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9月21日 礼拝説教 「主イエスが取りのけさせた石」

『イザヤ書』43:1 

『ヨハネ福音書』11:38~44


短く祈ります。

天の父なる神様。ラザロの墓の石が取りのけられたことの意味を教えて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン

 

イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われたのです。すると、人々が石を取りのけた、のです。いよいよ主はラザロのもとにお見えになりました。ユダヤのお墓は洞穴で、入り口は重い石で閉じられていました。四日もラザロを閉じ込めている死の石です。罪の結果である裁きの死を表す石です。死は、体が傷んでいくことよりも、罪との関りで説かれています。一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。全ての人が罪を犯したからです、そうと聖書は教えています(ローマ5:12)。死の石は、罪の石でもあります。神に対する罪は、人の幸いを壊すものとして現れます。死の石は、人の幸いを壊す石です。罪がその様な形をとるのだから、死の石とは、罪の実と言える。敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、等と聖書は挙げています(ガラテヤ5:21)

私達は一体幾つの石に閉じ込められているでしょう。その石でどれだけ多くの人を傷つけて来たことでしょう。どれだけ自分を傷つけたことでしょう。どれだけ神を悲しませたことでしょう。アモスという預言者がいました。そのアモスが預言しています。イスラエルの家よ、この言葉を聞け。私がお前たちについて歌う悲しみの歌を(アモス5:1)。悲しみの歌を神に歌わせるほどに神を悲しませてきたのです。私達はそれに気付いているか。

その石を、主キリストは取りのけて下さるのです。ラザロもお墓の石を取りのけてもらいました。

 

マルタは主キリストのご計画が分からず、お墓を開けることは相応しくありませんと言います。召されて四日も経っていますから、と言います。するとイエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた(40)。

もし信じるならと言われました。<信じる>という言葉について、聖書は幾つか使い分けています。信仰に幾つかの面があると言えます。そのうちの一つに、主イエスを迎えたマルタの信仰告白に表されています。マルタはこう信仰を表します。「主よ、あなたがメシアであると私は信じております(27)。」信じていますという言い方から分かります。それは粘り強い信仰、静かであってもいつまでも変わらない、忠実な信仰の在り方です。

もう一つは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女性に語った町の人々の場合です。人々が、イエスの言葉を聞いて信じた(4:41)とあります。信じた、と過去の形になっています。これは信じるという事を、時を逃さず今こそ信じる、という信仰の在り方です。明日がある、とはしない。やがて、そのうちにしよう、ともしない信仰です。新鮮な信仰、緊迫した信仰、今信じる信仰と言えましょう。もし信じるなら、神の栄光が見られると言われたのは、この今こそ時を逃さず、信じるという信仰が教えられています。

 

神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。言っておいたではないかという主の言葉は、普通の質問ではありません。普通の質問なら、栄光が見られると言いましたか、となります。言っておいたではないかを「言わなかったですか」、という質問にする事も出来ます。マルタが必ず答えることを期待する質問です。そして、これは覚えていませんかという質問に言い換えられます。話されたことを思いだしてみて下さい、ということです。その時のみ言葉を思い起してみてごらんなさい、というのです。

 

マルタはどのみ言葉を思い出せばよかったのでしょうか。どんなお約束を思い起こせばよかったのでしょうか。今、その聖句を探してみましょう。そんなに前のことではありません。主イエスを迎えに行った時のみ言葉ですから。見つかりましたか。25~26節です。私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。主のこのお約束を思い出せばよかったのです。

困難に直面した時、すべきことはみ言葉を思い出すことです。苦しみに直面した時に、すべきことは主のお約束を思い起こすことです。明るい望みが見通せず、闇に閉ざされてしまうような悲しみに直面した時に、すべきことはみ言葉を思い出すことです。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」との主のみ言葉が心に刺さるのです。思い出し、思い起こして、その主のお約束が成ることを信ずることが大事だと言われています。『詩編』に、本当に幸いな人は、こういう人だと歌うみ言葉があります。いかに幸いなことか‥主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人(詩編1:1~2)。あなたは、主のみ言葉をいつも思い出し口ずさんでいますか。決して、つぶやきの言葉ではない。不平を言う言葉でもない。嘲りでもない。人を悲しませる言葉でもない。そんなものではなく、主のお約束をいつも思い起し口ずさんでいますか。いつもあなたが口ずさむみ言葉やお約束はどういうものですか。お帰りの際、牧師と交わす挨拶の時、それをお伝え下さい。

