top of page

「神の被造物として豊かに生きる」

2022年7月10日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第6日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書43:1~4
新約聖書 コリントの信徒への手紙一7:1~7

            

先ほどお読みしましたコリントの信徒への手紙一の最後の7節で、パウロはこのように言いました。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」。

独りでいてほしい。これは、言ってしまえば、独身の勧めです。パウロは生涯、独身だったと言われます。その自分と同じように、皆も独り身であって欲しい。そして最初の1節の所でも、「男は女に触れない方がよい」と記されていました。これも意味合いとしては、男は女と結婚しない方がよい。否、もっと踏み込んで言えば、男女の肉体的な関係も持たない方がよい。そう言われるのです。

ところで、この教えが直接影響しているかどうかは分かりませんけれど、歴史上の有名な思想家や哲学者、また神学者たちの中には、神に仕えるにはやはり独身の方が良いと考える人たちがいました。せっかく婚約していた素晴らしい相手との話を断ち切ってしまった、という例が幾つもあります。あるいはカトリック教会のように、制度として、聖職者は独身のままであることが求められる、そんな現実もあります。

けれども、今日の箇所をよく注意して読めば分かりますように、パウロは決して、独身を絶対的な教えにはしていません。すぐ後にこう重ねるからです。2節「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」。また、7節の後半ではこう結びました。「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。


**

一方では、独身が勧められる。結婚も、できればしない方が良いと言われる。しかし他方では、結婚は容認されてもいる。いったい、どちらなのか。しかもパウロは、ここで結婚というものを認める時、実は容認どころか、命令さえしているのは少々不思議と申しますか、極端にも映ります。男に対して、また女に対しても、めいめい自分の伴侶を「持ちなさい」とまで言っているのです。

ただし、そのことを述べる2節には、一つの条件が付けられていました。「みだらな行いを避けるために」という条件です。つまり結婚は、できればしない方がよいけれども、しかししないことで、あなたたちが淫らな行ないに走ってしまうくらいなら、それを避けるために、むしろ結婚しなさい。結婚して、その性的な欲望を夫婦の間だけに留めなさい。

このような調子で、今日のパウロは主張しているように聞こえます。そして実際、この箇所は長い間、伝統的にそのような傾きをもって読まれてきたところがあります。しかしこれでは、結婚はただ、人間の欲望のための受け皿に過ぎない、いわば必要悪だということになってしまいます。パウロは、結婚をそのように考えていたのでしょうか。そしてこれが聖書の教える結婚の姿なのだろうか。教会が結婚式を行うのは、本当はしない方が良いことを、止むを得ずしているだけなのでしょうか。

もちろん、そんなはずはありません。他の手紙では、夫と妻との関係や生活について、パウロはきちんと教えています。例えば結婚式でよく読まれることの多いエフェソの信徒への手紙第5章には、夫と妻の関係は、キリストと教会の関係に等しいものだと言って、その尊さが強調されます。これはまさに「結婚讃歌」とでも言ってよい、美しい言葉です。祝福の言葉です。


***

このように考えますと、今日の箇所は、はたして独身の勧めなのか。それとも必要悪としての結婚の奨励なのか。あるいはもっと積極的に、結婚や夫婦関係についての聖なる教えなのか。少し戸惑ってしまいます。この後見てゆきます3~6節には、専ら夫婦関係のことが力説されているようでありますけれども、これを私たちは、どのように聞いてゆけば良いのか。

今日ここには、結婚をした方々だけが集まっているわけではありません。結婚というものを巡って、様々な立場や状況の中を歩んでおられる方々が、主の御前に一つに集められています。そのような私たちが、今日ここから何を聴き取ることができるでしょうか。


そこでもう一度、最初の第1節の言葉を、丁寧に読んでみます。「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」。

この表現から分かりますように、パウロとコリントの教会との間には、この手紙よりも前に、既に幾つかの手紙のやり取りがあったようです。そしてコリントの教会がパウロ宛に書いてよこした手紙の中で、おそらく信仰生活に関する様々な質問が記されていたのでしょう。それらの質問に答える形で、この手紙は記されてゆきます。「~について言えば」という導入の言葉でもって、パウロはこの後、コリント教会からの質問に一つ一つ答えてゆく。

