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9月14日礼拝説教 「真の神、真の人、主イエス・キリスト」

『イザヤ書』53:3~4、10~11 

『ヨハネ福音書』11:28~37


短く祈ります。

天の父なる神様。自分が主に招かれていることに気付けますように。それを知って、主のもとにおもむけますように主がお心を動かされたり、涙を流されたりして事の意味をお示し下さい。主の御名によって祈ります。アーメン

 

 

主イエスのみ言葉によって、マルタの信仰は正しいものになりました。信仰を表明しました。信仰ですから、信仰告白をしたと言います。マルタの信仰告白はこうでした、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」(11:27) 聖書には、何人もの人が信仰を表しましたことが告げられています。一つの例です。16節にも出ましたが、トマスという弟子は、主の復活を信じられずにいました。主の手の釘跡に自分の指を入れてみなければ、信じないと言いました。次の礼拝の時、主は現れて「指をここに当てて、私の手を見なさい。」とトマスに告げます。トマスは答えます、「私の主、私の神よ」(ヨハネ20:28)。短いけど、信仰の心がこもった告白です。

その様な多くの信仰告白のなかでも、マルタの告白は覚えて、自分の信仰として主イエスにお答えしたいと思わされます。

マリアはどうなっているのでしょうか。

 

20節にはマルタは迎えに行き、マリアは家に座っていたとあります。マルタ、マリアと言えば、主をもてなしたマルタ、主の話に聴き入っていたマリアです。今回も、一人は迎えに行き、一人は立つことさえせず座ったままだと言う。マリアはどうして迎えに行かなかったのでしょうか。聖書はその理由を書いていません。こういう時は、推測してもいいのですが、それを事実だとすることは、控えるようにとくれぐれも注意します。皆さんは、マリアが迎えに行かなかった理由は何だと思いますか。「イエスが来られた」という知らせが、悲しみのあまり聞こえなかったのではないかと推測します。上の空で聞いていた状態だったのではないか。

そう考えても大きな過ちではなさそうです。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちをした。マリアは、直ぐに立ち上がり、イエスの許に行った。」(28~29)部屋には何人もの人がいました。ざわつくなかで脇に寄せられるようにして、自分が、呼ばれていることを告げられた。耳打ちをしたというのは、内緒話をしたと言うよりも、間違いなくマリアに告げたということです。そのお招きにマリアは、直ぐに立ち上がり、イエスの許に行ったのです。

マルタとマリア、二人の、主のお迎えの仕方には違いもあるように見えますが、同じ所もあります。

先ず、マルタ。主が来られたと聞くと直ぐ、マルタは迎えに行ったのです。主が来られたと聞いて村の外まで迎えに行ったのです。遠い距離ではなかったでしょうが、マルタが取るものも取りあえず出来るだけ早く主をお迎えしたいという思いがよく分かります。村の外まで、少しでも早く主イエスにお会いしたいと速足で迎えに行く様子が目に浮かびます。

次にマリア。先生がお呼びですよと耳打ちされると、直ぐに立ち上がりイエスの許に行ったのです(27~28)。主のお招きにマリアは、直ぐに立ち上がり、イエスの許に行ったのです。

耳打ちされました。声は小声でした。しかし自分に向かって、主がお呼びだとはっきり聴き取るが出来ました。早くお出でになってほしいと願っていました。しかし、今は、自分が主に呼ばれていることを示されました。主に招かれていることが分かりました。それが分かると、直ぐ立ち上がって行ったのです。

直ぐにという言葉はマリアの心をよく表していますね。椅子から跳び上がるようにして立ち上がり、まるで跳ねるようにして主のところに行ったのです。この様子も目に見えるようです。

 

我が身のことを振り返ってみましょう。私達はどのように主イエスのもとに行くのでしょう。主は「さあ、彼のところへ行こう」と言われて、ラザロのところに、そして私達のところに来て下さるのです。今度は私達の方が、主イエスのもとに行くのです。マルタの様に足早に行くのです。マリアの様に、お呼びですよとの招きの声に跳び上がって立ち、跳ねるようにして主の許に行くのです。日曜の朝、いつも新しく起きている出来事なのです。