 

主イエスはお祈りをささげられた後、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた(43)。お話をされる時の主イエスの声は大きかったのでしょうか。時には、とても大きい声で説教をされたのではないか。大勢の群衆が集まって来た時、主イエスは舟にお乗りになりました。岸辺に立っている群衆に、舟からお話しになりました(マタイ13:2~3)。大きな声でたとえ話をお語りになったのです。大声でお話しなさらないと岸辺の大勢の群衆には聞こえなかったのです。

お墓の前での大声は、それと様子が違います。墓の石は、死の石・罪の石・幸いを壊す石だと伝えました。これは、目の前の入り口の戸の石が開いたとしても、死の石・罪の石・幸いを壊す石は邪魔して主の声が聞こえないようにしてしまうのです。主の声が聞こえないようにしてしまう、そういう死の石・罪の石・幸いを壊す石は、私達はなかなか取りのけられないのです。創世記のエバを思い出してみましょう。美味しい実の樹がある中で、たった一つの樹だけからは採ってはならないと神に言われました。神の声はエバにもアダムにもよく聞こえていました。所が、蛇の誘惑の言葉を聞いたとたんに、それまでよく聞こえていた神の声が小さな、かすかな声になっていくのです。やがて、聞こえなくなっていくのです。蛇の言葉が、二人にとっての、死の石・罪の石・幸いを壊す石になってしまったからです。それは、私達も同じです。み言葉を聴こうと言いながら、実は主の御言葉をなかなか聞こうとしないのです。他の言葉ばかりが気になり、そちらの方が魅力的だと思ってしまうのです。

しかしそこにいた人々の奉仕の業を導いて、主は死の石を取りのけて下さる。罪の石を転がして下さる。幸いを壊す石を取り除いて下さる。

すると、主の大声が良く届くのです。「ラザロ、出て来なさい。」(43)。ラザロと名前を告げるのは、呼び掛けであることは直ぐに分かることです。日本語では名前の後に「よ」と付けると、はっきり呼び掛けとなることが分かります。普通には付けませんが。この箇所も、口語訳ではラザロよ、と告げています。新約聖書の言葉はこの点便利です。呼び掛けの言い方になっていて、間違えることが起こらないのです。

156頁を開いて下さい。上の段に、「イエス、逮捕される」という小見出しがありますね。二つの読み方が出来ますね。一つは、主が誰かを逮捕なさるということ。もう一つは、主が誰かに逮捕されるということ。読んでいけばどちらかすぐ分かることですから問題にはなりません。でも読み間違いが起こりうることは分かります。

それと比べると、「ラザロ、出て来なさい。」という言葉は、そもそもラザロへの呼び掛けの言い方になっているのです。ラザロよ、と呼んでいる言葉になっています。

息を引き取り葬られ四日も経っているラザロに呼び掛けておられます。救いの御業を行うためです。

さて、主が大声で呼び掛けられるのはラザロにだけでしょうか。ラザロだけという風に福音書から聞くのでしょうか。違う。さあ、彼のところへ行こうという言葉から、何を聞いたでしょうか。ラザロのところに来られた主は、私達に向かっても来られているのではないか。さあ、あなたのところへ行こうと言われる、その主の声を聞こうと示されたばかりです。ここでも同じことです。ラザロへの呼び掛けは、私達への呼び掛けです。

ラザロは息を引き取り葬られ四日も経っていました。私達も罪のために死んでいたではありませんか(エフェソ2:1,5)。ラザロにもそうされた様に、私達にも呼び掛けの言葉をお使いになって、名前を呼んで下さる。イザヤが預言した通りです。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私の者。私はあなたの名を呼ぶ(イザヤ43:1)。自分の名が呼ばれたことをはっきりと聴いたものとして、この一週を過ごします。

 

天の父、御声を聴けないようにする全ての石を取りのけて下さい。御声を聴いて、あなたに悲しみではなく喜びをお捧げ出来ます様に。どんな時も、み言葉を思い出し、お約束を思い起こすことが出来ます様に。そのためにも昼も夜も口ずさむみ言葉をお与え下さい。自分の名前が呼ばれたことを深く覚えて、生きる者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 

 
 
 

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