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「礼拝する姿」

2023年1月15日 主日礼拝説教(降誕節第4主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記2:18~25
新約聖書 コリントの信徒への手紙一11:2~16 

            

もう20年以上前のことになりますけれども、かつて学生時代、私はバングラデシュという国を旅したことがあります。インドと東南アジアの半島のちょうど間に挟まれた所に位置する、イスラム圏の国です。その旅で実際に目にしたある一つの光景が、今でも忘れられません。

それは日曜日の礼拝のために訪れたある教会でのことです。礼拝堂に入りますと、それまで見たことのない光景が広がっていました。中央の列を挟んで右側と左側の席に、男性と女性が見事にきれいに分かれて座っていたのです。そしてそれがその教会にとっての自然な風習だと伺いました。そこで私もこれに倣って、男性陣が固まって座っている右側の座席に着きました。

座って礼拝を守りながら、私は最初、少し慣れない違和感を覚えました。どこでも自由に座れる日本での礼拝生活とは違って、どこか不自由さや不自然さを感じました。公衆トイレではあるまいし、礼拝をするのに男も女もあるものかという気もしました。

けれども、言葉も全く分からないその礼拝に参加する中で、私は不思議にも、その光景にある美しさを感じ始めました。文化や風土も、歴史も全く異なるその教会が、それまで独自に積み上げてきたある種の秩序というものが映し出す美しさだったのかもしれません。あるいは、実はバングラデシュは世界で最も人口密度の高い国としても知られていますが、特に首都ダッカで目にした道路事情の混乱(混沌)ぶりは、今でもこの旅の第二の思い出として鮮明に焼き付いています。ですから、方や外では、そのように賑やかで騒がしい日常が繰り広げられ、しかしまた教会の中では、それとは全く正反対に厳粛な礼拝が行われている。そのあまりに大きな落差故に、より際立って感じられる美徳の感覚だったのかもしれません。

いずれにしましても、あの時に目にした光景や、肌で感じた崇高な感覚は、今日の説教題にも掲げました、私たちの「礼拝する姿」というものを見つめる上で、何か大切なヒントになるのではないか。そんな思いを私は抱かずにはおられないのです。


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さて、本日は久々にコリントの信徒の手紙一に戻って参りまして、ご一緒に使徒パウロの言葉をお読みしました。一読して、ここに展開されている事柄について、おそらく多くの方が戸惑われたかもしれません。実際、ここは聖書の中でも最も理解に苦しむ、あるいは理解が分かれると言われる箇所の一つに数えられています。

現代に生きる私たちにとっては、驚くほど古代的に思える風習が記されており、また、それを支持していると思えるパウロの考え方も極めて保守的で、規律にうるさい律法主義的な臭いさえ感じます。したがって、できればこの箇所は見て見ぬふりをして、素通りしてしまいたい気持ちにも駆られます。けれども、これも紛れもなく聖書に書かれている言葉であります。だとすれば、私たちはいったいどのようにして、ここから神の言葉を受け取ることができるのでしょうか。

ここで問題となっている事柄自体は、難しいものではありません。新共同訳聖書には、「礼拝でのかぶり物」という小見出しが付けられていますように、文字通り、礼拝をしている時に、特に女性がかぶり物をするべきかどうかを巡る問題であります。かぶり物。つまり顔を覆い隠すためのかぶり物のことです。私がバングラデシュに参りました時には、イスラム圏でありますから、女性たちの頭が黒いスカーフで覆われている姿をよく見かけました。カトリック教会でも、今はだいぶ見られなくなってきているようですが、ミサに出る女性たちが頭にレースをかけている姿を、皆さんも見たり聞いたりして想像できるのではないかと思います。

パウロは5節でこう言いました。「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」。「祈ったり、預言したり」というのは、礼拝をしている時の姿のことです。つまりコリントの教会においては、当時既に、女性たちが礼拝で堂々と祈ったり、神の御言葉を宣べ伝えたりすることができるようになっていたことが分かります。

