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「父母を手放し、愛する」

2023年2月5日 主日礼拝説教(降誕節第7主日)       
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:12
新約聖書 マタイによる福音書10:37~39

                

第一日曜日の礼拝では、十戒の言葉を読み続けています。今日はその第5の戒め、「あなたの父母を敬え」という言葉を、私たちに与えられた神の言葉として、ご一緒に聴いて参りたいと思います。

「父と母を敬いなさい」。どうして神様は、十戒の中にこの言葉をお定めになったのでしょうか。なぜ「父と母」という存在を特別に選んで、これを「敬え」と求めておられるのでしょうか。考えてみますと、人間社会の最小単位は、親子ではなく夫婦です。アダムとエバから人間の歴史は始まっている。ですからここは、「夫や妻よ、互いに愛し合いなさい」という教えが先に来ても良かったかもしれません。しかし十戒にその教えはありません。

確かに誰もが結婚するわけではないでしょう。結婚しない選択も私たちにはできます。けれども、私たちが今この地上で命を頂いて存在する限り、誰かの子どもである、ということだけは誰にも避けることができません。人は、この世で生きることを始めた時から、法的な意味では事情が色々あるにしても、やはり一組の父と母の子として存在し始めます。そのように親子関係とは、人間に選択の余地を与えない人間関係の最たるものです。

「あなたの父母を敬え」。この言葉の前に立つ時、私たちは自分自身が、父と母という存在によって存在しているという事実を突きつけられます。自分は決して一人でこの世に生まれて生きているのではなく、父と母が、この私を存在せしめた最初の具体的な他者であることを認めざるを得ません。しかしこの事実を認めるということが、時に難しい場合があります。痛みや苦しみを伴うことがあるかもしれません。

私は今日の説教準備をしながら、教会の皆さんのお名前とお顔が次々と脳裏に浮かんできました。一人一人を思い浮かべながら、皆さんのこと、皆さんの親たちのことを思いました。そうしながら、もちろん私自身の親のことも、また妻の親のことも、色々と思いを巡らさずにはおられませんでした。そして、いったい今日の御言葉をどう聞いたらよいだろうか。とても祈りなしには読み進めることができません。

私たちが親以外の誰かと出会い、その交わりをより良くしながら共に生きようとする時、もしかしたらそこで、自分の中に、ある耐え難い傷や穴に気づかされることがあります。そして「自分はなぜこんな人間なのか。どうして人づきあいが上手くいかないのか」等と問いながら、実はその原因は、親子関係にあるのかもしれない…という風に、次第に親のことへと思いが及ぶことがあります。

自分の人生で、親との間に築かれてきた感情や距離感が、自分と他者との間の感情や距離感に影響してくることがあります。親の存在感の希薄さが、自分の存在感の希薄さや自己肯定感の持ちにくさと関わってくることもあるかもしれません。しかしまさにそこで、親に対して湧き起こって来る複雑な感情や苦々しい思い、感謝と尊敬だけでは決して言い現わすことのできない心と向き合うことを、今日の第5の戒めは求めてくるのです。


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谷昌恒という教育者が書いた『ひとむれ』という本があります。この本には、「北海道家庭学校の教育」という副題が付いています。北海道家庭学校というのは、昔は教護院と言って、現在は児童自立支援施設と呼ばれますが、いわゆる非行少年や不良少年というレッテルが貼られた、犯罪に手を染めた子どもたちを集めて、矯正し、育て直す施設です。この谷先生が校長をしておられた北海道家庭学校は、キリスト教主義でありまして、毎日礼拝もします。『ひとむれ』という本は、そこで谷先生が語られた言葉を集めたものです。

谷先生が、この学校に送られてくる子どもたちに心を込めて伝え続けたことがあります。その一つは、主イエスが山上の説教で語られた「敵を愛しなさい」という教えでした。この敵とは、この場合、自分の父親、母親を意味します。なぜ自分はこんな施設に放り込まれることになっったのか。それはあの、ろくでなしの父親のせいではなかったか。だらしのない母親のせいではなかったか。

