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「国とちからと栄えは神のもの」

2022年7月3日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第5主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 歴代誌上29:10~13
新約聖書 ルカによる福音書12:35~40

              

今朝もご一緒にお祈りしました「主の祈り」は、主イエスが私たちに教えてくださった大切な祈りであります。実はこの主の祈りは、幾つもの讃美歌ともなって、世界中で歌われて来ました。メロディに合わせて歌われ、歌いながら祈りを献げる。私たちの讃美歌にも何曲か収められています。

主の祈りは讃美でもある。そう言えますのは、この祈りの言葉に素敵な音楽を添えて、豊かに歌い上げることによって讃美となる、という理由だけではありません。そもそも主の祈りの言葉の中に、讃美の言葉が含まれているからです。その言葉こそ、終わりのこの一文、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」であります。

ところで、ここで言う讃美とは、もちろん神を讃美するという意味です。そして神を讃美するということについて、ある人がこんな風に言いました。「神を讃美するとは、すべてをその終わりから見ることに他ならない」。なかなか深く考えさせられる言葉です。そしてこうも言います。「(神を讃美するとは、自分の身に起きた)事柄を大いなる目的地と神の完成とから静かに思うことである」。

私はこの言葉から、私たちが普段、神をどのように讃美しているかが問われているような気がしました。神を讃美する。それは心が晴れやかな時、自分の願いが実現して感謝に溢れる時、あるいは、望んでいた以上のことが起きてさらなる喜びに溢れる時。例えばそのような時ならば、天を仰いで讃美するというのはた易いでしょう。しかしそれとは反対に、悪い状況のど真ん中では、讃美などとてもする気になれない。それが私たちの自然な心の傾きでありましょう。

しかし神を讃美するとは、何がしかの状況や事柄の渦中に目を遣るのではなく、終わりに目を向けることだ。そう言われるのです。起きている事柄が向かう目的地、あるいは、神が完成させてくださる本当の終わりの姿から、今を静かに思い、見つめ、受けとめ直す。そこに神讃美の心が生まれてくる。何かが自分にとって好ましい仕方で成就して初めて讃美するのではなく、むしろその成就を見るために、私たちに神を讃美するという新しい道が与えられ、開かれる。讃美などできるはずがないと思い込んでいるまさにその闇の中で、私たちは、神讃美という光の道を歩むことができるのです。


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さて、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」。これが今日、共に味わいながら深く祈り直したい、主の祈りの言葉です。

けれども、実はこの最後の部分は、主イエスが弟子たちに直接教えられた本来の語りの中には含まれていません。確かに、これまで繰り返し開いて読んで参りましたマタイによる福音書第6章にも、ルカによる福音書第11章にも、「国とちからと栄えとは…」という言葉は見当たりません。この言葉は、主の祈りを受け継いだ初代の教会が、後から付け加えたものだと考えられています。

この言葉の基になったのは、今朝併せてお読みした歴代誌上第29章10節以下の言葉だと言われます。ダビデの主を讃える言葉です。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる」。

歴代誌という、文字通りイスラエルの代々の歴史について語る、この書物の終わりに、ダビデ王は天にあるもの地にあるもの世界中のすべてのものを眺めながら、主なる神様、これらはあなたのものですと、全てを神に帰しながら神の偉大さをほめ讃えます。そして、その神のものと告白されたものの中から、後の教会は、「国」と「力」と「栄光」という三つの言葉を特に選んで、これを主の祈りの最後に加えました。


「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」。


これは、「限りなくあなたのものでありますように」と願う祈りではありません。そうではなく、国と力と栄え、これら三つは、神様、「限りなくあなたご自身のものだからです」と言い切っています。確信している。そして確信しながら、神を讃美するのです。

こうして主の祈りは、父なる神の御名が崇められますように、と願う祈りで始まり、そして最後は、その神に国と力と栄光の全てをお返しする讃美で終わります。キリスト教会は二千年間、この祈りを祈り続けて来ました。折の良い時も悪い時も、まさにこの祈りに支えられながら、歴史の荒波に耐え抜いて来た教会の姿があります。そのように教会がずっと守り抜いて来たこの祈りを、私たちも今、この時代と場所で受け継ぎながら祈っていることの尊さを、今日はぜひ共に心に留めたいと思うのです。


