top of page

9月13日 「悔い改めて信じなさい」 伝道師 金井恭子

3 日前
読了時間: 9分

イザヤ書52:7-10

マルコによる福音書1:14-15

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)

 主イエスは宣教の初めに、こう語られました。ここで言う「時」とはどういうものなのでしょうか。原文では「カイロス」という言葉が使われている、あることが起こるべき時・意味を帯びた時を指します。単に時間や期間ではなく、歴史が変わるような時別な時がきたことを意味しているのです。「神が定め、備えられてきた時が、今や満たされた」という宣言だと言えます。

 

 この「時」とは、イスラエルの民が長く待ち望んできた「神の救いの時」です。かつて多くの預言者が神に遣わされ、神の救いは必ず来ると語ってきました。そして、その希望を抱いて生き、しかし実現の日を迎えることなく多くの民が死んでいきました。ところが今や、長い長い年月預言者たちを通して告げられてきた約束=「神がご自身の民を顧みて支配し、救ってくださる時」が、イエス・キリストというお方の到来によって始まったということが告げられたのです。神が救いのために定められた歴史的・終末的な「時」が、主イエスにおいて到来した宣言なのです。

 

 14節に「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて」とあります。「わたしよりも優れたお方が来られる」と1:7で告げたヨハネは、主イエスに先立って人々に「悔い改め」を求め、そのしるしとしての洗礼を授け、来るべきお方を指し示す使命を果たしました。そのヨハネが捕えられ、宣教のために働けなくなったことで、人間の目から見れば宣教の働きが妨げられたように見えるこの出来事の後、主イエスは危険な状況の中でガリラヤへと行かれました。そして、ヨハネを捕らえた領主ヘロデによる支配が力を振るっている只中で、「神の国は近づいた」と宣言されました。これは、今や神ご自身が真の王として来られ、そのご支配を始めてくださったことを伝えているのです。

ここで「捕えられた」と訳されている言葉には、もともと「引き渡される」という意味があります。そして、この福音書を読み進めていくと、主イエスご自身の出来事にこれと同じ言葉が用いられていることに気づきます。主イエスもまた人々の手に引き渡され、十字架へと向かわれるのです。つまり、マルコはこの冒頭から、主イエスが歩まれる十字架への道を、既に私たちに予告sているようにも読み取れます。

 

 本日、共に読みましたイザヤ書52章にも、「良い知らせを伝える者」が登場します。国を失い、故郷を離れ、捕囚の苦しみを経験した民に、「あなたの神は王となられた」と救いが告げられます。目の前の現実はなお厳しくても、神はご自分の民をお忘れにならず、再び立ち上がらせてくださるという「良い知らせ」が、すなわち「福音」でした。

 

 そして今、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」と告げられます。遠い昔から預言者たちによって約束され、イスラエルの民が長い年月待ち望み続けてきた神の救いが今、主イエスによって始まったのです。

 「神の国」とは、どこに存在するのでしょうか。

 それは、地図の上で示すことのできる地上の国のことではありません。そして死んだ後にだけ入ることのできる場所を意味するものでもありません。それは、真の神が王として私たちを治めてくださること。神の恵みのご支配を意味します。

 しかも、私たちが神の国に近づけと言われているのではなく、「神の国」の方から近づいたというのです。私たちが努力して神のもとまで上っていったのではなく、神の方から、罪の中にいる私たちのところへと近づいてくださったのです。そしてその神のご支配は、主イエスというお方において、既に私たちの只中に始まっています。その恵みを前にして、私たちもまた、応答へと招かれているのです。

 

 ところで、私たちは本当に、真の神を王として生きているでしょうか。

 私たちは神を信じているから、こうして御堂に集まり、主の日の礼拝に与っています。そして、ここからそれぞれの場所へと送り出され、主の民として生きているはずなのです。けれども、未だ神のご支配がすっかり実現したわけではありませんから、私たちはこの地上での現実を生きなければなりません。そこには悲しみや苦しみ、困難があります。そのような中で陥るのは、自分の力でなんとかそれを乗り越えようとするあまり、自分の考えや努力によって生きようとする姿です。そして良い結果を得ることができなかったなら、それを失敗と見なし、自分の力不足か不運ゆえかと心騒がせるのです。そして神の存在を忘れた心は、人の評価や過去の失敗、将来への不安に支配されてしまいがちです。

 

 そのような私たちに、主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。

 「悔い改める」とは、今までの自分の言動を思い出して反省するということではありません。罪へと向かっていた自分の歩みから向きを変え、神の方へと立ち帰ることです。自分が自分の主人であろうとすることをやめ、神こそ私の主であると信じ、その御手に自分を委ねることです。

 私たちが悔い改めたから神の国が近づいてくるのではないのです。順序はその逆です。神の国が既に近づいたからこそ、私たちは悔い改めることができるのです。今ここに私たちが集い、この御言葉を聞いていることの意味を、今一度考えてみましょう。神が私たちを尋ね求めてくださり、私たちを赦してくださり、ご自分のもとへと招いてくださっているのです。私たちが向きを変えることができるように、既に招いてくださっているのです。

 

