9月6日 「真の王キリスト」 牧師 伊藤節雄
『士師記』8:22~23 『ヨハネ福音書』18:28~38前半
祈ります。
天の父 ピラトがみ子イエス・キリストに、あなたは王かと問うたことの意味をお教え下さい。
主の御名によって祈ります。アーメン
主イエスの受難の出来事が続いています。そこで、ピラトが彼等のところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った(29節)。どうしてローマの総督官のところに連れて来られたのか。ユダヤの大祭司には、死刑の判決を下せなかったからです。それは、ユダヤを支配していたローマの総督官にしか出来なかったのです。この時の総督官がピラトだったのです。
『使徒信条』を教会の信仰として、告白しています。大切にしてきた信仰告白です。この中で、名前が挙がっているのは、主イエス・キリストを除いて二人です。どなたでしたか。主イエスの母マリアとローマの総督官のピラト、の二人です。
考えてみましょう、行動を共にして主イエス・キリストに従った12弟子の名前がありません。福音書に繰り返し出てくるペトロの名前がないのです。主キリストを世界に証しして教会を建て、多くの手紙で主イエスを伝えたパウロの名前もない。しかしローマの総督官のピラトの名前が出てくるのです。主の弟子でもなければ、家族でも親族でもありませんのに、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と出てくるのです。
時代背景があります。仮現説を唱える人が現れて、主イエスのお姿は仮のお姿で、罪のある人間であったり、十字架で苦しまれたのは、仮のお姿なのだと教える働きが出て来たのです。その時、教会は、主イエスが仮の人ではなく、幻の人でもなく、見せかけの人でもなく、真の人であると言う信仰を明らかにしなければなりませんでした。歴史に記されている、確認できるピラトによって死刑を宣告されたことを伝えることで、真の人であると言う信仰を明らかにしたのです。
ピラトを巡っては、面白い物語が幾つもあります。聖書の中にも勿論あります。そしてその時代の歴史を伝える書物にもあるのです。ポンテオと言う名前が書かれているのはルカ福音書です(ルカ3:1)。ルカ福音書は福音を伝える時、いついつ誰それの時という風に時代や人物名を書くという特徴があります。ピラトがポンテオという名前だと教えてくれるのがルカ福音書です。
19章にはピラトがよく出て来ます。面白い物語が幾つもあると言いました。これから2,3回の説教の中で一つづつお話ししていくことにします。
復活の主が弟子達に伝えた使命に全世界に福音を伝えなさいというものがあります(マルコ16:15)。これに力を得て、初めの教会が直ぐに福音を伝えた先にエジプトがあります。そこに建てられた教会が、コプト教会です。更にエチオピアにはアビシニア教会と呼ばれる教会が建てられていきます。これら2つの教会では、ポンテオ・ピラトが信仰の先輩、聖徒として記念されていて、が続きます。6月25日が聖徒記念日になっているということです。
さて、ヨハネ福音書のピラトは、主イエスには訴えられ裁かれるようなものが何もないと考えるのです。明け方、早朝に皆が息せき切って連れて来たこの主イエスをどの様に対処するか、とても困っているピラトです。わざわざピラトの方から官邸の外に出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」というのです。更に「あなた達が引き取って、自分達の法律に従って裁け」と言うのです。こんな裁判はしたくない、煩わせるな、というのです。ユダヤのお前たちが勝手にやればいいというのです。
同じ様なことが使徒言行録に書かれています。パウロが訴えられた時です。アカイア州地方総督官ガリオンが言います「教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分達で解決するがよい。私は、そんなことの審判者になるつもりはない」(使徒18:15)。
ピラトは事の次第を見抜いていたのです。主イエスには訴えられ、裁かれるようなことは何もないと気付いていたのです。「どういう罪でこの男を訴えるのか」と皆に問うのは、中身のない訴えではないかというのと同じです。勝手に作り上げた自分の都合の良い訴えではないかと言ったのです。何故ならピラトにはこの訴えが、妬みのためだと分かっていたのです(マルコ15:10)。群衆が、主イエスの教えに心動かされ、その恵みと救いの御業に心動かされるのを見て、妬んだのです。自分達のもとから群衆が離れていくのを恐れ、主イエスを妬んだのです。
