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「主の晩餐を前にして」

2023年1月22日 主日礼拝説教(降誕節第5主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 申命記13:2~5
新約聖書 コリントの信徒への手紙一11:17~26

             

ひと月ほど前になりますが、昨年のクリスマスの時期、私たちの教会に繋がる青年たちと共にささやかな集まりを持ちました。直接集まったのではなく、インターネット上で顔を合わせました。日程の都合で多く集まることはできませんでしたが、それでも、特に今、松本を離れて学生生活を送っている青年たちも参加してくださり、久しぶりの再会を喜び合いました。

印象的だったのは、その学生たちが、忙しい日常生活の中でふと、孤独感や寂しさを覚えると異口同音に語っていたことでした。大学キャンパスには大勢の学生たちで溢れているのに、気付いてみると、自分一人がポツンと取り残されたような感覚になる、というのです。「あれ、友達って、どうやって作るんだっけ?」と、今まで思いもしなかった問いさえ抱くようになったと、正直に語ってくれた青年もいました。

ちょうどその青年の通う大学がミッションスクールだということもあって、私は、私自身がかつてキリスト教の大学に在学していた時のことを思い出し、こんなお話をしました。ミッションスクールですから、平日のお昼にチャペルアワーがある。礼拝の時間です。しかし普段はほとんど集まらない。キリスト教の必修授業でレポートの課題が出された時には、にわかに礼拝堂は人で溢れ返りますが、そうでない時は閑散としています。時には一人だけ、ということも珍しくありません。

そのような現実の中で、あるクリスチャンの先生の次の一言が、今でも心に響いています。「その日、礼拝堂にたった一人しかいなかったとしても、私たち教員は、その一人のために、全力で神様の愛を伝える」。目の覚めるような言葉でした。この一言を聞けただけで、この大学に巡り合って本当に良かったと思いました。私はそこに、大学の宗教教育を担う先生たちの本気の情熱を感じると共に、その情熱をさらに根底から支える神様の愛、そしてイエス様の絶えざる招きを感じずにはおられませんでした。


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これが、ある一つのミッションスクールだけに特有な情熱であってよいはずがありません。同じ神のミッションを担う教会もまた、否、教会こそが、どんなに世界や時代が目まぐるしく変化しても、変わらぬ眼差しをもって一人一人を大切に見つめ、寄り添い、そのようにしてキリストの真実なるお招きに繋げてゆく働きを、自らの使命としなければなりません。

教会は、そのように絶えずキリストご自身が一人一人に呼びかけ、招いてくださることによって集まった群れのことです。しかしただ集まるのではありません。気の合う者同士が好きに群れている集団でもありません。むしろ姿形も性格も、生きている環境も、歩んできた道のりも、全てがまるで異なる者同士が、しかし何より、まず礼拝する群れとして集められます。自分をここに集めてくださったキリストを一緒に見上げるのです。そしてキリストを通して示される神様の愛を共に受け取ってゆく。それが、教会が教会として立ち続けるために、最も失ってはならない姿です。礼拝する姿。それは取りも直さず、私たちが私たちであり続けるための姿でもあります。

ところが、そのような教会の集まりが、「良い結果よりは、悪い結果」を招いてしまうことがある、と言っているのが、今日与えられましたパウロの手紙の最初の箇所でありました。コリントの信徒への手紙一第11章17節をお読みします。「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです」。

「ほめるわけにはいきません」。この言葉は、22節の終わりにももう一度出てきます。前回お読みした一つ前の箇所、同じ第11章2節では、パウロはコリントの教会に対して「立派だ」と褒めていました。ところがその後すぐ反対のことを言うのです。どうしても見過ごすことのできない、ある一つの問題がある。決定的な問題だと言ってよい。それは何か。

18節にありますように、彼らの間に「仲間割れ」があったのです。争いがあった。しかしそれが教会にとって致命的な問題となるのは、20節で具体的に記されているように、その仲間割れ故に、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」結果を生んでしまっているからだと、パウロは言うのです。

ここでパウロは、仲間割れすること自体はある程度、仕方のないことだと一見容認しているようにも見えます(18~19節)。教会は、必ずしも気の合う人だけが集まっている場所ではない。けれども、仮に対立があっても、一緒に集まって主の晩餐を食べることはできるはずだ。否、むしろ主の晩餐はその対立を乗りこえさせるものだ。ところが、その晩餐さえ一緒にできなくなるような仲間割れが、今あなたがたの間に起こっている。ここにこそ問題の核心がある。


