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9月7日 礼拝説教「復活と命を与える主イエス」

『イザヤ書』25:7~10 

『ヨハネ福音書』11:17~27 


天の父なる神様  主キリストが私達のところに来て下さることを教えて下さい。私達の計画と神の御心との違いを弁えることが出来る者として下さい。主の御名によって祈ります。アーメン

 


先に、ラザロの復活の知らせを確認しておきましょう。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。(ヨハネ11:43~44)この大きな喜びの御業の前に幾つか心に残る主との遣り取りがあります。

ある病人がいた、と始まった。(1)マルタ達の願いも届いた。(3)主イエスが到着されても、「もしここにいて下さいましたら、兄弟は死ななかったでしょうに。」とマルタが語り掛ける。(21)ラザロの病、マルタ達の願い、残念に思うマルタの気持ち、が伝えられています。つまり、マルタ、マリアの願いから事が始まったように見受けられます。やがて起こる大きな喜びの御業が、二人の願いから始まっているように受け取れます。

それが間違いであることを主イエスは示します。知らせを受けても直ぐには動かず、なお二日間そこにお留まりになるのです。神の御心を問い尋ね、御心を確信されて動かれるのです。その時、主は言われた、「もう一度ユダヤに行こう」。ここに、これから始まるあの大きな喜びの御業に向かって、それが御心だと確信して出発される主のみ言葉が聞こえているのです。

マルタ、マリアが事を始めたのではなく、神の御心が事を始めたのです。それを確信された主イエスが始めたのです。そういうことを『箴言』のみ言葉に教えてもらいます。人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。(箴言19:21)信仰は、主の御旨が成ることを信じます。主の御心を信頼します。神を信頼するのですから、どんなことがあっても安心し、喜び、期待し、希望を持ち、力を尽くせるのです。

 

しかし、主イエスが到着した時、主の御旨のみが実現するという安心や喜びや期待の明るさは、なかった。あるのは、自分たちはもう何も出来ないという諦めでした。神の御心を見ないで、自分の無能さを見たのです。そしてその無能さに捕らわれてしまいました。ラザロは墓に葬られて既に四日も経っていた。(17)マリアは迎えにも行かず、家に座っていた。マルタはマルタで「もしここにいて下さいましたら、兄弟は死ななかったでしょうに。」と訴えるように告げる。また多くの知り合いは、ラザロのことで慰めに来ていたのです。ラザロの死を悲しみ、残されたマルタ達に慰めを伝えようとやってきていました。

ここには、もう遅いという思いが立ち込めています。何もかも終わってしまったという思いに包まれています。万事窮す、もう無理だ打つ手はない、この悲しみは変わらない、そういう諦めだけが色濃く漂っています。どんなに努力や工夫をしても、何かが良くなることなど最早ないと感じていました。

 

そこに主イエスが来られたのです。ご自分の、人としての無能さを見るのではなく、父なる神の御心を確信する心をもってやってこられ今、到着されたのです。そこには、主の御旨のみが実現するという安心や喜びや期待の明るさがありました。

主イエスはベタニヤの村に来られました。何をしに来られましたか。誰の所へ来られたのですか。福音書を丁寧に読んでみましょう。とても分かり易い。先ず誰の所へ来られたのでしょうか。15節、さあ、彼のところへ行こう。次に、何をしに来られたのでしょう。11節、私は彼を起こしに行く。ベタニヤ行きの目的はとてもはっきりしています。ラザロのところへ、大きな喜びの御業を行うためでした。主の御旨のみが実現するという明るさを持って来られたのです。

知り合いのユダヤ人達はマルタ、マリアのところへやって来た。しかし主キリストは、ラザロのところへやって来られた。この違いはとても大きい。完全に違うものと言っていい。葬られたラザロのもとに、復活の主としてやって来られたのです。死に打ち勝つ、救い主としてやって来られたのです。

 

主キリストは言われた、さあ、彼のところへ行こう。彼、とは誰でしょうか。ベタニヤではラザロでした。しかしラザロだけでしょうか。改めて主に尋ねてみましょう。誰のところへ行こうと言われているのですか。ラザロのところに来られた主は、私達に向かっても来られているのではないか。

病の床にいる方のところに、仕事や家族のことで課題を覚えている方のところに、経験の浅い幼い者のところに、何かを目指して生きている人のところに、何を目指していいのか分からない方のところに、さあ、あなたのところへ行こうと言われる。その主の声を聞こう。

 

そして何よりも大切なところ、礼拝にこそ主は来られているのです。主イエスのみ言葉を聴いているとはそういうことなのです。

 

ラザロのところに来られた時、主イエスにとってはどういうラザロだったのでしょうか。イエスはラザロを愛しておられた、ことは聴いたばかりです(5節)。主イエスにとっては、愛するラザロだったのです。神の愛をもって愛するラザロでした。もう一つあります。私達の友ラザロとも聴いたばかりです(11節)。主イエスにとっては、ご自分の友ラザロだったのです。

 

主の愛するラザロ、主の友ラザロという。ラザロと同じ様に、私達も主の愛する者、主の友なる者と、神の言葉は告げていませんか。間違いありません。聖書はそう教えてくれています。キリストが私たちの為に死んで下さったことにより、神は私達に対する愛を示されました。(ローマ5:8)ラザロに注がれた愛と同じ愛が、私達にも注がれていると言うのです。

主のみ言葉を聴き、そのみ言葉に従って生きる者に、あなた方は私の友である、と告げて下さる(ヨハネ15:14)。ラザロをそう呼ばれたように、私の友と呼んで下さる。

それなら、ラザロのところに来られた主キリストは、私達のところにも来て下さっているのです。罪に死んでいた私達に、復活の命、救いの命を与えるために。

聖餐式があります。パンとぶどう酒に与るのは、私達のところに来て下さっている主キリストに結び合わされることです。

 

ラザロの復活という大きな喜びの御業を前にして、主キリストは言われます。私は復活であり、命である(25)。

「復活である」とは、復活の御業を行われるということです。「あなたの兄弟は復活する」と言われる言葉が実現することです。

復活を信じさせて下さるということです。復活の信仰をお与え下さることです。

復活による勝利を与えて下さることです。罪と死に対する勝利です。イザヤが預言したことが実現するのです。死を永久に滅ぼして下さる。(イザヤ25:7)それをパウロは、死は勝利に飲み込まれた、と言うのです(Ⅰコリント15:54)。

この主キリストの勝利の中で、この一週を過ごします。

 

天の父、あなたのところへ行こうと言われる主の声を聞きとめ、自分のところに来ておられる主キリストを覚えることが出来ます様に。そして、大きな喜びの御業を行い給うことを見ることが出来ます様に。あなたの愛を受けるに相応しい者ではありませんのに、愛する者と呼んで下さいます。主の友と呼ばれるのも相応しい者ではありませんのに、私の友と呼んで下さいます。信仰によって、主キリストに結び合わされることを何よりも大事にすることが出来ます様に。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
 
 

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