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「羊飼いたちのクリスマス」

 2023年12月24日 クリスマス礼拝説教(アドヴェント第4主日) 
【いっしょ礼拝】
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編117:1~2
新約聖書 ルカによる福音書2:8~20

                  

今年のクリスマスの祝いにさらに喜びを重ね合わせるようにして、ただ今、幼児洗礼式が執り行われました。冬場にしては少々酷だったかもしれませんが、一人の幼な子の頭の上に冷たい水が、しかし、それはどこまでも父・子・聖霊の名による神の祝福のしるしとして、降り注がれました。この出来事をご覧になりながら、多くの皆さんはかつてのご自分の洗礼式のことを懐かしく思い起こしておられたかもしれません。

それぞれに時があり、皆さん一人一人の洗礼には取り換えの利かない、神さまの特別なご計画と恵みが刻み込まれています。ですから、いちいち比較することは決してできないわけですけれども、しかし私は、特にこの幼児洗礼式においていつも思うことがあります。それは今日もまさしくそうでありましたけれども、幼な子はこの特別な儀式に際して眠っている。あるいは大きな口を開けてあくびをする。時には泣くこともあるでしょう。

要するに、自分のしっかりとした意志をもってここに臨んでいるわけではない、ということです。言ってしまえば、今ここで何が起きているのか、肝心の本人が何も分かっていない。すべてお任せ状態。そこで、一方ではこんな疑問や批判も成り立つでしょう。本人が決めたことでも望んだことでもないのに、その意志を無視して、人生でただ一度きりの洗礼を勝手に授けてよいものだろうか、と。

確かにそうかもしれません。しかし本人の意志や決断が一切入り込む余地のない洗礼とは、逆から言えば、そこに神の全面的な恵みだけが一方的な仕方で支配している、ということではないでしょうか。幼児洗礼ほど、洗礼という出来事がいったい何を意味するのかを顕著に表すものはないとさえ言えるでしょう。

洗礼には、確かに本人の意志や決断が必要である。しかし実は、その思いさえも起こしてくださる神の恵みこそが、そこで決定的に大切なのです。したがって私たちは今日、この一人の幼な子の洗礼の出来事を通して、自らの命にも刻印され続けている神の決定的な、全面的な祝福のしるしを共に受けとめ直すことができればどんなに幸いでしょう。


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さて、今日はクリスマスのお祝いをする礼拝です。ここで一つ、皆さんに、あるクリスマスのプレゼントをお見せしたいと思います。これが何だか想像できますか? 箱の中を開けると…こんなものが入っています。そう、シュトーレンです。身の詰まった少し固めのパンケーキですね。ドイツ発祥のものですが、日本でも近年、クリスマスケーキと並んでよく食べられるようになりました。





このシュトーレンのいわれをご存知でしょうか。あるものをイメージして、それに似せて造られているのです。そうです、イエスさまが赤ちゃんの姿でお生まれになって、白いおくるみに包まれている姿です。この箱は、その乳飲み子が眠っている飼い葉桶です。緑色の干し草も添えられています。このように、イエスさまは私たち人間と同じような体をもって、しかも赤ちゃんとして、小さくお生まれになられました。神の子であり、真の王であられる、そのお方が、こんなにも小さく、低く、貧しいところに降って来てくださったのです。

ところで、このイエスさまの誕生を祝うクリスマスが、どうして喜ばしいのでしょうか。イエスさまがお生まれになった。だから、お誕生日おめでとう。もっともなような気もします。でも、なぜ、イエスさまがお生まれになったことが、私たちにとって嬉しいことになるのか。

今年4年ぶりに作った教会のクリスマスのチラシに、私はこのような短いメッセージを書きました。「クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う季節。でもそのお方は、世界中でお祝いされるよりも先に、私たち一人一人に『おめでとう!』と言って喜んでくださる…これが、クリスマスを祝う本当の意味であり、喜びです」。



クリスマスがおめでたい本当の理由。それは、イエスさまのお誕生を覚えて私たちが「おめでとう」とお祝いするよりもはるか前から、実はイエスさまこそ、私たちに「おめでとう」と言ってくださっているからにほかなりません。どんな状況や姿であったとしても、私たちはそこで無条件に愛され、祝福して頂いているのです。


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今日お読みしたルカによる福音書は、世界で最初のクリスマスの一場面と言っても良いでありましょう。羊飼いたちが登場します。この羊飼いについて、私たちはたいてい、のどかで牧歌的な光景を思い浮かべながら、良いイメージを抱いているかもしれません。何よりも主イエスご自身が、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と仰いました。