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本日は17節から読み始めまして、少し長く26節まで、二つの塊の文章をお読みしました。しかし実はもう一つの塊、すなわち34節までの所を一続きで読まなければ、ここの箇所は、一連の流れを掴むことが難しいところでもあります。しかしそれではやはり長すぎますので、礼拝では今回と次回の二回に分けることにします。次回はもう一度、23~26節を抑えながら、その先を読むことになります。

その23節からの言葉をお聞きになって、あぁ、何度も耳にしたことのある言葉だと思われた方が多かったと思います。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り…」。これは、私たちの礼拝で月に一度聖餐式を行う時に、この聖餐を定めてくださった主イエスの言葉と業とを思い起こすために、いつも決まって司式者がお読みする聖餐制定の言葉であります。

その言葉は、実は今日のパウロの手紙の言葉から引かれています。けれども、そのようにとても大切な主の言葉が、今この手紙に書き残されることになったきっかけとなる出来事は、コリントの教会にしてみれば大変恥ずかしく、長くその不名誉な姿を歴史に残すことになってしまったとも言えるでしょう。真に教会らしくない姿があったからです。この主の聖餐制定の言葉を裏切るようなことをしていたからです。


いったい、主の晩餐を一緒に食することのできない程の仲間割れとは、どんな現実だったのでしょうか。そう思いながら、私たちがいつも行っている聖餐のイメージで今日の所を読みますと、少しびっくりするような光景が描かれていると思います。21節に「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」とあります。これは私たちの聖餐とは全く結びつかないことです。なぜこんなことが起こっているのか。

私たちが聖餐を頂く時には、礼拝の中で、整った形で行います。そして小さなパン一切れと、たった一口のぶどう液の杯を頂きます。しかし当時の事情はだいぶ異なっていたようです。それはまず、整った礼拝の中でというよりも、普段の食事の時に行なわれました。それも主の日以外の平日に、一日の働きを終えて、ある信徒の家に教会の仲間が集まって来る。そして晩ご飯、つまり文字通りの晩餐を、まずはとにかく一緒に食べたのです。

そうしながら、その晩餐に重ねて、実は主の晩餐が祝われました。そして例えば25節に「食事の後」とあるように、ただ僅かなパンと杯だけを象徴的に食べたり飲んだりするのではなく、実際に皆でご飯を食べ、その食事の最初にパンを裂いて、そして食事が終わってからまた、今度は杯を分け合うということをしていたようです。要するに、今では聖餐と愛餐とは区別されているわけですが、この時代の教会では、それが一つになっていたということです。


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さて、ところがここで問題が起きる。つまり、この晩ご飯の時間に皆揃うことができないこともあるのです。ある者は仕事を予定通り終えて集まって来る。しかし教会には様々な違いや身分の人たちが集められているわけですから、中には、社会で奴隷の身分として働く貧しい者たちもいました。彼らには、仕えるべき主人がいる。その下で命令通りに働かなければならない。仕事の終わるのが遅くなることもしばしばあったのです。

ところが、早くから来ることのできた自由な身分の人たちには、それが待ちきれなかった。だから彼らの苦労に思いを寄せることもなく、先に食べてしまう。そして既に酒に酔ってしまっている人たちまでいた。ようやく遅く辿り着いた人たちには十分な食事もない。そんな子どもじみたような有様が起こっていたのです。

パウロは、まさにこの乱れた姿を重大視しました。決して見過ごすわけにはいかない。だから33節ではこう言いました。「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」。あなたたちは待てないのか。最も遅く来る人が、おそらくその日最もよく働いて、お腹を空かせてやって来るというのに、なぜ彼らのことを待つことができないのか。もし待ちきれないのなら、一度自分の家に帰ったらどうか。パウロは、ここでいささか皮肉を込めたかったのでしょうか、22節でこう言います。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか」。同じような言葉は34節にも繰り返されます。「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」。


これは、パウロにとって死活問題でした。真剣勝負でした。事は主の晩餐、聖なる晩餐、私たちの命にかかわる問題だったからです。だから言いました。「それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」。あなたたちは神の教会を見くびっている。貧しい人々を無視して、恥をかかせるということは、すなわち、あらゆる人を分け隔てなくこの教会に集めてくださっている神ご自身を見くびり、侮っていることに他ならない。どうか、そのことを分かってほしい。

これを聞いて、もしかしたらコリントの人々は「ごめんごめん、お腹が空いてつい先に食べてしまっちゃったけれど、次から気を付けます」等と謝れば済む、くらいにしか思っていなかったかもしれません。でもパウロはそうではありませんでした。なぜなら、彼らの行いはまた、キリストの死を軽んじることに他ならなかったからです。福音の根幹にかかわることです。主イエスが、ご自分の命を投げ捨ててでもたった一人のあの人、この人を救い出し、共に同じ命の恵みの食卓に着かせようとされた、その尊い命を簡単に踏みにじっているからです。あなたたちには、その主の招きが見えないのか。私たちにも、それが見えているだろうか。


