる神の御心に従う道を選ばれたのです。十字架で御自身の命をささげ、私たちの罪と死を担い、そして復活してくださいました。ですから、私たちの救いは、私たちが一度も誘惑に負けないことにかかっているのではありません。私たちのために誘惑に立ち向かい、十字架と復活によって勝利してくださった主イエス・キリストにかかっているのです。

だからこそ、私たちは荒れ野の中でも希望を失わずに歩むことができます。苦しみがすぐに取り除かれなくても、主は私たちを見捨ててはおられません。御言葉と祈りを通して、また教会の交わりを通して、今日を歩む力を与えてくださいます。私たちは一人で荒れ野を歩むのではありません。洗礼のときに降られた主の“霊”に導かれ、平和の王である主イエスと共に歩むのです。

 

やがて、イザヤが見たように、神様の平和がすべての被造物を包む日が来ます。「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」世界が完成し、「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」日が来ます。その完成の日を待ち望みながら、私たちは今日を生きます。

荒れ野のただ中にも、主はおられます。

誘惑の中にも、主はおられます。

孤独の中にも、主は共にいてくださいます。

私たちの救い主は、遠くから私たちを見ておられる方ではありません。私たちより先に

荒れ野を歩み、十字架を背負い、死に打ち勝って復活された方です。主が共におられるなら、荒れ野のただ中にも、平和の始まりがあります。だから私たちは、今日与えられた一歩を、主イエスと共に、希望を抱いて踏み出してまいりましょう。

 

 

父なる神様、尊い御名を賛美いたします。

あなたの愛する御子イエス・キリストが、聖霊によって荒れ野へ送り出され、サタンの誘惑に立ち向かい、十字架に至るまで御心に従われたことを覚えます。

私たちも、人生の試練や苦しみの中で、あなたの愛を疑い、見捨てられたように感じることがあります。そのようなとき、主イエスが私たちより先に荒れ野を歩まれ、今も共にいてくださることを信じさせてください。御言葉によって支えられて誘惑に抗い、倒れるときには何度でも主のもとへ立ち帰らせてください。

イザヤが預言した平和がすべての被造物を包む日を待ち望みつつ、私たちも主の平和をつくり出す者として、与えられた一週間を歩むことができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。              アーメン。

 
 
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