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「人生の旅路の拠点」

2024年2月18日 主日礼拝説教(受難節第1主日)       
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書46:3~4
新約聖書 マタイによる福音書4:18~25

                 

先週の水曜日から、教会の暦では受難節に入りました。今日は、その受難節の中で最初に迎える主日礼拝であります。受難節。それは御子イエス・キリストが十字架に向かって歩んでくださったお姿、特にその後ろ姿を見つめながら、私たちもそれに従って歩もうとする時です。あるいはその従いゆく心を、何より神さまに正して頂き、新しく造り上げて頂くための祈りを篤くしながら、そこで示された道を一歩ずつ踏み出してゆく時でもあります。

今朝与えられましたマタイによる福音書の言葉。そこには二つの出来事が描かれます。一つは、ガリラヤ湖の漁師だったペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネという二組の兄弟たちが、主イエスの最初の弟子となった物語。もう一つは、主イエスがガリラヤ中を伝道して回り、中でも特に人々の病気を癒してくださったために、次から次へと大勢の人たちが主のもとに集まって来た物語です。

いずれも、主イエスがガリラヤで伝道を開始された最初の頃に起こった出来事です。そしてこの二つは、新共同訳聖書がそれぞれに「四人の漁師を弟子にする」・「おびただしい病人をいやす」という小見出しを付けていますように、別々の事として並べられているように見えます。しかしそうではありません。実は二つで一つの事を語っているのです。

理由は明らかです。それはお読みした18~25節までの中に三度、同じ言葉が出て来たことから分かります。「従った」という言葉です。20節に「二人はすぐに網を捨てて従った」とあり、22節にも「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。そして最後の25節にも、「大勢の群衆が来てイエスに従った」と記されています。つまり今日の二つの物語に共通することは、ここに、主イエスに従う人々が誕生したということに他なりません。


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ではこれらの人々は、どのように主に従ったのでしょうか。終わりから見てみたいと思います。

まず群衆たち。主イエスの回りに群がるこの群衆たちの間にも、主に従いゆく人々が大勢生まれました。その理由は、ある意味では実に素朴で、しかしまた切実なものでした。悩みがあったからです。自分が悩んでいたからであり、また、自分の愛する者が悩んでいたからです。その悩みを主イエスの所に持って行った。そこから解放されたい。早く楽になりたい。幸せになりたい。ただひたすらそのことを願っていたに違いありません。

24節に、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」という風に、具体的に紹介されます。例えば「てんかん」は、これは今日の医学的な病名とは少し事情が異なるのですが、元々は「月」という言葉に由来する病名です。月には何か特別な力というか、魔力がある。その不思議な力にとり憑かれると逃れられなくなる。自由が利かず、満月の時には発作が起きることもある。その月の虜となる苦しみから自由にして頂くために、ただそのことを願って、主イエスを追いました。

けれども主は、それを迷信だとか、愚かなこととして軽んじられたのではありませんでした。その悩み苦しみの中から主の名を呼ぶ人々に、「あなたの信仰があなたを救った」とさえ言ってくださるのです。

癒しを求める人々は、必ずしも主イエスについて特別な知識や、信心があったとは言えないような人たちだったと言えます。ただ、そこで人間として、無力で限りある生身の存在として苦しんでいた。そこに、この苦しみから解き放ってくれる救世主として、主イエスに大いなる期待を寄せた。ある意味、それだけです。しかし自分の命を主イエスの命に必死に託したその姿を、主は信仰と呼び、受け入れてくださったのです。主はそのように、ご自身を慕う人々を突き放すことなく、その懐に深く招き入れて癒してくださる。そこで初めて知る主の恵みというものがあります。そして恵まれた者として、そこから始まる、主に対する従順な歩みというものが形造られます。


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さて、もう一つの主に従う姿は、このように悩み苦しみの中から自ら主の許に訪ねたというより、むしろ主の方から訪ねてくださり、その主イエスに呼び出されてしまった人々です。それが、一つ目の弟子たちです。

ここに登場する四人はすべて漁師です。どうして彼らが主に従うようになったか、実はマタイは、その理由や心理描写について一切記しません。彼らはおそらく病気で苦しんでいたわけではないし、主イエスのことをよく知って、その教えに耳を傾け、熱心に祈ったり礼拝したりしていた所で主イエスと出会ったわけでもありません。「待ってました、イエス様!」という状況ではなかった。その日も普通に生活を営み、漁の仕事にコツコツ打ち込んでいた。

しかしまさに、その日常のただ中に主は踏み込まれ、姿を現してくださいました。そしておそらく、網を打っていた彼らの両手をもご覧になりながら、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と仰ったのです。弟子たちはこれを聴き、そして従いました。