この学校に入れられたのは、もちろん彼らが反社会的な逸脱行為をしてしまったからです。自分がいけないことをしたから、ここにいる。そんなことは彼らも重々分かっています。でも好きでやったわけではない。好きでここにいるわけでもない。自分が今こうなってしまったのは、元を正せば親のせいではないか。北海道家庭学校に来る子どもたちの大半は、そういう親への憎しみを抱えているのだと言います。

けれどもそこで、谷先生は「敵を愛する」ことを教えるのです。妥協はしないのです。言い訳も赦さない。「あなたの父母を敬え」。父母を憎んでばかりいて、それで本当に幸せになれるはずがないではないか。親を呪うということ、それは自分の運命を呪うことだと、はっきり言います。自分の運命、命を呪ってはいけない。そのために必要なことは、自分に命を与えてくれた両親を、もう一度きちんと愛し直すことだ。愛せる自分に、新しくなることだ。

この『ひとむれ』という本は全集で出されていまして、その第六集に、次のような説教が収められています。しばらく引用します。


私は一時帰省をする諸君のことを考えているのです。家に帰ったら、父さんありがとう、母さんありがとう、と言ってほしいのです。

いいお父さんにはありがとうと言う。駄目なお父さんには言わない。そんなことであってはならないと思うのです。

金持のお父さんには感謝する。貧しいお父さんは馬鹿にする。とんでもないことです。おうちの暮しが楽でなかったら、お父さんの仕事がうまくいってなかったら、お金持ちのお父さんの倍も、三倍も、五倍も、苦労をしておられるに違いないのです。そのお父さんの胸の中を、辛さや切なさを分ってあげてほしいのです。お父さん、心配ばかりかけてごめんね、ありがとうと言ってあげてほしいのです。

お父さんと分かれているお母さんがいます。女手だけで子どもを育てることは大変です。子どもたちに十分なことはして上げられないと思うのです。そのことを不満とし、怒ったり、怨んだりしてはなりません。我儘を言って、無理を言って、お母さんを困らせてはいけないと思うのです。

お父さんと別れているお母さんが、大きなお腹をして、いかにも大儀そうだった。それを怒った人がいました。(つまり離婚したはずなのに、もう別の男との子どもを宿している)母さんを激しく罵った人がいました。諸君は十四、五才、許せないのは当然です。許せないのが本当かも知れません。まるで不潔なものを見るように、お母さんを見た。その目の冷たい光、私はお母さんの辛さを思っていました。

頼りない、寂しいお母さんの立場を考えてあげられる人になってほしいと思うのです。母さん、身体だけは大事にしな、そっと、そう言って上げられる人になってほしいと思うのです。子に責められることほど、親にとって辛いことはないのです。子が黙っていても、鋭く責められているのです。それ以上に、責めることはしないで下さい(「愛のゆえに願う」)。


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心が洗われるような思いがいたします。赦せない親を受け入れ、和解できたらどんなに心が楽だろうか。幸せに生きられるだろうか。でもどうしたら、そんな自分になれるだろうか。親を赦せる自分。敬う自分。愛せる自分。現実は決してそんなに易しくありません。凝り固まった自分というものはなかなか解けない。若い頃ならまだしも、もういい歳した大人になった今では、どうしようもない。

しかし聖書をよく読みますと、最初に十戒の教えをモーセから聞いたのは、イスラエルの民の大人たちが中心でした。今日の第5の戒めは、幼い子どもたちに向かって「親を大切にしなさい」というような親孝行を勧めているのではありません。むしろ大人たちに、この教えが語られているのです。それはおそらく、親を敬いながら生きることが難しくなるのは、自分が歳を重ね、親が年老いて来るような時に顕著に現れるからではないでしょうか。

