8月3日礼拝説教 「主キリストの命によって生まれた私達の教会」
- 教会 松本東
- 8月5日
- 読了時間: 8分
『イザヤ書』53:10
『ヨハネ福音書』10:11~21
天の父なる神様 羊のために命を捨てる羊飼いの譬の意味を知ることが出来ますよう。主の御名によって祈ります。アーメン
私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(11節)さて、良い羊飼いとはどんな羊飼いでしょうか。直ぐ後に雇われ羊飼いの話があります。狼が来ると羊を置き去りにして逃げてしまうのが雇われ羊飼い。良い羊飼いは、そうはなさらない。狼が来ても逃げない、羊たちを置き去りにしない、羊たちを守る。それが良い羊飼いだという事です。それをペトロはこう告げました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人達を全て癒された。(使徒言行録10:38)悪魔の苦しみから癒して下さる、それは、襲い掛かる狼の危険から羊たちを守るという事です。いや、使徒言行録迄行かなくても、先ほど生まれつき目が見えない方の目を開かれましたね。これも、羊たちを狼から守るの一例です。38年も病気で苦しんでいた人を癒されました。(5:5)これも、羊たちを狼から守るの一例です。
守って下さるでは止みません。悪魔の働きを滅ぼして下さると聖書は教えてくれます。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです、と『ヨハネの手紙1』で教えてくれます。(3:8)今を生きる時、繰り返し悪魔の働きを受けます。そこに苦しみや悲しみが生まれます。しかし、決着はもうついています。今受ける苦しみや悲しみが、主の確かな守りを乗り越えてしまうことはありません。主はもっと高い囲いで私達を守って下さる。悪魔の働きによる苦しみ、悲しみを癒して下さる。
良い羊飼い。これはどういう事でしょうか。命を捨てるというのですから羊を命がけで守る、という事の様にも思います。そしてもしも守れない時は、狼と戦って勇ましく、最初に死ぬことも辞さないという様にも思えてしまいます。
しかし、羊のために命を捨てるという言葉は、そういう勇ましさを積極的に表わそうとはしていません。捨てるという言葉は、「置く」という意味の言葉です。ある目的があって物を「置く」という事です。主イエスは灯の話をされたことがあります。目が澄んでいれば明るく、濁っていれば暗い、というお話です。その目に例えるのが灯です。人に光が見えるように、灯を燭台の上に置くと主の言葉です(ルカ福音書11:33)。ただ置くのではありません。明るく照らすために置く、この「置く」という言葉が「捨てる」という言葉なのです。
つまり羊のために命を置く、ということになるのです。ここは重要です。主イエスは、そのご自分の命をどこに置かれるのでしょうか。十字架の上に置かれるのです。十字架にご自分からお掛かりになることなのです。命を捨てるとは、羊のために命を捧げる、命を与えるということなのです。
それはイザヤが預言していたことです。神の計画の中にあったということです。14節で、父が私を知っておられ、私が父を知っている、とあるように、主キリストが命を捧げることは父なる神の用意された事なのです。朗読したイザヤ書はこうでした。彼は自らを償いの献げ物とした(イザヤ53:10)。私達のために、命を献げ物とされたと預言するのです。
命を「捨てる」という言葉が、ある目的があって物を「置く」ということだと聞きました。主キリストは、どういう目的をもって十字架の上にご自分をお置きになったのでしょうか。灯が置かれるのは、明るく照らすため。十字架の上にご自分をお置きになるのは何のためでしょうか。
イザヤはそれを償いのためと預言しました。誰の償いをされるのでしょうか。何の償いをされるのでしょうか。一番鮮やかに、最も明確にこのことに、答えてくれるのが『ヨハネの手紙1』の4章10節です(445頁)。「神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」誰の償いですか。私達の償いです。何の償いですか。私達の罪の償いです。
羊のために命を捨てると言われる。そのことを、イザヤは53章で、十字架にかかる救い主として預言をした。彼は自らを償いの献げ物としたと。主は救い主として命を献げられたということです。この救い主を信じることがあるものを作りました。救い主はへブライ語で、「メシア」と言います。主の質問に答えるように「あなたはメシア、生ける神の子です。」と弟子は信仰を表しました。その時、あるものを作ります、と主が約束されました。「私はこの岩の上に私の教会を建てる。」(マタイ福音書16:16,18)信仰告白の上に主の教会が建つ。私達の信仰の上に、主キリストが私達の教会を創って下さる。救い主として命を献げられた主を信じる私達は、救い主として献げられた主キリストの命によって生まれた教会なのです。
