8月9日 「貧しくても、豊かでも」 伝道師 金井恭子
- 8月14日
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箴言30章7-9節 フィリピの信徒への手紙4章10-14節
「満たされた人生」と聞くと、どのような人生を思い浮かべるでしょうか。
私たちは、経済的に豊かで健康も与えられ、家族も仕事も順調で大きな心配事がない生活を願います。それはごく自然なことと言えるでしょう。貧しさや破綻した生活を避けて生きていきたいと願いますし、そのために努力もします。しかし、人生は私たちが願う通りに進むわけではありません。満たされる時もあるでしょうけれども、突然持っていたものを失ってしまったり、試練を与えれることがあります。
仕事も失い健康も害し、今日食べるものにも事欠く……そのような中で生きなければならない苦しみは並大抵のものではないでしょう。また、経済的に十分豊かであっても、誰かと比べれば足りない、お金と資産を失うことを恐れたり、お金で買えないものの不足に悩んで心騒がせたりすることもあるでしょう。私たち人間は持っているものだけでは、なかなか満たされないところがあります。
先ほどお読みしました箴言30章8−9節には「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしたちのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません」とあります。つまり、貧しさも豊かさも、それが過ぎると私たちの心を神から引き離してしまう危険があるということでしょう。だから、貧しさにも豊かさにも支配されないように、必要なパンだけを与えてくださいと祈っているのです。
ところがパウロは11〜12節で「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言うのです。どちらが良いか、と言うことではなく、そのことによって人生の土台が揺らぐことのない「秘訣を授かった」と言うのです。では、その「秘訣」とはなんでしょうか。この世を渡っていく人間の知恵や工夫のことでしょうか。ご一緒にそのことを確かめたいと思います。
ここで10節のパウロの言葉を見ますと、「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」と、フィリピの教会から獄中のパウロを支えるために届けられた贈り物への喜びを語っています。ところが、不思議なことにパウロはここで私たちが普通考えるような感謝の言葉を並べません。私たちなら、物資や食料の不足を助けてくれたことに対して、もっと素直に具体的にお礼の言葉を言うのではないでしょうか。けれども、パウロは「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と言います。しかしこれは、「わたしは別に困ってはいません」と強がって言っているわけでも、人の助けに感謝を言うどころか自分の強さを語っているというわけでもないのです。
パウロがここで喜んでいるものは、届けられた贈り物そのものだけに対してではありません。10節に「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」とあります。しばらくの間、フィリピの教会からの援助が途絶えていたのでしょう。しかしパウロは、そのことを責めてはいません。
「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」と言います。目に見える贈り物がなかった時にも、あなたがたの思いは私に向けられていた。そのことをパウロは信頼しているのです。そして、ここで思い起こしたいのは、この手紙の中で繰り返し語られてきた「同じ思い」という言葉です。フィリピの信徒たちは、ただパウロを気の毒に思って援助したのではありません。パウロと同じキリストを信じ、同じ福音に生き、その福音のために共に歩んできた人々でした。
パウロは1:29で「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と語っています。フィリピの人々が獄中のパウロを覚え、使者を送り、贈り物を届けたことは、単なる物質的な援助ではありませんでした。それは、福音のために苦しむパウロを私たちは一人にしない、私たちも同じキリストに属する者として、あなたと共に歩む、という信仰の表れでもあったのでしょう。だからこそパウロは、「贈り物を受け取って嬉しい」とだけ言うのではなく、「主において非常に喜びました」と言うのです。
パウロは続けて11節で「物欲しさにこう言っているのではありません」と言います。そして、貧しくても豊かでも、満腹していても空腹であっても、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と言うのです。
この「秘訣」とは何でしょうか。それは、貧しさに耐えるための精神力ではありません。欲しいものを我慢して、「私はこれで十分だ」と自分に言い聞かせることでもありません。パウロは、自分を鍛えて、誰にも頼らなくてよい人間になったのではありません。パウロの人生を根本から支えているものは、彼自身の強さではなかったのです。その答えが13節です。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と彼は言います。