実際、同じ出エジプト記の第21章15節と17節に、次のような言葉が大胆に記されています。「自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる」。「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」。「父あるいは母を呪う」というのは、要するに、親などいなくなればいいのにと恨みを募らせることです。イスラエルの民たちの中で、そういう現実が実際にあったのでしょう。そして神は、そういう私たち人間の深い闇を知っておられるのです。

似たような言葉は、箴言の第19章26節にもあります。「父に暴力を振るい、母を追い出す者は辱めと嘲りをもたらす子」。これは、実際に親に暴力をふるい、親を家から追い出す者がいたということでしょう。仮の話ではない。そしてそこには、暴力を受けても抵抗できない親の姿、あるいは、追い出されても反発できないほど無力になっている親の姿も、背後に透けて見えてきます。


自分が親と同じ大人となり、さらにその親が老いて弱ってゆく時、今日の第5の戒めが照らし出す人間の闇の深さは増してゆきます。現代の私たちの社会においても、親の介護が必要となり、例えば親が認知症をはじめとする様々な病にかかってしまう時、それまで尊敬していた親が衰弱する姿を受けとめることが、子どもにとって難しくなることがあります。

いったい誰が親の面倒を見るのか。その責任は、子どもたちには一大事です。もめごとに発展することもあるでしょう。あるいは、その責任の大半を施設に託す場合もあるでしょう。しかし中には、後のことは施設に任せっきりで、臨終の時にも姿を現わさない家族がいる。葬儀になって初めて家族が現われるけれども、終わると財産は持って帰る。あるいはさらに、もし自分が幼い時に親から酷い扱いを受けていた場合、その記憶がよみがえって、老いた親に復讐心で虐待を繰り返すこともある。そういう事例やニュースは、残念ながらいくらでも身近にあるのです。

私たちは、もちろんここまで露骨に酷いことは慎むにしても、しかし他方で、決してこれらを他人事として聞き流すことはできない思いもするのです。そうした薄情な心が自分の中にも芽生えている。渦巻いている。父母が、もう自分たちにとって重荷だとしか思えず、自分たちの生活から追い出したくなる。そういう誘惑があるということを、また、そう思う人につい共感してしまう心が自分にもあるということを、認めざるを得ないのです。


こうしてみると、親子関係ほど自分の感情に誤魔化しのきかない関係はないのではないでしょうか。かつて宗教改革者のM.ルターは、こう言いました。「(「父母を敬え」という)この御言葉に従って生活する人々は当然、聖人(聖なる人)になる」(『大教理問答』)。それくらい、この第5の戒めは、途方もなく難しいことととして私たちに迫って来るのです。

しかし、ここにおいて明らかになるのは、まさに私たちの罪です。愛せない心。赦せない心。敬えない心。憎んだり呪ったりする心。この深い闇と闘うことを、第5の戒めは私たちに求めている。できるだろうか。けれども、私たちを本当に苦しめているのはいったい何でしょうか。親でしょうか。しかしそれは真の敵ではありません。私たちをここまで苦しめているのは、罪の力に外ならないからです。良からぬ思いに誘い、支配し続ける悪の力に、私たちは雁字搦めになっている。そのようにして、私たちはいつでも罪の虜、罪の奴隷となってしまっている。だから苦しいのです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:2)。思い返すと、十戒は、神のこの言葉と共に始まったものでした。十戒の言葉は、私たちの傷口にただ塩を塗りつけるような戒めではないのです。出来もしない教えを押しつけ、もっと惨めな思いにさせることが神の御心なのではありません。イスラエルの民を奴隷の家から救い出した神が、なお祝福をもって彼らを導き、生かすための言葉に外なりませんでした。