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国と力と栄光。よく考えてみますと、これらは一見、政治的な響きを伴う言葉にも聞こえます。それもそのはず、私たちの現実を見渡せば、この世の支配者たちは、己の領土、領海、領空、さらには資源をもできるだけ拡張させながら、自分の支配領域である「国」を強くすることに躍起になっています。そしてそのために、強大な力、「権力」を振りかざしては、その正当性と、それによって得る利益を人々に信じ込ませて、自らの「栄光」を身に纏おうとします。

初代の教会の人々は、この言葉を、主の祈りの結びに加えて祈り始めた時、全身全霊を込めて祈ったに違いありません。なぜなら、彼らの生きていた時代は、まさに自分こそ「神の子」だと自称するローマ皇帝の支配下にあったからです。その下で厳しい迫害を受けていた。毎日の生活と命が脅かされていた。

そのような苦難と恐れの中で、しかし彼らは大胆にも、主イエスから教えられた主の祈りを何度も祈り続ける内に、そこに自分たちの信仰告白とも言える神讃美の言葉を付け加えたのです。否、付け加えること無しに、この祈りを真実に祈りきることはできなかった。自分たちの苦しい現実を生き抜くこともできなかった。見せつけられている現実だけを見ていては、息が切れるばかりだった。そんな思いだったに違いありません。

「天の父よ、真に真の国と力と栄光は永遠にあなたのものです!」。国とは、神の国。神の支配が及ぶところです。力とは、神の力。あらゆることが、神の御心のままに行われる力のことです。そして栄光とは、神の栄光。神が私たちと共におられ、支配の力が現われるところでこそ放たれる光。讃えられるべき、神ご自身の輝きです。そのようにしてこの言葉は、当時のローマ帝国による大迫害の下にあっても、目を覚ましながら信仰の闘いを続けるための、キリスト者たちの合言葉となってゆきました。


目を覚ましながら祈る。讃美する。実はこの姿こそ、私たちキリストに従う全ての者にとって、大切な姿であることを、今日お読みしたルカによる福音書の御言葉は教えてくれます。主イエスはこの福音書の第11章で主の祈りを教えられた後、続く今日の第12章でまたこのように弟子たちに語られました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(35~37節)。

真夜中になっても腰に帯を締め、ともし火を灯し続けている。腰に帯を締めるというのは、聖書に度々出てくる表現です、その仕草が示すように身支度をしながら、何かに備えるという意味です。この場合は、給仕をする服装で、主人の帰りを待つということです。その家を外から覗いた者には、不思議な光景に映るかもしれません。それでも家の中の僕たちは、自分たちには主人がいること、そしてその主人が必ず帰って来る希望と確信があります。


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同じ主イエスの僕として生きる私たちは、実際に腰に帯を締め、ともし火を灯しながら礼拝するわけではありません。けれどもその代わりに、礼拝にこうして集まるごとに声を合わせ、心を合わせて主の祈りを祈ります。そのようにしながら、私たちには主人がいるということ、帰って来るはずの主人がいるということ、否、それどころか、その主人こそが、私たちのために本当の給仕をしてくださるお方であることを示しているのです。

いったい私たちは、生きている間に何度、主の祈りを祈ることになるでしょうか。何千回、何万回にも上るかもしれません。しかしやがて、もうこの祈りを祈らなくてもよくなる日が来ます。それは、私たちの主人であるイエス・キリストが、再びはっきりと目に見えるお姿でこの世に来られる、その約束の時です。国と力と栄えとが、本当に神のものであることが、火を見るよりも明らかになる、その終わりの日であります。その日には、主の祈りで祈っていたこと全てが実現している様を見るでしょう。その日には、全世界で神の御名が崇められ、神の愛のご支配が行き渡り、天の御心が地上でも完全に行われる様を、私たちは目の当たりにするでしょう。

