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「礼拝するその心一つをもって」

2023年12月31日 いっしょ礼拝説教(降誕節第1主日)     
牧師 朴大信
新約聖書 マタイによる福音書2:1~12

                 

先週はクリスマスの祝いを共にいたしました。今日はもう大晦日。そして明日はとうとうお正月を迎えます。クリスマスが終わると、世間は一気に年末年始のムードに向かう中、しかし教会では今日もアドベントクランツのろうそくに光が灯されています。クリスマスの恵みは終わらないからです。否、むしろ世界にとって本当に必要な光は、このクリスマスから始まり、続いてゆくからです。

けれども今日、注目したいのは、この光だけでなく、光に伴う「影」です。光が降り注ぐ時、そこに物があると、あるいは人が存在すると、必ずそこに影ができます。そして光が強いほど、その影も濃くなります。


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今日与えられましたマタイによる福音書の箇所は、クリスマスのお話です。イエスさまが誕生された時、東方の博士たちが、黄金・乳香・没薬の贈り物をもってそのお祝いに駆けつける場面です。これを光の出来事とすると、その影にあたる部分とは何でしょうか。あるいは、そこに影を作り出している人物とは誰でしょうか。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(2:1)。この一文は、既に耳にお馴染みかもしれませんが、マタイはここに大切な思いを込めていたと思います。主イエスは「ヘロデ王の時代」にお生まれになった。しかしこの何気ない歴史的事実の中にこそ、暗い影が色濃く潜んでいるのです。ヘロデ王の罪が、否、私たち人類全体の罪が、闇のような影を作り出しているのです。

ヘロデ王と言えば、松本東教会の生誕劇にも必ず登場します。「わーたーしーが王様だ~~キリストなんか許せない!」。なぜ許せないのでしょうか。実はヘロデという人は、ユダヤの王様でありながら、純粋なユダヤ人ではありませんでした。ユダヤ人の血も流れていますが、他の民族の血も混じった、いわゆる混血(ハーフ)だったのです。そのヘロデがユダヤの王となっていたのは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の後ろ立てがあったからです。皇帝アウグストゥスにうまいこと取り入る形で、ヘロデはユダヤの王としての地位を維持していた。そういう事情から、実は彼の地位というのは、とても危ういものでした。いつひっくり返されるか分からない。

そこに、東方の国の博士たちがやって来たのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。博士たちからしてみれば、ユダヤ人の王は当然、王の都であるエルサレムにおられると思ってここにやって来た。しかしヘロデ王にとっては、とんでもない話を耳にすることになりました。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」(2:3)。ユダヤの王はこの俺様だ。その自分に代わって、新しい王が誕生したとは何事だ!

こうして、不安と怒りを募らせたヘロデは、ある策略を立てます。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」(2:4)…「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(2:8)。

この最後の「拝もう」は、明らかにインチキな言葉です。拝みに行くつもりなど毛頭なかったでしょう。逆に博士たちを利用してキリスト誕生の場所を突き止め、この幼な子を拝むどころか、息の根を止めて殺そうとしたのです。邪魔だからです。自分の王座が奪われることが許せなかったからです。


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こうして、イエスさまがお生まれになった時、「ヘロデ王の時代」には深い影が潜んでいました。ヘロデの悪だくみ、罪が根を下ろしていたからです。けれども、この「影」はヘロデだけのものだったでしょうか。

ヘロデ王の時代。それは私たちが生きている今この時代のことでもないでしょうか。昔のある特別な時代だけのことではないのです。今のこの世界も、ヘロデ王の時代が続いている。だからクリスマスの光も続いているのです。否、クリスマスの光こそ、この世界の影を、そして私たちの罪の闇を、明らかにし続けています。では現在のヘロデ王とは誰のことでしょうか。ある国の大統領や総理大臣でしょうか。

そういうことではありません。現在のヘロデ王とは、実は私たちのことです。私たち一人ひとりが、小さなヘロデとして、自分の人生という王国の王であろうとしている。自分のこの命の主人であり続けようとしている。そしてその王座を、誰にも明け渡そうとせず、それを脅かそうとする者を消し去ろうとするのです。真の王を迎え入れることのできない、私たち自身の現実ではないでしょうか。

今日のクリスマス物語の中で、ヘロデ王以外にも気になる人たちがいます。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(2:3)。イエスさまの誕生に不安を抱いたのはヘロデ王だけではなく、エルサレムの人々も同じだったと言います。自分たちと同じユダヤ人の本当の王様がお生まれになったというのに、喜ぶどころか、不安を募らせている。自分たちの今の生活、これからの人生、守りたい領域が、脅かされると感じたからでしょうか。

もう一つ。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて」(2:4)。祭司長や律法学者たちもまた、イエスさまと同じユダヤ人でした。それどころか、ユダヤ人のリーダーとして人々に神さまの教えを説き、御心に沿って生きることをこよなく大切にする人たちでした。でも彼らがしたのは、ヘロデ王にメシアが誕生する場所を教えた、ということだけでした。聖書の正しい知識を持っている彼らこそ、神さまの預言がついに実現したその時、本来なら真っ先にユダヤの本当の王さまを拝みに行き、民たちと共にその誕生を喜ぶべきではなかったでしょうか。知識はあるのに、拝みはしない。

このように神の民であるはずのユダヤ人たちも、その先頭に立つはずの祭司長や律法学者たちも、要するに、神がお遣わしになった真の王を喜び迎えようとせず、自分の王座に安住し続けている姿というものがここに透けて見えて来ます。


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これに対して、イエスさまを真の王として拝んだ人たちこそ、ユダヤ人でも何でもない異邦の、東方の博士たちでした。彼らは星に導かれながら、はるばる旅をして来ました。自分たちの力を超えた、天から差し込む光に従ってであります。彼らはまた、危うくヘロデ王の策略に取り込まれるところでした。しかし彼らはヘロデの言葉ではなく、夢で示された神の言葉に従って、別の道を通って帰って行きました。

いったい、王を拝むとはどういうことでしょうか。真の神を礼拝するとはどういうことでしょうか。それは人の言葉ではなく、どこまでも神の言葉に聞き従うことにほかなりません。そこでこそ、博士たちがそうであったように、私たちも真の神に出会うことができます。そして博士たちからもう一つ学ぶ、礼拝の姿勢があります。彼らは三つの贈り物を献げました。彼らが最も大切にしていた高価なものであったでしょう。それを手放すことができたのは、自分自身をまるごと神に献げたということではないでしょうか。そして自分が自分の王座に居座るのではなく、そこに真の神をお迎えしたのです。

私たちは今日、この一年の最後の礼拝をお献げしています。しかし来週もまた礼拝を守り、新しい一年を始めます。そのようにして、往く年来る年、礼拝生活と共にこの歩みを続け、希望を新たにしたいと願います。その願いは、神との生きた交わりである礼拝によってこそ絶えず確かにされます。自分が安住している場所から召し出され、神の言葉に聞き従うところでこそ、私たちは自分が王であることを手放して、命の救い主を喜んでお迎えすることができます。主の年2024年が、そのように喜びに溢れる希望の年となりますようお祈りいたします。


<祈り>

天の父なる神さま。今年最後の礼拝を感謝します。共に献げるこの礼拝がいつも真実な喜びに溢れるよう、あなたの確かな御声を聴かせてください。自分の王座を譲ることができない頑なな私たちのために、命まで捨ててくださったキリストの愛に支えられて、私たちもあなたを愛し、隣り人を愛してゆける新たな一年を踏み出させてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。


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