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9月27日 「権威ある新しい教え」 伝道師 金井恭子

10月9日
読了時間: 8分

申命記18:15-19

マルコによる福音書1:21-28

 

本日の聖書箇所は、21節の「一行はカファルナウムに着いた」という言葉から始まります。「一行」とは、主イエスと弟子たちのことです。いよいよガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムで、具体的な宣教活動が始まろうとしています。

 

この町は、エルサレムを中心とする宗教的・政治的世界から見れば、中心から離れた場所でありました。しかし、ガリラヤ湖周辺は単なる辺鄙な田舎町というわけではありませんでした。漁業が盛んで、マグダラやティベリアなどには大きな港もありましたし、魚は単なる自給用ではなく、加工・販売される商品でもあったようです。つまり、多くの漁師が生活する地域であると同時に、経済活動が活発な地域でもあったのです。ですから、大都会ではないが、漁業と交易によって外の世界とつながっている村だったと言えます。

 

とはいえ、ヨハネによる福音書1:46では、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い、7:52ではファリサイ派の人々が、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と、主イエスについても“そんなところからメシア的な人物が出るわけがない”という疑念を持っていたようです。

しかし、エルサレムのような宗教的中心からではなく、ガリラヤという地域から来られ、その中でもナザレという小さな町で人として育った主イエスは、カファルナウムという湖畔の町を宣教の拠点の一つとされました。神の国の福音は、人間が重要だと考える場所からではなく、私たちが見過ごしてしまうような、ごく普通の場所から始まったのです。

 

主イエスは、安息日に会堂に入って教え始められました。会堂を意味する言葉「シナゴーグ」は、元々「集まり」という意味の言葉でした。会堂は、安息日に人々が集まり、聖書が朗読され、祈りや教えが行われる、ユダヤ人共同体にとって大切な場所でした。そこに主イエスが入って行かれ、教え始められたのです。そして、人々はその教えに驚きました。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」からです。

律法学者たちは、神の律法を研究し、それを人々に教えていました。救われる根拠が律法を守ることにあると信じている彼らは、聖書の律法をどのように理解し、どのように生活の中で実践すべきかを熱心に教えていました。その意味では、彼らもまた神の御心に従って生きようとする人々を導く役割を担っていたのです。

しかし、主イエスの教えには、人々がこれまで聞いてきた律法学者たちの教えとは違うものがありました。主イエスは、誰か他の人の権威を引き合いに出して御自身の教えを正当化されるのではなく、神の御心を御自身の言葉によって語られました。そのため人々は、「権威ある者としてお教えになった」と驚いたのです。そして、ここでマルコが私たちに見せているのは、単に「イエスは素晴らしい教師であった」ということではありません。主イエスの権威は、この後、一人の人を苦しめていた「汚れた霊」に対して現れていきます。

 

主イエスが会堂で教えておられたとき、そこに「汚れた霊に取りつかれた男」がいました。ここで、少し不思議なことが起こります。人々は主イエスの教えを聞いて、「権威ある新しい教えだ」と驚いていました。しかし、その主イエスがいったい誰なのかを、いち早く言い当てたのは、この汚れた霊でした。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」と、この汚れた霊に取りつかれた男は言いました。この「かまわないでくれ」

の元の言葉は「あなたが私に何の関係があるのか」「それはあなたの問題で、私には関係ない」つまり、単なる「放っておいてください」ではない、拒絶の言葉です。ところが、この汚れた霊は、イエスが誰であるかを知っているのです。「神の聖者だ」と正しく告白している。主イエスが誰なのかを知らなかったわけではありません。むしろ、知っていた。しかし、知っていることと主イエスに従うこととは同じではありません。主イエスが神から来られた方であることを知っていても、その権威を受け入れることを拒む。「あなたが何者かは知っている。でも、私のところには入ってこないでくれ」そう言っているのです。

主イエスは、その人を縛り苦しめているものに向かって、「黙れ。この人から出て行け」と命じられます。ここに、主イエスの「権威ある新しい教え」があります。

 

私たちは、この汚れた霊と自分たちを同じように考える必要はありません。この箇所が「あなたがたも悪霊と同じだ」と言っているわけではないからです。しかし、ここで自分自身に問いかけることはできるのではないでしょうか。私たちは、主イエス・キリストを知っています。教会に来て、聖書を読み、祈り、讃美歌を歌います。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我らはその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」と告白します。けれども、「知っている」ということと、「主として受け入れている」ということは、本当に同じでしょうか。