しかし、今はまだ「その日」が来ていません。その日を待つ旅を共に続けなければならない。それが、私たちのこの礼拝の群れです。教会の姿です。でも一人ではありません。皆で支え、励まし合いながら、いつまで続くか誰も分からないこの旅に疲れ果てることがないように、眠り込むことがないように、共に主の祈りを唱え続けるのです。そして最後のところで、さらに心を合わせ、天に向かってこの言葉を届けるのです。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり!」。


このようにして主の祈りを祈る時に、私たちは、国と力と栄光の本当の所有者が神であることを、何度も確かめます。しかし同時に、この約束を繰り返し確かなものとしながら、私たちには、実は今も目を覚まして闘うべき相手がいることにも気づかされてゆきます。主の祈りの最後の言葉の直前に、私たちは、このように祈ります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」。

私たちにとって、試みとは何でしょうか。悪とは何でしょうか。そしてこられのものから解き放たれたいと願って、この祈りを祈る時、いったい私たちはそこで何に捕われ、支配され、恐れているのでしょうか。それはこのように問い直すこともできます。私たちを神以外の「支配」で縛り、神以外の「力」で恐れさせ、そしてまた神以外の「栄光」によって魅せつけているものは何か。そのように、いつの間にか私たちを虜にしている魔物は何であろうか。

そう問われる時、実は私たちのこの時代にも、あたかも自分こそが神の子であるように振舞う、第二、第三の「ローマ皇帝」たちがいます。しかも、彼らは自らの姿を隠しながら忍び寄ってくるために、私たちは危うくその正体を見間違いそうになるかもしれません。

この現代の「ローマ皇帝」たちは、様々な魅力的な名前や、キャッチフレーズの陰に隠れています。経済的に安定した生活、人からの良い評判、健康な体と心、幸せな家庭…。そうした誰もが望むような合言葉や価値観をちらつかせながら、しかしそれらにひれ伏しておかないと自分の人生に取り返しのつかない傷や劣等感が纏わりつくかのように思い込ませるのです。もちろん、これらを望むこと自体が悪なのではありませんし、そのために努力すること、またその結果としての実りがいけないものだ、ということでもありません。

問題は、それらの幸せを、自分の手の中に収めようとするあまり、疲弊しきった自分がそこにいること。またその自分が、自分でも止められるなくなる程なお暴走して、周りとの関係がぎくしゃくしてしまう現実。あるいは望んでいた幸せが破れ、失われてしまった時、それに絶望して自暴自棄になってしまうような現実。否、実はそこで本当に問題となるのは、何よりも、そんな自分の一部始終の姿を神がずっと見ておられ、破れてしまったこの私の存在をまるごと、その御手の中で握りしめていてくださる幸いを、見失ったままでいることなのです。


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これは、まさに神讃美の心が失われてしまった姿に他なりません。起きている全てを、「その終わりから見る」ことができない姿です。そしてそれが、どんなに悲惨な現実をさらに造り出すのかについて、主イエスははっきりと教えられました。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる」(ルカ12:45~47)。

とても厳しいお言葉です。けれども主の本当のお心は、私たちを鞭打って滅ぼされることではありません。滅んでよい命など一つもないはずです。誰一人として、そのような者がいないことを願っておられる。真の王であられる主イエス・キリストの国と、力と、栄光こそが、これを約束するのです。

それだけではありません。この説教の後、私たちは聖餐の恵みに与ります。命の糧を頂きます。主イエスが、まさに私たちのために給仕してくださるのです。約束の到来に先駆けて、ここで振舞ってくださる。そしてこの食卓を囲みながら、ご自分がやがて必ず戻って来る主人であることを、何度も思い起こさせてくださるのです。

この恵みに支えられながら、今日も私たちは主の祈りを祈ります。祈りながら、讃美の心が新しく造られてゆくのです。神を讃美する喜びの道を、今から歩み出すのです。天からの真のご支配に生きる、この地上の歩みです。「どうか私たちを試みにあわせず、悪から救い出してください。なぜなら、国と力と栄光は、限りなく、今もとこしえに、あなたのものだからです」。



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