 そして、主イエスは「福音を信じなさい」と言われます。「福音」とは、この世的な「何か良いが起こりますよ」という知らせではなく、神が私たちのところへ来てくださり、救いの出来事が始まるという「良き知らせ」のことです。

この世の支配者は、力によって人を従わせようとします。しかし主イエスは、人を力で抑えつける王ではなく、罪人のためにご自分の命を与える王として来られました。人を裁いて滅ぼすためではなく、失われた者を捜し出し、赦し、私たちを新しく生かすために来られたのです。やがて主イエスはヨハネと同じように人々の手に引き渡され、十字架の道へと歩まれます。そして神は、十字架で死なれた主イエスを復活させ、罪と死が最後の支配者ではないことを明らかにされました。

神は苦しみの中にいる私たちから遠く離れておられる方ではありません。主イエスご自身も、人々から退けられ、裏切られ、見捨てられ、十字架を前にして苦しまれました。神のご支配は、私たちを苦しみのない場所へと遠ざけることではなく、神の御子が人の姿となって私たちの苦しみの只中にまで来てくださったということによって表されたのです。

しかし、主イエスが復活され、罪と死に勝利されたからといって、私たちの地上の歩みから直ちに苦しみや悲しみがなくなったわけではありません。思いがけない困難に遭い、どうしてこのようなことが起こるのかと問わずにはいられないことがあります。そのような現実の中で神のご支配を信じるとは、いったいどういうことなのでしょうか。

 

それは、自分の身に起こったことのすべてを「これは神が望まれたことなのだ」と受け入れることではありません。また、人の罪によってもたらされる苦しみや不正、暴力を正当化するものでもありません。神は今この時にも働いておられる。道が閉ざされているように見えても、神は私たちを御手から離しておられない。苦しみも、悲しみも、罪も、死さえも、私たちの人生の最後の言葉ではありません。最後の言葉をお持ちなのは、十字架の死から復活された主イエス・キリストです。この方に信頼して、神に望みを置くこと。それが、神のご支配を信じて生きるということです。

 

しかし私たちは、困難に出会うと、神の御手より目の前の現実の方を大きく見てしまいます。失敗すれば、自分には価値がないと思い、人の言葉によって傷つけば、その言葉に惑わされバランスを崩し、先の見えない困難に遭えば、その不安に心が奪われます。そして、自分の力でそれを乗り越え、自分の身を守ろうとしてしまうのです。

その度に主イエスは、「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけてくださいます。

悔い改めは、信仰を持つに至った最初だけで終わるものではありません。私たちは日々、神の方へと向き直ります。神の方を向いて歩くということは、いつも神を信じ、迷うことなく歩くことではありません。神が見えなくなったと感じる時にも御言葉を聞き、「主よ、助けてください」と祈ることです。先行きを主にお任せしながら、自らが為すべきことを誠実に行うことです。苦しんでいる人の傍にいること、赦しを求めること、助けを求めること、正しくないことに対して正しくないと語ることも、神のご支配を信じて歩む具体的な姿です。

そして、そこには本当の喜びがあります。「神が私を知っておられる。この私は、主のものである。主は私を決して見離されない」ことを知った喜びです。神が始めてくださった救いは必ず完成する。その約束に支えられて生きる喜びです。

 

 主イエスは、私たちが苦しみを乗り越え、立派になってから来られるのではありません。重荷を負い、迷い、恐れている、今この時の私たちに近づいてくださいます。そして、「一人で人生を背負うことはやめて、神の方に向き直りなさい。あなたを赦し、新しく生かすために来た、この福音を信じなさい」と招いてくださるのです。

 

 神の国は既に、主イエス・キリストにおいて私たちのところへ近づきました。その完成を待ち望みながら、私たちは今日も神のご支配の中を歩みます。悲しみの中にも主が共におられることを信じ、赦された者の自由と喜びをもって、それぞれに遣わされた場所へと歩みだしてまいりましょう。

 

                              

恵み深い天の父なる神様。

今、あなたの御言葉を通して、私たちは自分の力であなたのもとへ近づいていかなければならない者ではなく、あなたの方から私たちのところへ近づいてくださったことを知りました。私たちがあなたを忘れて、自分の力に頼り、自分の考えや人の評価に心を奪われてしまう時にも、どうか私たちをあなたの方へと向き直らせてください。自分が自分の主人であろうとする歩みから離れ、あなたこそ私たちの主であることを信じ、その御手に自分自身を委ねることができますように。十字架において苦しみを負い、死に打ち勝って復活された主イエス・キリストを仰がせてください。 私たちが今日ここで御言葉をただ聞くだけで終わることがありませんように。赦された者として、またあなたに愛されている者として、それぞれに遣わされている場所へと歩ませてください。

私たちが何度も迷い、あなたが見えなくなったと感じる時にも、「主よ、助けてください」とあなたを呼ぶことができますように。あなたが始めてくださった救いは必ず完成するという約束を、私たちの心に深く刻んでください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

 
 
  • フェイスブック
松本東2.png

献金振込口座:八十二長野銀行 深志支店(普)455167  日本基督教団 松本東教会

このホームページに引用される聖書は,『聖書 新共同訳』であり、その著作権は以下に帰属します.
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of TheCommon Bible Translation,
(c)財団法人 日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988

Copyright (c) Matsumotohigashi Church

bottom of page