私達は、お呼びですよ、と耳打ちされるのでしょうか。招かれていますよと、言われているのでしょうか。そうです、招かれているのです。主キリストの救いに与る、主の恵みを受けて信仰に生きるとは、主に招かれ、主に呼ばれて生きるという事です。コロサイへの手紙にそのことが分かり易く書かれています。この平和に与らせるために、あなた方は招かれて一つの体とされたのです。(コロサイ3:15)

 

待ち疲れた思いもあったのでしょう。間に合わなかったことを訴えて強く悔やむ思いもあったのでしょう。それを口にするとマリアは泣き始めたのです。イエスはそれを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。イエスは涙を流された(33~35)。

心の思いを表す言葉や表現は沢山あります。心の思いが沢山あるからです。詩がいつも新しく作られ続けるのは人の心にある思いが限りなく豊かだからです。絵がいつも新しく描かれ続けるのは、美しさを思う心の思いが限りなく豊かだからです。そして好きな詩人は誰、好きな画家は誰?と聞かれたら皆答えは違うでしょう。

 

ここで主イエスの心を表す言葉が、心に憤りを覚えになった、興奮された、そして人の心をとてもよく表す涙を流されたと続いています。主イエスのお心の動きが生き生きと感じ取れませんか。その涙が流れ落ちるのが見えるように感じ取れませんか。

ヨハネ福音書は主のお心の動きを三つの言葉で伝えています。憤り、興奮、涙の三つです。

この中で興奮されたというのは、誤解される言葉です。嬉しい時にも使う言葉です。ランナーが倒れながらも幾度も立ち上がって走るのを見て、感動した、という風にも言います。そういう意味はここにはありません。

主は十字架を直前にして、2回心を騒がせたと告げられています。先ず、12章1節、今私は心騒ぐ。続いて13章21節、イエスは、心を騒がせ、断言された。「あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている。

感動と言われている言葉は、心騒ぐという言葉なのです。ただ騒ぐだけではない。十字架を見通して、心騒ぐのです。この葬られたラザロのこと、マリアのこと、マルタのこと、ベタニアで起きていることを前にして、もうすでに十字架を向こうに見抜いて、心騒がせておられたのです。

涙を流される主が、私達の前におられます。この涙は、主イエスの心を表す涙です。悲しむ人のために流される涙です。悲しみを共に負って下さるものです。だから私達の悲しみには真の慰めが約束されているのです。山の上の説教と呼ばれている主のみ言葉に告げられています。悲しむ人々は幸いである、その人達は慰められる(マタイ5:4)。

 

主の涙はもう一つ、激しい涙も意味しています。憤りの涙です。怒りの涙です。泣いているマリア達に怒っているのではありません。主の怒りは、悲しみをもたらすものに向かいます。

十字架を予告された主イエスを、弟子のペテロが、とんでもない、そんなことはあってはなりませんと、注意し諫めたことがあります(マタイ16:22)。主の返事はまことに厳しいものでした。サタン、引き下がれ。私の邪魔をする者(マタイ16:23)。悪魔の働き、死と裁きをもたらすもの、神の恵みから追い出す働きを怒る涙です。

 

憤り、心を騒がせ、涙を流す。これは主イエスがまことに人であることを示します。罪をのぞいて、あらゆる点で私達と同じまことの人だと伝えています。

恵みがここに届くには、主が神の子であるだけでは起きないのです。同時にまことの人であることによって、神の恵みが人に渡されて、人の恵みになるのですから。

私達たちの為に、涙を流される主イエスをしっかりと見つめてこの一週間とする。

 

天の父、足早にマルタの様に主のもとに来る私達にして下さい。跳び上がり跳ねるマリアの様に主のもとに来る私達にして下さい。主がまことの人である故に、あなたの恵みが私達の恵みになることを強く覚えさせて下さい。涙を流される主を見つめさせて下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 
 
 

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