マタイが記すのは、ただこれだけです。もちろん、ここには実際、色々な理由や条件が説明できるのでしょう。私たちもできればそれを知りたいと思う。あるいは私たち自身、今主イエスに従うにも、実は自分の側に十分な理由を挙げることができるかもしれません。あるいは、逆に今は主に従うことができない理由さえ、説明できるのかもしれません。主に従うにせよ、背くにせよ、いくらでも語り得る自分の事情というものがある。それが正当な理由であると自分では思い込んでいる。けれども、もしそれが当たっていたとしても、はたしてそれが本当に、私たちが主に従う、または背くことを説明するための決定的な理由になるのでしょうか。

マタイが今日、これ程まで簡潔に記しているのは、私たちが主にお従いする理由というのは、実はただ一つしかないということを、明らかにするためではなかったでしょうか。それはただ、主が呼んでくださったからです。「わたしについて来なさい」。主が私たちを呼んでいてくださる。呼び出してくださる。呼び求めてくださる。後にも先にも、ただそれだけです。

「わたしについて来なさい」。この言葉から、人生を決定づける程の何がしかの真実を聴き取ったのが、後に弟子となる四人の漁師たちでした。彼らはそこで、人生の方向転換をした。自分の目を、心を、そして命全体を、主イエスの方向に向けたのです。そして、普通ならすぐに手放せるはずもない商売道具、生活道具である網を捨て、舟や自分たちの父親さえそこに残して主イエスに従いました。

では翻って、先ほどの群衆たちの出来事の中で、いったいどこに、この主イエスの呼び声が聞こえていたのでしょうか。もう一度23節の言葉をお読みします。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。

大切なのは、主は人々の病や煩いを癒される時、その御業に先立って、必ず「御国の福音を宣べ伝え」ておられたということです。あるいは、こう理解しても良いでしょう。主が癒しの御業を人々の前でお見せになったのは、まさにそのことを通じて、「御国の福音」を告げ知らせたかったからに他なりません。ですから実際、例えば同じこのマタイの11章20節以下には、数多くの奇跡が行われてもその意味が分からず、悔い改めようとしない町々に対する主イエスの厳しい叱責のお言葉が記されているのです。

「御国の福音」とは何でしょうか。御国とは、天の国、神の国のことです。つまり、父なる神のご支配がついにこの世に迫り来て、あなたたち、そして私たちのところに今及んできているのだという知らせです。それも、良き知らせです。なぜなら、この地上におけるすべての悩み苦しみに終わりを告げるために、この世をお造りになった神の真の栄光が、ご自身の恵みのご支配をもって現わされることになるからです。そのことが、今もう始まっている。この私によって実現しているのだ。だから悔い改めなさい。向き直りなさい!立ち帰りなさい!と主は言われる。

これは、前回共に聴き取りました、主イエスご自身の伝道開始の第一声、すなわち17節のこの言葉に結びつきます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。したがって、今日お読みしました18節以下の二つの出来事は、この17節で主イエスが放たれた決定的な宣言のお言葉に貫かれているのでなければ、私たちは主イエスの本当のお姿を見失ってしまうことになるのです。


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天の国は近づいた。だから悔い改めよ。私に方向転換して向き直りなさい。そして、この「わたしについて来なさい」。皆さんにも、このイエス様の声が聞こえるでしょうか。心に響いて来るでしょうか。あらゆる雑踏や言い訳のただ中から、私たちはこの主の招きの御声を聴き分けて、従うことができるでしょうか。

主イエスを信じるということは、心の問題だけではありません。信じるとは、従うことに他ならないからです。イエス様を信じてはいるけれども、まだ従っていない、従える状況ではない、従うのはもう少し後だ、等というのは、信仰の実質においてあり得ないことです。イエスを真の主と信じること、それはどこまでも、自らは僕として主イエスの後を追うことです。主の前に立つことではなく、いつも後ろに回ってその後ろ姿を追い続けること。そのようにして主イエスの背中が見えるようになること。これこそ、私たちが信じていることの手応えであり、希望であり、命全体なのです。

こんな話を聞いたことがあります。主イエスの呼びかけに対して私たち人間がどのような態度をとるか、ということについてある人が次のように考察するのです。

若者は、主の求めを聞くとこう言いがちである。「ちょっと待ってください。私はまだ若いのです。決心をするにはあまりに未熟で、十分な人生経験も積んでいません」。ところが、中年になると、またこう言う。「主よ、お言葉はよく分かります。しかしご覧のように、私は今この生活に手いっぱいで、なすべき務めもあります。もう少し落ち着いたら、その時あらためて考えます」。やがて、この人も年老いてきました。再び主に呼びかけられると、こう答えるのです。「主よ、今からあなたに従うには、あまりに歳をとり過ぎました。もう、従う体力も気力がありません。今さらこの人生を変えることもできません。もっと若い時に従うべきでした」。

