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9月28日 礼拝説教 「悪を善に変え給う神」

『創世記』50:16~21 

『ヨハネ福音書』11:45~54

 

祈ります。

天の父なる神様。ラザロの甦りの後の静けさの意味を教えて下さい。人の図り事の受け止め方を教えて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン

 

「ラザロ、出て来なさい」という主イエスの大声で、甦りを与えられたラザロがお墓から出て来ました。イエスは言われました、「布や覆いをほどいてやって、行かせなさい。」と言われました(43~44)。そこで終わっています。何か不思議に感じませんか。ラザロが甦った、それを驚き、喜び、感謝する言葉が何も書かれていません。

ベタニヤ到着の遅かった主イエスに「もしここにいて下さいましたら、兄弟は死ななかったでしょうに」と告げたマルタとマリア。しかし、今、ラザロが甦りを受けて出て来た時、マルタ、マリアの喜びの声や感謝の声は何も告げられていません。不思議です。

福音とは喜びのおとずれという意味です。福音を受けた時、その喜びを思わず表現するものです。喜びが沸いて出てくるのです。サマリアの女性は、用事を差し置いて、はやる思いで町に行き、「さあ、見に来てください。私が行ったことを全て、言い当てた人がいます。この方がメシアかもしれません。」と告げて回るのです

(ヨハネ4:28~29)。

 

それと並べてみると、ラザロ甦りの時には、あふれ出てくる喜びを伝える言葉は何もありません。不思議です。ヨハネは、書き忘れたのでしょうか。そもそも喜びがあふれて来なかったのでしょうか。まさか。「先生がお呼びですよ」と言われたら、跳び上がるようにして主イエスのところへ行く、そんなマリアが、兄弟ラザロの復活を知って、何も喜ばなかったなどあるはずがありません。しかし実際、驚き、喜び、感謝する言葉は何も告げられていません。さあ、ヨハネは何故それを告げていないのでしょうか。

皆さんは聖書の読み方をどうお考えでしょうか。本当に幸いな人とは、聖書の言葉を昼も夜も口ずさむ人。だから口ずさめるようにとみ言葉を覚えることが、私の聖書の読み方ですと言われますか。正しい読み方です。口ずさむ、とは、それによって自分が生かされていることをよく確かめることだからです。私の昼も夜も口ずさむみ言葉は、あなたの重荷を主に委ねよ、です(詩編55:23)。

 

聖書の読み方にはもう一つあります。そのみ言葉は私にとってどういう意味だろうか、と思い巡らす読み方です。クリスマスの時自分に向けられたみ言葉に対してマリアは、「一体このみ言葉は何のことかと考え込んだ

(ルカ1:29)のです。

後の方の読み方を当てはめてみます。驚き、喜び、感謝する言葉は何も告げられていないのは、私達教会にとってはどういう意味だろうか。二つ宣べます。

 

一つ目。マルタ、マリア、ラザロの代わりに、この御業をあなた達が驚き、喜び、感謝するようにという神のお勧めではないでしょうか。そこにいた弟子達の代わりに、あなた達が喜び歌うのです。ラザロの復活によってあらわされた神の栄光を讃えることをあなた達に任せるということではないか。この驚き、喜び、感謝、讃美は、あなた達の番だということではないでしょうか。礼拝で捧げる讃美には、あなた達に任せると言われたこと守っているといっていい。

 

二つ目。福音書は、急いでいるのです。何を急いでいるか。12章1節に「過越祭」とありますね。福音書が過越祭という時それは主の十字架のお苦しみを指し示すことが多いのです。広島・長崎と聞いたら何を連想されますか。多くの方が原爆の被害を思うでしょう。連想するという意味で、過越祭と聞いたら十字架を思うのです。12章8節に、マリアの香油が、私の葬りの日のために、取って置いたのだから、と言われている通りです。この十字架のお苦しみを伝えることに急いでいるのです。

 

ヨハネは、主の十字架と復活について、沢山伝えたいと思ったのです。福音書のおよそ半分は主の受難と甦りを伝えているのです。およそ3年の救い主として過ごされた間の、最後の一週間の御業とみ言葉を伝えることに何より力を注ぐのです。それを伝えるのに急いでいるのです。