これは、当時の時代や社会状況を踏まえますと、やはり画期的なことだったと言ってよいと思います。教会において女性の存在や地位が認められ、礼拝での活躍の場があったということでもあります。そしてこのことは、当のコリント教会の女性信徒たちにとっては誇らしいことで、当時の古いしきたりや束縛からいち早く解き放たれた自由の喜びを、きっと味わってもいたことでしょう。

けれども、こういう状況に対してパウロがブレーキをかけている。「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」。女性が礼拝中、頭に物までかぶらなくなっているのは、自由の度を行き過ぎているのではないか。それは自分で自分の頭を侮辱するようなものだ。そう釘を刺すのです。実はここは、パウロが一方的に問題視しているというより、既にコリントの教会の中から、これを問題視する声が上がり始めていた。「パウロ先生、私たちの教会には今、こんな問題があるのです」というような訴えが寄せられていたのでありましょう。そうした教会の戸惑いや混乱に対してパウロが応答してゆく。それが今日の手紙の内容であります。


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少し戻りまして、パウロが3節で、「ここであなたがたに知っておいてほしいのは」とまず最初に訴えていたのは、次のことです。「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」。

すぐにお分かりのように、ここには明確な秩序と申しますか、もっとはっきり言ってしまえば、序列があります。その意味であえて上から順に言いますと、まず天の父なる神が一番上におられて、その許にキリストがおられる。そしてキリストが神に従うのと同じように、そのキリストの下には、キリストに従って生きる男が続く。そしてさらに、その男に連なる者として女がいる。そういう順序です。女の頭は男。男の頭はキリスト。キリストの頭は神。

しかしここで、一つのことを思います。パウロはなぜ「キリストの頭は神である」という最後の言葉を、最初に持って来なかったのだろうか。もし順序を整えようとするなら、今申したように、神―キリスト―男―女となるはずですから、3節の書き方は、論理的な整合性を重んじるはずのパウロからすると、少々いびつな書き方になっているようにも思えます。

しかしだからこそ、逆にパウロのここでの意図が何であるかが、浮かび上がって来るようにも見えてきます。つまり、「神―キリスト」の関係がここで一歩後退しているのは、それだけ、「男―女」という関係や秩序のあり方の方が、何にも先んじてパウロには喫緊の課題であったということではないでしょうか。それ程の事情がコリントの教会にはあった。そして彼の問題意識の中心には、どうも「女の頭は男である」というテーマが据えられていた。そしてまさにこれを保証するために、「キリストの頭は神」という秩序が裏付けされる。そう思えてならないのです。


だとすれば、パウロがこの後、筆を走らせるようにして書いた具体的な言葉の数々も、何を言おうとしているのかが明らかになってきます。それは既に5節で見ましたように、女性は頭に覆いを被らなければならないということです。そして6節でさらに続けます。「女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです」。

女性が礼拝の場で自由に話すのは良い。けれども、頭のかぶり物はするべきだ。もししないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女性にとって恥ずかしい、誠に不自然で無様な格好になるに違いない。それが嫌なら被りなさい。それ程に、かぶり物は大切だということだ。そこまでパウロは言うのです。そしてなぜかぶり物が大切なのか。その理由も7節で述べます。「女は男の栄光を映す」存在なのだからと。つまり女性が頭に覆いを被るのは、女性にとって輝かしい権威ある存在である男性を、自分よりも上に頂いている事を映し出すためなのだと。そして反対に、男性が頭に覆いを被らないのは、「男は神の姿と栄光を映す者」だからだと言うのです。

こうして、女性に対する男性の優位性は、疑うべきもないように説かれ続けてゆくのです。極めつけは、8節と9節の言葉でしょう。「というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」。