「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)。パウロはここから心を静めるように、しかし確かな思いをもって、語り直します。主の晩餐について、これまで伝えてきたことは、私の勝手な主張ではなく、私自身が主から受けたものであると。そう言います。

ご存知のように、パウロは主イエスの直接の弟子たちだったわけではありませんでした。ですから実際には、主イエスが、ご自分の弟子たちとの最後の晩餐において聖餐を定められた時、パウロはそこに居ませんでした。パウロが聖餐について伝え聞いたことは、あくまでも主イエスの弟子たちから、あるいはその弟子たちによって立てられた教会を通して、教会から教会へ、人々から人々へという伝承リレーの中で受け取ったものです。

にもかかわらず、パウロはここで、それらを「主から」受けたと断言する。実際には先輩の使徒たちから伝えられたはずなのに、しかしそれを、「主から」受けたと言っているのです。教会において、聖餐を制定された主イエス・キリストの言葉が、人から人へ、世代から世代へと語り次がれ、受け継がれてゆくまさにその中で、パウロは主の確かな姿を見、そのお働きの内に招かれていたのです。

そうであるからこそ、主イエスがあの十字架の死へと「引き渡される(てゆく)夜」に、パンを取って、弟子たちに「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節)と言われたその言葉を、パウロは決して過去の語録のようには受け取りませんでした。まさに今なお、「これは、あなたがたのために備えられたわたし自身の体である。否、体であり続けるのだ!」という力強い宣言として聴き、私たちもまた、同じように聴かせて頂けるのです。


*****

コリントの問題状況は、今日の私たちの感覚に照らせば、やはり遠く感じられるところがあるかもしれません。今や聖餐は、晩餐や愛餐とは区別され、決して腹を満たす食事としてではなく、ひたすら、キリストの命の恵みに与るものとして整えられ、礼拝の中で厳かに行われるのが当たり前となりました。今、私たちの誰が、遅い人を待ちきれずに先にパン口に入れてしまう人がいるでしょうか。また備えられる杯も、酔える程の分量とはおよそかけ離れています。

けれども、もしも私たちが聖餐に与りながら、しかし聖餐以上に、実は教会の仲間たちと外で一緒に食事をしたり、お茶をしたりすることの方が大切で、そちらの方がはるかに楽しみだと思ってしまうならば、それは神の教会を見くびり、キリストの死を軽んじているという点で、コリントの人々の信じられない程の幼い乱脈さと何ら変わらないと言わざるを得ないかもしれません。聖餐で、食べ過ぎたり飲みすぎたりすることはないにしても、そういう外の交わりが、信仰生活を楽しくし、教会を造り上げるともしも考えてしまうなら、私たちは立ち止まる必要があるでしょう。私たちに備えられた聖餐は、それ自体この世には代え難き喜びと恵みに満ちているのであり、何か他の楽しみによって補完されなければならないものでは決してないのです。

ならば、聖餐以外の聖徒の交わりは一切不要ということなのでしょうか。もちろん、そういうことではありません。むしろキリストが命を懸けて私たちをご自分のお蘇りの体に結び合わせてくださる、そのただ一つの代え難き恵みを聖餐毎に知らされ、その恵みに共に支えられるならば、そこに集められた一人一人がさらに互いをよく知り、支え合あってゆく交わりは、自ずと起こってくるでしょうし、ますます豊かにされることを願ってやみません。

大切なのは、教会の真の交わりは、どこまでキリストとの交わりが中心にあることです。キリストの交わりがあって、それとは別の交わりがまたあるのではなく、キリストとの交わりの中にこそ、私たちの交わりも真実に豊かにされるのです。どこまでも、キリストと共に。そしてキリストという命のパンを頂き続けることによって、私たちの交わりは、神の祝福の中で実りを得させていただくのです。


<祈り>

天の父よ。あなたは、御子のかけがえのない犠牲の命を通して、世界の至る所に、主の食卓を囲む群れを造り出してくださいました。そこに集められる者は、大きな者も小さな者も、豊かな者も貧しい者も、様々におります。しかし、いついかなる時も、その食卓で分かち合える主の恵みが変わることはありません。その恵みに与らせてくださるキリストの命を、どうか軽んずることがありませんように。聖餐毎に絶えず悔い改め、この私たちをキリストの体にあって一つにしてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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