私たちは「主よ、どうかお願いします」と祈ります。けれども、地上の現実の歩みにおいては、無意識のうちに「ここから先は私の領域だ」という意識を持って生きていることが多いのではないでしょうか。「自分の価値観を変えたくない」「このことについては自分で決めたい」「このことは自分で計画を立てた通りに進んでいきたい」と考えて生きることが、私たちにもあるのではないでしょうか。

今日の聖書箇所が私たちに語っているのは、「もっと従いなさい」という命令ではありません。主イエスは、「かまわないでくれ」。つまり、「我々とあなたに何の関係があるのか」と拒絶されたとき、「そうか。では、あなたとは関わらないでおこう」とは言われませんでした。主イエスは、その人のところに立っておられます。そして、「黙れ。この人から出て行け」と言われます。すると、汚れた霊はその人をけいれんさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。ここに、主イエスの権威があります。

 

律法学者たちは、聖書を教え、律法を解き明かしていました。しかし、主イエスの権威は、単に「正しいことを教える」というところにとどまりません。主イエスの言葉は、現実に働くのです。人を縛っているものに向かって、「出て行け」と命じる。そして、その人を解放する。だから人々は驚いて言いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と。人々が驚いたのは、主イエスが珍しいことを教えたからではありません。その言葉が、現実を動かしたからです。ただ神について語られたのではない。神の国の権威をもって、人間を縛っているもののただ中に来られたのです。そして、このことは、私たちにとって大きな慰めでもあります。

 

私たちは、自分自身の力だけでは、どうしても自由になれないものを抱えて生きています。恐れがあります。執着があります。罪があります。人には言えない思いがあります。自分ではどうすることもできない過去があります。そして時には、自分自身でも気づかないうちに、何かに縛られていることがあります。しかし今日の御言葉は、「あなた自身の力で、それを解決しなさい」とは言っていません。何かに縛られているそのところに、主イエスが来られるのです。主イエスは、私たちが完全に心を開くことができるようになってから来られるのではありません。私たちが十分に信仰深くなってから来られるのでもありません。私たちが、「主よ、どうぞ私のすべてをお任せします」と言えるようになってから、初めて来られるのでもありません。そうではなく、私たちがまだ主に心を明け渡しきれない、そのところにまで、イエスは来られるのです。そして、御自身の権威をもって立ってくださる。だから、「権威ある新しい教え」とは、私たちを押さえつける言葉ではありません。私たちを縛っているものよりも、さらに強い主の言葉です。私たちを罪や恐れや絶望の中に閉じ込めておくものに対して、「黙れ」「この人から出て行け」と語る、主イエスの言葉です。

 

27節で人々はこう言っています。「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と。この出来事を見た人々は、まだ主イエスのすべてを理解したわけではありません。けれども、彼らは目の前で、主イエスの言葉が働くのを見ました。マルコによる福音書は、ここから私たちに問いかけ始めます。この方はいったい誰なのか。この方の言葉には、なぜこれほどの権威があるのか。そして私たちは、その問いに、福音書を読み進めながら答えていくことになります。今日、私たちが覚えたいことがあります。主イエスの権威は、私たちを押さえつけ、支配するためのものではない。私たちを縛るものから解放するための権威である、ということです。たとえ私たちがこのお方のご支配を望まず、「我々とあなたに何の関係があるのか」「かまわないでくれ」と言って拒んだとしても、主イエスは私たちを見捨てることなく、御自身の御言葉をもって私たちのただ中に立ってくださいます。私たちは、人間の力や努力によっては決して得ることのできない、神の救いの恵みと愛を示す「権威ある新しい教え」を知らされている者として歩むのです。

                                                      

恵み深い天の父なる神様。

私たちは今日、主イエスが「神の聖者」であり、御自身の権威をもって語り、また人を縛っているものから解放されるお方であることを聞きました。

 

私たちは主イエスを知っています。御言葉を知り、礼拝しています。けれども、その一方で、自分の手の中に置いたまま、主に明け渡すことのできないものを抱えている者でもあります。主よ、そのような私たちをどうか憐れんでください。私たちを縛っているもののただ中にあなた御自身が立って、私たちの力ではどうすることもできないものに対して、あなたの御言葉を語ってください。そして、私たちが恐れや罪や絶望に支配されるのではなく、主イエス・キリストの御言葉によって生きる者としてください。

この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

アーメン。

 
 
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