8月31日 礼拝説教「信仰へと訓練する主イエス」
- 教会 松本東
- 9月8日
- 読了時間: 7分
『詩編』110:1~3
『ヨハネ福音書』11:1~16
天の父なる神様 知らせ後も二日間動かれないことの意味をお教え下さい。また躓かない生き方が分かりますように。主の御名によって祈ります。アーメン
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えられました。深い信頼と大きな期待を込めた、マルタ達の祈りと言ってよい知らせでした。その知らせをお聞きになって、主イエスはどうされたのでしょうか。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。ベタニアまではなんと数十キロも離れたヨルダン川のほとりに居られたのです。知らせを遠くまで送る、それは重い病であることを表しています。間に合うためには、直ぐに出掛けなければなりません。しかし、ここに直ぐにはお動きにならない主イエスが伝えられています。聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在されたのです。
この二日間のヨルダン川滞在は、大変大きな意味があったのです。主イエスは、ご自分の働きが神の救いの正しい御業になるようにと考える時、退いて祈りの時を持たれました。ある時、皆がご自分をユダヤの王様にしようとしました。すると主は、独りで又山に退かれました(ヨハネ6:15)。退く、は私達の側から見た見方です。主イエスにとっては、神の前に進み出ることです。神の御心を確認することです。
エルサレムからヨルダン川の近くの町に来られたのは、言わばヨルダンに退かれたということです。神の前に進み出て、神の御心を確認することだったのです。もう十字架の出来事は迫っていました。今度エルサレムに行くとは、十字架に掛けられるために行く、ということになるのです。ゲツセマネの祈りに通じる祈りを捧げられたのです。その二日間でした。
また、この二日間の祈りには、3人のための祈りもこめられていました。イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられたのです。5節で、主イエスはラザロを愛しておられた、と告げる。そして、6節で、なお二日間滞在されたと続く。主の愛と二日間の滞在は深く関わっている。ラザロ達を愛する故になお二日滞在されたといっていいのです。
愛を表す言葉はギリシャ語では4つある。そのうち新約で使われるのは2つ。友情や兄弟愛を意味する愛と神の愛の2つ。勿体ないなと思うのは、それぞれに当てはまる日本語がないことです。どちらも「愛」と訳されます。マルタの知らせにある愛は友情や兄弟愛の「愛」、主イエスの持つ愛は神の愛の「愛」。この違いを読み取ることは大事です。
神の愛は主キリストによって届く愛です。その主キリストが、なお二日間、神の前に進み出て、神の御心を確認されているのです。今エルサレムに行くべきなのでしょうかと神に確認する。ベタニヤのラザロに大きな救いの業を行うべきなのでしょうかと神の計画を確認する。その確信のもと、主は動かれるのです。だからそれは、神の御心の伴う愛を確かにして歩まれることです。神の計画の伴う愛を確信して歩まれるのです。
そこで主は言われます。ヨルダン川の近くで、主は確信されたのです。エルサレムでも、そしてベタニヤでもなすべきことを、神の御心と確信して、「もう一度ユダヤに行こう」。
ユダヤに向かって進むことは、二つのねらいがありました。
1.苦しみと十字架が待っているエルサレムに進むことです。弟子達もそのことに少し気付いています。十字架は分かっていませんが、エルサレム行きが苦難をお受けになるということは分かりました。心配をして「ついこの間も石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言うのです。これはもっともな心配です。
心配する弟子たちの信仰を鍛えます。昼の内に歩けば、躓くことはない。この世の光を見ているからである。エルサレム行きは、昼の業だから躓くことはない。昼の業とは世の光を見て行うことだから、神に守られる。そういう信仰を持ちなさいと訓練されるのす。
「躓き」は信仰に生きる者にとっては非常に重いことです。繰り返し何度も躓かないようにしなさいと主は注意されています。更にまた、人を躓かせないようにしなさい、と注意されています。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい、と言われましたね(マタイ5:29)。主の譬のなかでは激しい表現です。人を躓かせないように、という方もそれに劣りません。信じる小さな者の一人を躓かせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである、と言われましたね(マタイ18:6)譬だから、そのまま実行してはいけません。躓かないこと、躓かせないことを、主イエスがどれ程強く願っておられるかを聴きとめることが大切なのです。それがどれ程価値があるかを聴きとめるようにと主は言われる。
躓かないこと、躓かせないことには、あるコツのようなものがあります。この秘訣を身に着けるといいのです。どんな秘訣でしょうか。
躓かない、と約束される理由があります。それはこの世の光を見ているからだと言われます。世の光、それは主イエス・キリストです。これはヨハネ福音書の一つのテーマです。命は人間を照らす光であった(1:4)。私は世の光である(8:12)私は、世にいる間、世の光である(9:5)。主イエスの光に照らされているから、明るいから、よく見えるから、躓かないのです。救いを、受け取ることが出来るのです。救いの生き方を照らされてよく見えるから迷わないで済むのです。
光を見ているからだと言われました。世の光が主イエスを表しています。エルサレム行きを心配する弟子達に、心配しなくていいと言われます。主イエスを光として見ればいいのだと教えています。それをちゃんと見れば、エルサレムの出来事に躓くことはないと示されたのです。心配する弟子たちの信仰を鍛える、それは
主イエスを光として見ることでした。私達は、主イエスを見ていますか。光としての主イエスを信仰の心を注いで見ていますか。その、主キリストを見ると言う信仰へと鍛えて頂く。
夜歩けば、躓く。その人の内に光がないから、と言われています。この言い方から、光を見るということがどういうことか分かります。主イエスを見て生きるとはどういうことか、分かります。
外側から光を眺めるのではないのです。主イエスを見たい時に、外から、成程このような御業をなさったのかと見るのではないのです。ああそうか、主はその様なお話をなさったのか、成程ねと見るのではないのです。主イエスを外から見るとは、主の御業を目撃して主が何をなさったかについて知るということです。主のみ言葉を聞いて、主のお考えをについて知るという事です。聖書を丁寧に読んでいけば、多くのことを知ることが出来ます。『文法分析の新約ギリシャ語辞典』というものがあります。まるで屋根瓦を全部一枚一枚はいで調べるような様子で、新約の全部の言葉が丁寧に調べられて載っています。しかしそういうものを読んで、色々理解しても、それは外から主イエスを見るようなことになります。
自分の内にある光を見るのです。自分の内にある主キリストを見るのです。主キリストが、私達の内にいて下さることを見るのです。ちょうど血管が体中に血液を送り、大事な働きをしているのに似ています。主の御業が、私を救って下さるのを見る。主のみ言葉が、私を教え、理解させ、高めて下さるのを見る。内にある主キリストが、私に慰めと安らぎを与えて下さるのを見る。
自分の内にある主キリストを見る。そして、こういう信仰に生きるのです。キリストが私の内に生きておられる(ガラテヤ2:20)。
内なる主キリストを見つめてこの一週間を過ごします。
天の父、山へ退き、神の前に進み出て、神の御心を確認された救い主キリストから、主の日礼拝において示されるあなたの御心を確信して生きる生き方を学べますように。内なるキリストに結びつけられ、救いと神の知恵とに与り、主の慰めを受け、主にある平和に生きることが出来ます様に。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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