ここから教えられることは、主から呼びかけられる時、私たちにはいつでも、それを断るだけの立派な言い訳を持ち合わせているということです。どうしてこのタイミングで、この私に?という状況がたいていであり、もしかしたら主イエスとの出会いは、ほとんどこのようなパターンとさえ言えるのかもしれません。まさに招かざる客、不都合な客です。

けれども、ここから教えられるもう一つ大事なことは、それでもキリストは、諦めずに何度でも私たちを訪ねてくださり、忍耐をもって待っていてくださるということではないでしょうか。私たちの言い分はとっくに知っておられるはずの主が、その私たちの現実に踏み込んで来てくださる。しかも、私たちの決心や覚悟をはるかに超えて、ご自身の命を懸けた恵みをもって出会ってくださるのです。

「わたしについて来なさい」。

弟子たちは、全てのことを捨ててこれに従いました。それも、「すぐに」です。「すぐに」とは、時間を置かず、瞬く間に、という文字通りの意味にも理解できますが、速さというより、むしろ決断を意味します。「今、ここで」。今とは、主の招きが聞こえて来る時、その呼び声がこの自分に向かって繰り返し響き始めるその時のことです。「いつか、どこか」、ではなく、主ご自身が出会ってくださったまさに今その所でなされる、私たちの応答です。

これは、何も洗礼を受けようとしている人にだけ求められていることではありません。むしろ、既にキリストのものとされたキリスト者において、生けるキリストの御声に聴き従いながら一歩一歩を踏み出すことができるかどうか。日々そのための悔い改めに生きているかどうか。そのことが問われるのです。


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最後に、本日の説教題は「人生の旅路の拠点」と掲げていました。これは、私たちが日々何をするにしても、どんな境遇に置かれても、その時、いったい自分はどこに立っているのか。あるいは、どこに立ち戻るべきなのか。そしてそこで何を見て、見せられてゆくのか。そのような意味を込めて、この一つの言葉に辿り着きました。

私たちは今日も、この礼拝を通して主なる神さまから祝福を受け、ここから遣わされてそれぞれの人生の旅路を歩み続けます。そこには必ずまた、困難や試練が付きまとうでしょう。夫婦関係において、子育てにおいて、職場や学校において等々、次々と人生の課題や難問に直面する。「どうしてこんな時に…」、「どうしてあなたは…」と、相手や状況に対する愚痴の一つや二つはこぼしたくなるに違いない。

しかし、いくら避けようとしても、どうにも避けられない困難がなおも押し寄せる時、しかしそこで、自分が「遣わされている」と思えるかどうか。今日も嫌々な気分で行き詰っているこの自分は、しかし思い起こせば、主の日の礼拝毎に神さまに送り出して頂いて、今まさにここにいる。否、この事のために、他でもないこの自分が今ここに遣わされていると、そこで思い直せるかどうかは、実は、私たちの人生を大きく左右する鍵だと言えるでしょう。

しかしまさにその時に、一つ忘れないでいたいことがあります。背後から遣わしてくださる主が、実は私たちの前方を歩んでおられ、私たちに背中を見せてくださっているという約束です。本日併せてお読みしたイザヤ書の言葉。

「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(46:3~4)。

生れた時から、やがて老いて朽ち果てるその時まで、実は私たちはこの地上での生活を一人で生きているのではない。自分の足で歩いているのではない。気づかぬ先から、主が先立って私たちを導いてくださっているのです。その背中が見える時、しかしその背中は、既に私たちを負ぶってくださる覚悟を決められた主のお姿であり、全ての重荷を背負って十字架へとまっすぐ歩んでいてくださる、愛のお方なのです。この愛に満たされ続ける恵みを人生の拠点として、「わたしについて来なさい」と今も呼びかけてくださる主の招きに、共に応えて参りましょう。


<祈り>

天の父よ。

御言葉を感謝いたします。「わたしについて来なさい」と主が呼びかけてくださる所に、私たちの道が開かれます。命が芽生えます。希望が広がります。どうかこの恵みの中で、私たち絶えず新しく変えられ、また日々の生活の中であなたに招かれ、そして遣わされていることを知ることができますように。手の内に握りしめようとして握り損なってしまう本当の愛を、私たちはただ手を広げて受け取ることができますように。そのようにして、いつまでも共にいてくださるあなたの愛に生きさせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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