男女平等の思想や社会制度が当たり前に浸透している現代の私たちからすれば、どうにも耐え難い言葉に聞こえてしまいます。女性の立場にもなってみれば、これほど許し難い言葉はないかもしれません。男だけが神の似姿として造られ、神の栄光を映し出す者だと言われる。女は男(のあばら骨)から造られ、しかもその男のために造られたのだと言われる。男にとってはキリストだけが権威として上に立つが、女にとっては男こそが権威として上に立つ。


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ここまでくると、これほど露骨な男女不平等論も珍しく、かえって新鮮な驚きさえ抱かせるかもしれません。そして、いくら聖書の言葉だからといってもやはり聞くに堪えない所がある。だから括弧に括って読み流す程度で済ませようという思いが燻ります。このような窮地から、私たちを救い出す道はないのでしょうか。

その鍵は11節にあると私は信じます。「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」。一見すると、それまでのパウロの主張とは矛盾しているように聞こえます。突然掌を返したように男女平等論を説き始めたのでしょうか。もちろんそうではありません。鍵と申したのは、「主において」という言葉です。つまり主イエス・キリストにおいて。あるいは、主イエスというお方の中で。そしてそのお方の恵みの中に留まって。ある牧師はさらにここを、「主の救いにおいては」と言い換えました。つまり主に救われた者として、自らの姿を見つめ返すならば…その時初めて、「男なしには女はなく、女なしに男はない」のです。

確かに創造の秩序においては、神は先に男を造り、次に女を造られた。しかしその後の人間の歴史を見れば明らかなように、男性も女性から生まれることは言うまでもありません。「女が男から出たように、男も女から生まれ」(12節)るのです。そのように実際は、男も女に依存しなければそもそも命は得られず、生きてもゆかれない。そのようにしてさらにその命の源を辿り直せば、結局みんな神に行き着くことになる。「すべてのものが神から出ているからです」(12節)。神から始まり、神によって造られた者として男があり、女がある。そしてまた、女がいて、男がいる。「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」。


問題は、そのように男として、また女として自らの命を生きる時、その違いを絶対的なものとして決めつけ、そこに優劣や強弱の序列を人間自身が作ってしまうことです。私たちは、神に造られた者として生きている存在にすぎないにもかかわらず、その自分の命や、相手との違いをつい絶対視してしまう愚かさに陥るのです。その時、そこに争いが生じることは言うまでもありません。

けれども、そうした愚かな現実の中にキリストは生まれてくださいました。愚かな現実を生きる私たちの苦しさや悲しみを知ってくださるお方として、この地上にやって来てくださいました。そして恵みのご支配をもって敵意の壁を打ち砕き、あの十字架上の贖いの死をもって、私たちを罪から救い出してくださいました。私たちを神の祝福の中へと連れ戻すためです。私たちが神に造られた者として生き直すためです。そしてまた、神に造られた者同士が、互いに助け合い、愛し合い、仕え合って生きてゆけるようになるためです。

こうして、男として、また女として、それぞれが相手と区別されて歩みながら、しかしまさに「主において」、「二人は一体となる」(創世記2:24)のです。主の救いにおいて、互いに一つとされるのです。そしてここに、礼拝する私たちの姿が造り上げられます。礼拝する群れとしての教会が生み出されます。そしてその最も中心であるキリストの生ける体としての教会が、この地に立つのです。


以前、私たちの教会を牧会してくださったO.S牧師のことが、思い起こされます。O先生は松本東教会からN教会に赴かれました。ところが、それから十数年経ったある時に、脳梗塞で突然倒れられました。幸い一命は取り留めたものの、後遺症を患って、車椅子生活を余儀なくされました。残念ながらN教会での責任を果たすことが困難となったため、その後間もなくお辞めになって、数年前より、私たちと同じ教区にありますY教会の主任牧師として、現在もお元気に伝道牧会に励んでおられます。

教区の行事で、私は年に数回、先生とお会いする機会があります。しかし先生お一人ではありません。傍にはいつも、お連れ合いのMさんが付き添っておられます。車椅子を押したり引いたりしながら、O先生の足となり、手となっておられるのです。何度かそうしたお姿を拝見しながら、私はここにも、言いようもない美しさを感じるようになりました。