けれども当時、羊飼いという職業、また身分は、必ずしも周りから褒められるような人たちではありませんでした。羊飼いは羊の世話をします。皆さんの中で動物やペットのお世話を日常的にされている方ならすぐに想像がつくと思いますが、生き物が相手ですから、羊飼いは自分の思いどおりには休むことができません。特定の日を休みにするわけにはいかないのです。つまり、安息日を守れない。それどころか、安息日に働いてはならないと定めた律法の教えを破っている。そう見られて、不信仰のレッテルさえ貼られるような人たちだったのです。

彼らはまた、夜もずっと交代で働かなければなりません。羊たちを寒さや狼の襲撃などから守らなければなりません。もしかしたら、家にはもっと大切に守るべき妻や子どもたちがいたかもしれません。その家族たちを残して、それも遠く人里離れた荒野のような所で、野宿をしながら過ごすような貧しい人たちだったのです。

その意味で、今日最初にお読みした「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(8節)というこのお馴染みの一文からは、羊飼いたちが明るい街の中心から遠ざかり、人々からは除け者にされ、まるで世界から忘れ去られているかのような暗い辺鄙な所に身を置いている様子が伝わってきます。彼らは、人知れず寂しさや将来に対する不安も募らせていたかもしれません。

そんな羊飼いたちのところに、突然、クリスマスの知らせが舞い込んで来ます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10~12節)。

これまで見たこともない、「主の栄光」(9節)というまばゆい程の輝かしい光が、夜空の暗闇を照らしました。日常とは明らかに異なるこの夜の光景に、羊飼いたちはただならぬ恐れを共々に募らせたに違いありません。そんな彼らに向かって、天使は「喜び」を真っ先に告げ知らせるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。

ここに、「今日」という言葉が出てきます。昨日と明日との間に、漫然と迎えている今日という意味ではありません。むしろそういう当たり前のように流れている時間のただ中に、神が今、ここぞとばかりに光を差し込んで定め、そこに私たちを捕えてくださる、まさに今日というこの日。そんな決定的な時であります。

この「今日」という言葉は、ルカ福音書が特に大切な意味を込めて用いている言葉です。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19:5)。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)。人それぞれ、「今日」という日は違います。救い主であるイエス・キリストとの出会いが「今日」という特別な時を造り出すのです。キリストによってその命が尊く見出されるその日が、救いの日です。


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羊飼いたちにとっては、天使から喜びを告げられた「今日」が、イエスさまと出会うその日になりました。明日や明後日に引き延ばすことはできません。この日を無かったことにするわけにもいきません。羊の世話がまだ残っているからという言い訳も立ちません。彼らにとって、今日こそ、その日が訪れたのです。だからすぐに、「羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」(15節)のです。

こうして、世界で最初のクリスマスは、小さな小さな世界の片隅で起こりました。賑やかな街中ではなく、明るいパーティーの席にでもなく、暗くて寒い荒野で野宿をしながら羊の群れの番をしていた人々の所にこそ、真っ先に世界全体の救い主となるキリストの誕生の知らせが届けられたのです。

世界の片隅とは、場所だけを指すものではないでしょう。夜通し授乳をする母親、休みなく夜も働く人々、家を失って転々とする人々、老いや病の辛さ、死へのやり切れなさを募らせる人々。そして今、戦禍に怯えて逃げ惑う人々…。そのような不安と孤立を抱える人々のところに、天使は喜びを伝えるのです。「おめでとう」という神の祝福のしるしを贈るのです。今こそ、あなたのために、あなたのところに、救い主がやって来たのだと!

「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(16節)。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。

まるで宝探しをするようにして「乳飲み子を探し当てた」羊飼いたちの喜びは、どんなに高らかな声と共に響き渡ったことでしょう。自分の命まるごとに対する祝福を受けた彼らは、ここで羊の世話をする者から、「神をあがめ、賛美」する者として新しくされたのです。この喜びは、再び帰って羊飼いとしての生活を続ける中にあっても、確かな「しるし」(12節)を心に大切に留めながら、続いたことでありましょう。

私たちにも今日、心の片隅に、暗闇に、祝福の光が注がれます。ここに救い主が訪れて来てくださいました。そして羊飼いたちと同じように、私たちの命にも、幼な子の「しるし」が刻まれるのです。このお方は約束してくださいました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。


<祈り>

天の父よ。今年もクリスマスの恵みに与らせてくださり、感謝いたします。キリストの誕生を祝おうとする私たちは、しかし何より、キリストによってこそ祝福のしるしを頂いている者たちです。あなたの目によって価高い存在として、その命が見出された者であります。どうか天に約束されたこの喜びが、地においてもいよいよ確かに満ち溢れ、一人でも多くの失われゆく命、踏みにじられる命が救われますように。救い主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。


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