そして言うのです。「男は女に触れない方がよい」。これは一見、パウロの答えとして記された言葉に見えます。しかし実は、これはパウロの言葉ではなく、コリントの人々の言葉のようにも聞こえます。つまり「そちらから書いてよこしたこと」の中身を指す言葉ではないだろうか。そう考えることができます。実際、幾つかの代表的な英語訳聖書は、語順を変えて次のように訳しています。「あなたがたが書いてきた『男は女に触れない方がよい』について言えば」。


どうも、当時のコリント教会には、「男は女に触れない方がよい」というスローガンがあったようです。そしてこの教会の中に、結婚、あるいは男女の性的関係を嫌い、拒む独身主義者のような人たちがいたようなのです。こうした事態を、パウロ先生ならどう思われるか。そんな質問が、既に寄せられていたのでしょう。

けれども、いったいこれのどこが問題だったのでしょうか。今日でも、結婚に対する考えは実に多様であり、そのライフスタイルはまさに千差万別です。各々が尊重されるべきであることは言うまでもありません。実際、パウロは生涯独身を貫きましたし、誰より主イエスご自身が独身であられました。しかしここでの問題は、コリントの人々の極端な信仰がもたらす、歪んだ現実の姿でした。

一つ前の第6章、あるいは第5章で、「みだらな行い」が問題となっていました。実はこれも、極端な信仰の態度がもたらす問題でした。彼らは人間を、肉体と魂とに分けて考えた。そして肉なるものは全て汚らわしいもの、朽ち果てるべきものと考えて、だからその肉から救われるべき魂こそ、最も崇高で価値あるものと信じた。その帰結として、肉体に関することはどうでも良いのだから、淫らな行いも正当化される…そんな口実が立てられていたのです。

しかしこうした極端な信仰的態度は、人の肉欲を好き放題に助長させるだけでなく、実はこれとは明らかに正反対に、過度の禁欲をも生み出していたのです。肉なるものはすべて汚らわしい。だから自分は一切それに関わらない、という態度です。


****

その結果、既に分裂状態にあったコリントの教会は、さらに次のような対立を抱えることになりました。一方には、「自分たちの体が欲することは何でもして良い。何をしても全て許される」と主張するグループがあり、他方には、「自分たちの体は、あらゆる性的接触を避けなければならない」と信じるグループがある。そして後者の立場からは、さらに結婚など無意味だ、肉体に関わる事柄に煩わされたくない、という思いから結婚を拒否する人たちが出てくるようになりました。あるいは、既に結婚した人の中にも、わざわざ離婚して独身になろうとする者、また離婚はしないまでも、夫婦としての肉体関係を拒むようになる者も現れてきたようです。

こうした混乱に直面して、パウロ先生、どうしたらよいでしょうか。やはり「男は女に触れない方がよい」のでしょうか。これが、コリント教会の良識ある人々からの訴えでありました。

ではパウロにとって、この問題はどのように映ったでしょうか。もちろん教会の分裂は、由々しき問題です。けれども今起きている表面的な対立や混乱の根っこには、やはり信仰的な課題、あるいは霊的な課題が絡んでいることを、彼は見抜いていたに違いないと思います。もっと単純に言えば、神の視点が見失われている事態こそ、問題の核心だとパウロは憂いているのです。

神の視点。それは私たち人間が神の被造物であり、どこまでも神のものとして生きる存在である、と見ることです。そういう視点が、しかし見失われてしまっているのです。コリントン教会において、「全てのことは許されている」と言う人々と、「全てはやめなくてはならない」という人々は、一見、正反対に対立しているようで、しかしその根元では共に、神の視点を失っている。自分たち自身を、神に似せて造られた被造物としての姿の外側に、置いているのです。

しかしだからこそ、伝道者パウロは、そして教会は、まさにこのような人間の姿を主題とします。教会の言葉、否、そこで語られる十字架の言葉が目指すものは何でしょうか。それは私たち人間を、神の被造物として、そしてまた買い取られるべき尊い存在として、他ならぬ神ご自身にお返しすることに他なりません。


そうしますと、3~5節でパウロが述べていることの意味も、少しずつ分かって来るでありましょう。3節と4節でこう言われます。「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです」。

夫に対しても、妻に対しても、同じことが言われます。今風に言えば、まさに男女同権です。夫も妻も、どちらが上か下かではない。一方が他方を独占するのでもない。どちらも同じ線上で、対等に向かい合う。言ってみれば、互いに自由な存在です。けれども、その自由を、パウロは、何でも全て自分の意のままにできる権利としての自由ではなく、むしろ相手が、この自分の体を意のままにすらできるように差し出す、そのような自由として求めます。キリスト者の自由です。