なぜだろうか。その献身的な姿故だろうか。妻として夫を支える。これはある意味で、当然なのかもしれません。そうせざるを得なくなったという風にも言えるでしょう。しかし大切なのは、助ける―助けられるという関係にあるお二人の眼差しが、どこを向いているか、であることに気づきました。Mさんは、単なるヘルバーとしての務めを果たしておられるのではない。その務めを果たしながら、しかし同じ神様を見つめて、O牧師と一緒に出掛けて行って、伝道をされている。礼拝において神を讃える、まさにその心で、神様の素晴らしさを証ししておられる。

その時、お二人がまさに「主において」互いに支え合っている姿に見えてなりませんでした。Mさんなしには、O先生の伝道の働きは成り立たない。しかしまたO先生なしには、Mさんのより生き生きした伝道の使命や喜びも起こされなかったのではないだろうか。もちろん、そこには綺麗事だけでは済まない現実があったに違いありません。大変な生活に転じてしまったことへの苦しみや嘆き、怒りや悔しさ、また夫婦間の誤解などもあったでしょう。しかし造られた者として、神を真の神として礼拝する方向に変えられ続ける所でこそ、人はどんな境遇にあっても、美しくされるのだということを教えられます。


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最後に、パウロは13節でこう言いました。「自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか」。女性はかぶり物をするべきだと、あれだけ力説していたパウロが、しかし最後には、自分で判断しなさいと相手に委ねているのです。少し拍子抜けしてしまうかもしれません。しかしここには深い意味があります。

自分で判断しなさい。それは単に、自分の頭でよく考えて答えを出しなさいという意味ではありません。ここは本来「自分の中で判断しなさい」と訳せる所です。あなた自身の中で。その存在の深みにおいて。否、もっと言うなら、あなたの存在の深みにまで入って来られる主イエスとの対話の中で、主が示される方向に向かって応答しなさい。歩み出してご覧なさい。そう働きかけるのです。

私たちは、他者から押しつけられて自分らしい姿を造り上げるのではありません。しかしまた、自分の思いだけで本当の自分を造り出すことにも限界があります。どこまでも、神に造られた者として生きる。そして、他でもない主イエスご自身が招いてくださる方向に踏み出すことによって、この私が私らしくなってゆく。今どんな姿や状況にあっても、たとえ望み通りの道を歩んでいないとしても、その置かれた場所から、神の栄光を映し出す器として歩ませて頂く時、私たちは美しくされるのです。

バングラデシュで見たあの光景が、なぜ美しく感じられたのか。私は20数年来抱えて続けてきた一つの問いに、ようやく一筋の光を見る思いです。男女が左右に分かれて礼拝するスタイル自体が美しいのではありません。ましてや、それこそが礼拝のあるべき姿だ等と押しつけられたら、やはり拒絶するでしょう。決して絶対的なものではないのです。

そういう意味では、今日のかぶり物もそうです。真実なる絶対者を前にして、この世のあらゆるものは相対化されます。決して揺らぐことのない主の恵みにあって、一つのことを絶対化することはできないのです。しかしそれはどうでもよくなることではありません。むしろ絶対者なる神と出会うことによって、その神に示される自分の姿がある。「主にあって」、「自分で判断」してゆく中で、神の栄光を映し出し、礼拝するする姿が造られてゆく。私たちはその自分を、尊く生きてゆくのです。


<祈り>

天の父よ。私たちはあなたに造られ、性別を与えられ、そして様々な賜物を頂きました。このどれ一つをとっても、決して自分のものではありません、また、これを絶対的なものとすることも、あるいは蔑むこともしてはなりません。自分が自分らしく尊く生きることができるように、そしてそのことがあなたの栄光を現わし、礼拝する姿と結びつくように、どうか御恵みの中に生かし続けてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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