この「わたしを強めてくださるお方のお陰で」という元の言葉を直訳すると、「わたしを強めてくださる方の中にあって」ということです。「わたしを強めてくださる方」とは、キリストです。ですから、自分の人生の鍵は自分の手の中で握っているのではなく、主イエスの手の中にあって、そこに人生を預けることによって全てが可能であるというのです。
ここで言われている「すべてが可能です」という言葉は、キリストを信じれば願ったことが何でも実現する、という意味ではありません。キリストを信じれば貧しさから必ず抜け出せる、富が与えられるというのでもありません。苦しみがなくなる、というのでもありません。現にパウロ自身が、キリストの福音を宣教したことによって、獄中に捕えられているのです。では、「全てが可能」とは何を意味するのか。それは、「私は、私を強めてくださる方、すなわちキリストの中にあってあらゆる境遇を生きることができる。キリストによって、どのような境遇に置かれても、その境遇に自分自身を支配されることなく歩むことができる者となりました」という告白と言えるでしょう。
パウロは3:10で、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と語っていました。パウロが知ったキリストとは、十字架において苦しんで死なれ、そして神によって復活させられたキリストです。そのキリストによって罪を赦され、死を超えた命の希望を与えられている。だからパウロの人生の土台は、持っているものの多さや失ったものの大きさによっては揺らがない。彼が「授かった」と語る、いついかなる場合にも対処できる秘訣とは、自分で身につけた処世術ではありません。神との関係に生きる人生をキリストによって与えられた、ということなのです。
13節のすぐ後にパウロは、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言います。彼は獄中にあって不自由を強いられ命の危険に晒されながらも、フィリピの信徒たちが福音の中に生きる姿を喜びました。キリスト者となったばかりのフィリピの信徒たちが伝道者を失った群れとなっても尚、しっかりと福音に生きる群れとなっていることを喜びました。「生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1:21)と、キリストのためなら死ぬことも恐れないパウロでありましたが、「キリストが私を強めてくださるのだから、私は一人でも大丈夫だ」とは言いません。キリストに依り頼むということは、人を必要としなくなることではありません。人の助けを必要とすることは、信仰が弱いことでもありません。キリストに支えられているからこそ、差し出された助けを、「主において」感謝して受け取ることもできるのです。
そしてフィリピの人々もまた、パウロに物を送っただけではありません。「苦しみを共にした」のです。愛するということには、時として、愛する者の苦しみに近づいていくことが伴います。苦しんでいる人から距離を置けば、自分は傷つかずに済むかもしれません。関わらなければ、その人の重荷を自分まで負わずに済むかもしれません。しかしフィリピの人々は、パウロとの関係を切りませんでした。キリストに結ばれた者として、福音のために苦しみを受け獄中にあるパウロと共に生きようとしたのです。だからパウロは喜んだのです。届いた支援の贈り物の中に、同じキリストに結ばれ、同じ福音に生き、自分の苦しみを共に担ってくれる兄弟姉妹の姿を見た。だから「主において」喜んだのです。
ところで、最初に問いかけた「満たされた人生」とは何でしょうか。
十分なお金があり、健康で、何の心配もなく暮らせる人生でしょうか。もちろん、そのような平安を願うことは悪いことではありません。しかしパウロが語る満足は、それよりも深いところにあります。貧しくても、豊かでも。満たされている時にも、欠けている時にも。私たちの人生を根底から支えてくださるキリストがおられる。
そして、そのキリストは私たちを一人で強くするのではなく、互いに結び合わせてくださいます。ある時には人を支え、ある時には自分が支えられる。苦しみを共にし、喜びを共にする。そのようにしてキリストの体である教会を形づくっていくのです。
満たされた人生とは、何も欠けることのない人生ではありません。自分の力だけで満足できる人生でもありません。貧しくても豊かでも、私を強めてくださるキリストに支えられて生きる。そしてそのキリストに結ばれた者たちと共に歩んでいく。それこそが、パウロが苦しみの中で「習い覚え」、そして「授かった」と語った秘訣なのではないでしょうか。
恵み深い父なる神さま。
今日も御言葉を通して私たちを養ってくださり、ありがとうございます。
豊かな時にも貧しい時にも、私たちの置かれた境遇に心奪われることなく、主イエス・キリストに依り頼んで歩む者としてください。
また、私たち兄弟姉妹が、キリストに結ばれた者として支え合いながら歩むことができますように。どのような時も、あなたが共にいてくださる恵みで満たしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。