それが、3節で「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と教えられていたことの意味です。相手のために自らを差し出すこと。これは決して、義務感や自己犠牲によるものではありません。どこまでも、キリスト者の恵みとして与えられる自由においてなされることです。そこにある心は、お互いの存在を尊ぶということ。

この、自分を差し出すとか、あるいは自分の体を意のままにする権利を相手に持たせる、という姿の中には文字通り、夫婦としての肉体的な結びつきも含まれるでしょう。しかし自分の体を相手のものとして明け渡すということは、肉体だけではなく、精神的にも、深い結びつきをもたらすに違いありません。お互いの存在と存在が、新しい眼差しのもとでそこで出会うことになるからです。お互いの存在が、神の祝福の中で見出され、現れ出てくるからです。そしてそのような神の祝福を浴びて、神の霊を宿した体として互いが生き始める時、パウロが2節で釘を刺していた「みだらな行いを避ける」という課題も、克服されてゆくのです。


しかしパウロは、決して綺麗ごとだけを並べるのではありません。夫婦関係における厳しい現実も十分に知っていた。だからこそ5節で述べるのです。「互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」。

互いに相手を拒んではならない。受け入れ合いなさい。パウロはそう念を押します。けれども、「しばらく別れ、また一緒になる」ということもあってよい。そのようにも教えます。この「しばらく別れ」というのは、別居を指すのか、離婚を意味するのか、肉体関係を絶つことなのか、それとも心理的距離を置くことなのか、色々な意味に解せましょう。けれども、ある必要な期間、お互いがよく話し合って納得するなら、別れてもよいのだ。

けれども、それは「専ら祈りに時を過ごすため」だと言います。祈る。それは神に向かって、心と体を向けることです。その祈りに集中するために、しばらくは自分の夫や妻からも離れて、神にのみ全てを向けて、注ぎ出しなさい。これは逆に言えば、たとえ夫婦であっても、互いの関係よりも神との交わり、神への祈りこそ、大事であることが教えられてもいるのです。

パウロはその祈る姿に、私たち人間の尊厳を見つめていました。なぜなら、私たちが神に似せて造られているのは、その姿・形が神とそっくりだからではなく、私たちは、神がそうであられるように、交わりによって生きる存在だからです。そしてまず、神との交わりの中で真に生きる存在だからに他なりません。私たちは祈りにおいて、この自分が神の御前で何者であるかが示されます。そして祈りにおいて、私たちは自らの体が自分のものではないことも、深く知らされてゆくのです。そしてまたこの祈りにおいて、実は夫婦関係そのものにも、確かな支えが与えられてゆきます。夫婦関係ほど、相手を自分のものとすることがいかに困難で無謀なことであるかを、如実に教えてくれるものはないのかもしれません。


*****

最後に、パウロは7節でこのように結びました。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。

パウロが皆に対して、自分と同じように一人でいて欲しいと言ったのは、独身の絶対化や、結婚の否定によることではありません。ただ彼にとって、独身であることは、最も自由な形で神と共に歩む姿であった。神の栄光を現す生き方であった。そう確信されていることは間違いないでしょう。その神の視点に立つことが大切です。そしてそこから、私たちはパウロの今日の最後の言葉を聞くのです。「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。

「人によって生き方が違います」というところは、直訳すれば、「ある人はこうしており、ある人はこうしている」となります。ある人は結婚しており、ある人は独身で生きている。またある人は、さらに他の選択をして歩んでいる。しかしそれらはどれも、神から賜物を受けて生きている、尊い姿の一つ一つなのです。

そこには喜びもあれば、苦しみもあり、悲しみもある。悔い改めが伴う場合もあるかもしれません。けれども、何が正しい道であるかを自分の尺度で絶対視したり、社会の物差しに自らを当てはめたりするところで思い煩うのではなく、むしろそこから自由にされる恵みを受けて、立ち上がって生きてゆける道がいつでも備えられているのです。それは、主が愛をもって私たちと共に歩んでくださる約束に結ばれた歩みです。神に造られた被造物として、否、さらにはキリストを代価として神に買い取って頂いた、その価高き存在として、私たちが主の御前で真剣に生き始める道なのです。

それぞれに与えられた生き方、その姿、そしてその器に、主の恵みがこれからさらに豊かに注がれて、その輝きを映し出す歩みを、ここから共に始めて参りましょう。

bottom of page