エルサレムをローマの権力で支配するピラトだから、主イエスの裁判を放り出すことが出来たのです。しかし、取り調べが続きます。ローマ皇帝に直訴するという脅しに屈する形で裁判を続けます。
ところが福音書は重要な知らせを書いています。死刑の話が出た時、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった、というのです(32節)。主はご自分の死を予告されていました。ヨハネ福音書3:4で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と告げた通りです。
ピラトの裁きも、その後の十字架の苦難も、主イエスのことがの実現なのです。ユダヤの権力、ローマの権力が十字架の苦難を創り出したように思えるかも知れない。しかしそうではない、主イエスの救いの約束の言葉が、十字架の苦難をもたらしたのです。十字架に上げられて救いが実現すると、主、言われたのです。ここで裁かれて、苦難をお受けになることも、主の予告通りだというのです。主イエスを遣わされた神の計画通りだというのです。救いを与える形で、神が支配されていることが実現するのだというのです。
非常に分かり易い形で信仰の在り方が示されています。「我等の主イエス・キリストを信ず」と信仰を告白する生き方は、イエスの言われた言葉が実現することを信じる生き方です。主イエスを信じるとは、イエスの言われた言葉が実現することを信じることです。クリスマスの時のマリアの信仰に学びたい。天使のお告げに、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になります様に。」(ルカ1:38)お言葉通りこの身になります様に!
今日は聖餐式があります。主キリストの、お体と御血潮にあずかります。主の言われた言葉を思い出します。「私の肉を食べ、私の血を飲む者はいつも私の内におり、私も又いつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:56)。パンとぶどう酒にあずかる時、イエスの言われた言葉が実現することを信じる生き方が確信されるのです。
ピラトの尋問が続きます。人々との遣り取りがありましたが、ピラトが主イエスに直接問うた尋問で繰り返したものは何でしたか。短い尋問です。33節「お前がユダヤ人の王なのか」。37節「それでは、やはり王なのか」。ピラトが一番知りたかったことは、主イエスが王であるかないか、でした。主イエスのお答え、「私が王だとは、あなたが言っていることです。私が真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」
私が王だとは、あなたが言っていることですというのは少し説明が要ります。主イエスが王であることは、ピラトが言う王とは違っているということです。ピラトさん、あなたが言われた王とは違うのです、ということです。幾つかの訳は「あなたの言う通り、私は王である」と訳しています。文語訳も口語訳もそう訳しています。元の言葉の習慣からそう訳す事も出来るのです。どちらにしても、主イエスが王であることを伝えています。
キリスト、という言葉は「油注がれた者」という意味です。どういう方が油注がれた人と言われたでしょうか。預言者、祭司、王です。これが、主キリストの三職と言われます。救い主としてこの三つの働きをして下さるということです。この中の王の務めを次のように教えている信仰問答があります。「み言葉と御霊とをもって支配し、我々のために得て下さった救いの中に、我々を守り給って下さる、我等の永遠の王」(ハイデルベルク信仰問答31)。
では真の王キリストを信じるとはどういうことになるのか。真の王として、支え、配慮し、守り、保って下さる主を信じるとはどういうことになるのか。どうしたら真の王に支えられ、配慮を受け、守られ、保たれていると言えるのでしょうか。私が真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞くことにあるのです。主の声に聴くのです。主の証しを聴くのです。それが真の王なるキリストを信じることなのです。
あなたは今日、主の声に聴くことを赦されました。主の証しをお聴きになりました。だから主は、あなたを支え、配慮し、守り、保って下さるのです。それを信じ受け止めてこの一週間を過ごしましょう。
天の父、み子イエス・キリストの御声に聴き、その証しを聴くことがゆるされました。真の王として私達を支え、配慮し、守り、お保ち下さることを信じて生きていけます様に。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