さて、主イエスの御業を告げられた人は、最高法院を召集して、このままだと危ないと話します。国民が、新しい王としてイエスを担ごうものなら、ローマに滅ぼされてしまう、と話し合うのです。その中で、大祭司カイアファという人が発言します。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか。ローマに反抗し、ローマから独立するなどという事を、ユダヤの最高法院が止めさせればいい。自分の国をローマに攻撃などさせないように、新しい王を擁立しないようにさせればいい、と議論したのです。多くのユダヤ人が信じるようになってきているあのイエスを殺せば、ローマは攻撃などしないと議論したのです。ローマの攻撃は激しく、徹底的な破壊を与えます。神殿も、ユダヤの政府も破壊します。民族の独立も閉ざします。その攻撃の口実を与えないために、今この段階で、王となりそうな一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方を選ぼうとしたのです。政治的判断ということです。人間の図り事です。全体の利益のためには、一人の犠牲で済むのは好都合だとすることです。犠牲になる者の苦しみは少しも考えない冷たい図り事です。悪巧みです。

 

この政治的判断、冷たい人間の図り事であるのに、聖書は思いも及ばぬ高い評価を与えるのです。それは、神のお考えを預かって告げる預言だったのだ、とヨハネは教えてくれるのです。これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民にために死ぬ、と言ったのである。主イエスの死が、本当は神の救いを与えるものだと、預言したのだ、と示しています。一人の人間が民の代わりに死ぬ、これは、主イエスのお苦しみの意味を一番分かり易く伝えています。一人の人、主キリストが、私達の代わりに十字架にお掛かりになった、そのことを真っ直ぐに伝えています。

イザヤの預言を並べて心に刻みます。彼が担ったのは私達の病 彼が負ったのは私達の痛み 彼がうち砕かれたのは私達の咎のため。(イザヤ53:4,5)。主が代わりに担って下さった私達の病、主が代わって負って下さった私達の痛み、主が代わりに打ち砕かれたのは私達の罪のため、とイザヤは預言したのです。

確かにそれはカイアファの考えではありませんでした。カイアファは、それは自分の考えだと思ったでしょう。自分の賢い政治的判断、自分の図り事と思ったでしょう。しかしそれは、カイアファの思いを越え、その考えを越え、神の救いの預言になって行ったのです。カイアファの言葉が、神の救いを表す言葉に変えられていったのです。冷たい図り事が、神の熱い救いの計画を伝えることになったのです。悪巧みが、主の十字架を伝えることになったのです。神がなさったのです。預言して言ったとは、神がカイアファに預言させ、言わせた、という事だからです。神がなさったのです。

 

人の図り事を、たとえ悪巧みであっても、それを救いの御業に仕えるものへと変えて下さる神を示されています。その神を、両手で受け取るような感覚で、知りましょう。そういう神を知る者とさせてもらいましょう。

もう人の図り事に苦しまなくていい。人の判断に悲しまなくていい。人の企みに、悩まなくていい。あなたの神は、人の図り事を、たとえ悪巧みであっても、神の御業に仕えるものへと変えて下さるからです。

 

兄弟の悪巧みでエジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフという青年がいました。そこでも告げ口をされ逮捕投獄されてしまう。獄中の働きが高く評価されますが、自分の無実を晴らしてもらえるという約束を忘れられる、二年も。時間が流れ、やって来た兄達と再会することになる。恐れを覚える兄弟達に、エジプト宮廷の責任者とされたヨセフがこう告げる「あなた方は私に悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)

もう一度言います。もう人の図り事に苦しまなくていい。人の判断に悲しまなくていい。人の企みに、悩まなくていい。

 

私達の思いを越えて、善に変え、喜びに変え、恵みに変えて下さる神と共にこの一週間を送ります。

 

 

天の父、ラザロの甦りを、マルタ達に変わって、喜び、感謝し、主の栄光を讃える役割を果たしていく私達として下さい。あなたの御心が、人の図り事を越えて実現されること、人の企みを善へと変えて下さることを信ずる、その信仰を体得出来ます様に。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
 
 

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