そうであればこそ、今を生きる私たちが、この言葉を祝福の言葉として聴いてゆく根拠はどこにあるのでしょうか。私たちがこの言葉と共に生きるために、神がしてくださったことは何でしょうか。もちろん、身分としての奴隷には今や生きていない私たち。しかし依然として、見えない罪の奴隷となって生きている私たちの現実があります。そこからの解放なしに、今日の「あなたの父と母を敬え」という言葉を喜んで聴くことなど、できないのではないでしょうか。


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そこに今日、主イエスの言葉が重ねて与えられました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)。

お聞きになって、主イエスはどうしてこんな厳しいことを仰るのだろうかとお思いになるでしょう。まるで、自分の親や家族を愛することがいけないかのようにも聞こえます。実際、これとよく似た言葉が記された他の福音書では、主イエスが、父母を「捨てなさい」とか「憎みなさい」とまで仰る箇所があります。今日の十戒の教えとはまるで正反対です。

しかしこの言葉の真意は、主イエスに従うとはどういうことか、という真実の中で初めて理解されるものです。要するに、どんなに大切な家族であっても、それはどこまでも、この世の事柄なのです。それを手に掴んだまま天にはいけないのです。にもかかわらず、世の事柄ばかりに執着して、それを手放さない限り、それは私の後について従うことにはならないということが言われるのです。

その意味で申せば、実は今日これまで述べてきた、自分の親を大切にできないという反対の心もまた、この世の思いでありましょう。悪しき力に捕われた思いです。だからそれに捕われて束縛される限り、主イエスに従うことはできないのです。主イエス以外の何かに執着しているものを手放すことなしに、そしてまた、主イエス以外の何かに束縛される処から解き放たれることなしに、私たちは本当の意味で主イエスに従うことはできないのです。

これはとても辛いことです。苦しく、また痛みを伴うものです。十字架という重荷を背負うような歩みです。だから主は仰いました。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)。逆に言えば、ふさわしい者になるには、己の十字架を背負いなさいということです。それは結局、「自分自身を捨てる」ということに行き着きます。自分を捨てることなしに、主イエスと共に歩むことはできないのです。

どこまでも自分自身に軸を置いたまま、自分の力で幸せになろうとする。あるいは、どこまでも自分の判断で諦めて、自らの人生を造り上げようとする。これらの者は、かえって自分の命を失うのだと主は仰います。けれどもまさにその自分を捨てて、手放して、主に全てを委ねる者は「かえってそれを得る」(39節)と約束してくださいます。


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私たちが従うべき主イエス・キリスト。それは私たちが負うべき自らの十字架とは比べ物にならない程の重たい十字架を背負って、先を歩まれた方です。そしてご自分が背負われた十字架に、自らの命を献げ尽くすことによって私たちの罪を打ち砕き、罪の虜から解き放ってくださいました。私たちが罪人のままであったその時から、私たちが悔い改めるどころか一層自分の父母を呪い、自分の命をも呪うような歩みを繰り返してばかりいたその時から、既にキリストは私たちの罪を担って、十字架にかかってくださいました。

ただただ、私たちを愛してくださったからです。そして私たちも、もう一度互いに愛し合う道を歩めるようにしてくださるためです。どうかこのお方の姿を見失わないように歩んで参りましょう。自分を捨てて、主に従う。否、「私に従いなさい」と仰る主の御声に従う歩みの中でこそ、私たちは真に自分を捨てることができるのです。この世のあらゆる束縛と執着から解き放たれ、主が開いてくださる命の道を、私たちは今日、ここから歩み出すのです。


<祈り>

天の父よ。御子イエス・キリストが、全てを注いで私たちに語りかけてくださる言葉を、どうか聞き損なうことがないようにしてください。私たちの罪深い闇を打ち砕く、主の命の光の中で、今日の「あなたの父母を敬え」との教えを聴き続けることができますように。先立つ主イエスが私たちの前を歩まれます。このお方に従う真実の中で、全てを手放し、全てから解き放たれることができますように。そして、あなたが与えてくださる限りない恵みを一つ一つ数え上げる喜びに、私たちを生かしてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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