私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(14節)主と私達がお互いに知り合っていると告げるこの言葉を、「主イエスについてヨハネが書いた最も驚くべき言葉」と言った人がいます。長いヨハネ福音書の中で最も心に響いた言葉だと言うのです。皆さんはそうお感じになりますか。
先ず、ここで主は、羊のことを自分の羊と呼ばれています。元々は「羊」という言葉はなくて、ただご自分のものと言われます。あなた達は、私のものです、と主は言われる。今言いましたように、あなた達は、私の命によって生まれた教会ですと主は言われる。主の命によって生まれた教会ですから、教会は主のものなのです。私達は、「主イエスをキリスト、救い主」と信じます。主キリストは、「あなた達は私のもの」と言って下さるのです。これを告げているのですから、「ヨハネが書いた最も驚くべき言葉」と言った人の思いも分かるのです。
羊を知っているとあります。主キリストは「あなた達のことを知っていますよ」と告げられています。羊飼いが羊を知っている様に、主キリストが私達を知っていて下さると言うのです。
「知る」「知っている」という言葉の意味はとても豊かで深い。そして力強い。祝福にあふれている。その豊かさは両手で抱えきれないなんていう次元を超える。これは、神の恵みを表す言葉です。
皆さんは、人に知られたらまずい秘密をお持ちですか。誰でも持っているものです。その秘密が暴かれてしまったとします。その方があなたに「知ってますよ~」とささやいたら、逃げ出したくなりますね。ほら、「知る」「知っている」という言葉は、かなり力を持っていることが分かるでしょう。もっとも今例に挙げたことはすぐ忘れて下さい。
あなたを知っていますと、主キリストが言われる時、神の恵みを表します。神の恵みですから、とても豊かな意味です。そのうちの一つに注目します。テモテ2の手紙2章19節、中ほどに「主はご自分の者たちを知っておられる」とあります。そこには括弧が付いています。旧約聖書の言葉を拠り所にしているのです。民数記16章5節を引用しています。知っておられると言う言葉はそのもとになっている旧約ではどのようになっているか。「その人をご自身のもとに近づけられる。」主キリストは、私達を主の御許に引き寄せ、集まらせて下さる。
私達は礼拝に集められています。このことを私は自分の羊を知っていると言われたのです。そんな意味があったんですね。
御許に引き寄せ、集まらせて下さるのです。何のためでしょうか。私達にとっては、それは礼拝をささげるためです。では主キリストにとっては何をなさるためでしょうか。子供達を、母親と共に御許に引き寄せられたことがあります。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されたのです。(マルコ福音書10:16)抱き上げ、祝福するためです。
抱き上げて下さる、主が私達を抱き上げて下さるというのです。この様な主の御業を「行いによる例え話」と言います。何を言おうとされているのか。先週、礼拝の間にある姉妹がリュウ君を膝に乗せ両手で支えていらっしゃるのを見て、喜びがあふれてきました。抱き上げる、それは大事な何かを伝えます。それは、二人が一つにされるということです。主キリストが私達と一つになって下さる。
パウロが多くの手紙で、信仰に生きることが主に結び付けられて生きることだと教えています。キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者(コリント第2,5章17節)。あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです(ガラテヤ3章26節)。主と共に生きる者とされたのです。主において一つにさせられた教会です。主の恵みを受けて進むのです。主が私達を抱き上げて下さるというのはそういう事なのです。
大丈夫です、主が私達と共にいて下さる。私達も主と共に生きるのです。
良い羊飼いは羊のために命を捨てるというみ言葉は、主キリストの救いの内容をよく示してくれています。福音の中心部です。福音の心です。この中心を信じてこそ、主の教会という囲いに守られ、主の教会という門を出入りし、み言葉という牧草を食べることが出来るのです。今日私達は、私達のために命を献げて下さった
主キリストを示すパンとぶどう酒に与ります。福音の心に触れるのです。
天の父、主キリストに結びつけられた私達、主と共に、主において、主にあって、主に繋がれて、主の恵みを受けて生きる私達として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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