top of page

「買い取られた私の体」

2022年6月26日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第4日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書43:1
新約聖書 コリントの信徒への手紙一6:13b~20

先週、教会で幾つかの会合やお交わりのひと時をもちました時に、それぞれの対話の中で、私はある一人の少年のことを繰り返し思い起こしていました。それは、私が神学校に入る前に長く務めておりました子どもの福祉施設で出会った少年です。

彼がある時、近くのスーパーで万引きをしてしまったのです。それでお店から施設に連絡が入って呼び出されまして、私が行くことになりました。別室で店長から一通りの経過説明を受けた後、私も保護者の代わりとしてその子と一緒に謝りながら、幸い、警察沙汰にはならずに済みました。「もう二度としないように」との注意と共に、その店長の寛大な人柄に助けられた思いもいたしました。

ところがその際中、そしてその帰り道も、当の少年は浮かない顔のままでした。実は私も、一件落着という安堵の一方で、少しモヤモヤした思いを抱いていました。それで、あえてもう一度彼に、単刀直入に尋ねました。どうして盗っちゃったのかと。すると彼は、おもむろにこう答えました。「自分が万引きするのを、周りの大人がどんな風に対応するかを、見たかった。本気で自分のことを叱ってくれるかどうか、試したくてやった…」。

衝撃的な答えでした。自分のお小遣いでは買えないお店のある「物」がどうしても欲しくて盗ったわけではなかったのです。それよりは、大人たちを試したかった。万引きがいけないことは重々承知の上で、それでも、そのいけない手段を用いてでも試したかった。真剣に叱ってくれる大人を待っていた。捜していた。そうまでして、自分に対する確かな関心や愛情を引き寄せて、それを掴もうとしていた。そんな真相が次第に分かって来たのでした。

だからといって、万引き行為が許されるものでないことは明らかです。けれども許されない犯罪を厳重に注意して、だから万引き等もうしてはならぬと戒めるだけが、大人の責任なのかと問われると、事はそう単純ではないことも確かでありましょう。この一件以来、私は思うのです。彼にはある意味、自由がありました。だからこそ、お店で万引きさえできた。でもその自由に、喜びがあっただろうか。そしてまた思うのです。彼は幸いお店の人にゆるしてもらえました。しかしそれが彼にとって、本当にゆるされる経験となったかどうか。そして最後に「もう二度としないように」と言われた戒めは、彼にどう響いていただろうか。心の奥底にあった何かが解き放たれて、そこで本当に前向きな気持ちになれたのだろうか。


**

パウロも、今朝ご一緒にお読みました手紙の中で、コリントの教会の人々にこう言いました。18節「みだらな行いを避けなさい」。しかし、はたしてこの戒めは、先ほどの「もう二度と万引きをしてはならない」と同じような意味の、反社会的な行為に対する倫理・道徳的な教えにすぎないのでしょうか。

今日与えられました聖書の箇所は、先週の続きであります。12節から始まっていた一続きの教えを、二回に分けて、その理解を深めようとしています。パウロは冒頭から実に二度も、鍵括弧のついた次の言葉を繰り返し強調しました。「わたしには、すべてのことが許されている」。「わたしには、すべてのことが許されている」。

前回も申しましたように、これは元々、コリントの教会の人々が口にしていた言葉だと考えられます。私には全てが許されている。つまりそれほど、自分は自由だ。そういう意味です。それをパウロがここで引用しているのです。そして引用しながら、これに続いて、やはり同じく二度、「しかし」という言葉で切り返しながら、自らの主張を展開して参ります。

パウロの思いは、おそらくこうであったでしょう。あなたがたの言う「自由」。確かにその通りだ。私もそれは否定しない。むしろ、キリスト者とは実に自由な存在のことを言う。この点では私の方が、あなたたち以上にその確信が強いとさえ言える。確かに我々には、自分がしたいと思う全てのことが許されているのだ。律法の、一字一句通りの教えからも自由にされている。そして何をしても、キリストの赦しの恵みから外れる罪など一切ない。全ては許されている。それこそが、福音のもたらすキリスト者の自由というものだ。

けれども「しかし」、あなたがたの主張する自由。あなたがたが今立っている自由の境地。それは本当にキリストの愛に根差した自由だろうか。自分を本当に解放してくれる自由を生きていると言えるのだろうか。全てのことが許されている自由。その自由は果たして、あなたに真実の喜びと力をもたらしているだろうか。しかし、私の目にはこう映る。あなたがたの主張する自由、それは、自分たちの「みだらな行い」をただ正当化するための口実に過ぎないと。


***

パウロは、こうした厳しい眼差しで迫りながら、13節後半で次のように語ります。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」。この主張は実に明白だと思います。ここまでの流れに沿って理解すれば、私たち人間の自由は、「みだらな行い」のためではなく、「主のため」、主なるキリスト・主なる神のためにあるのであって、その主のためにこそ自由は正しく用いられなければならない!このように、対比的に強調されます。

しかし一つ注意したいのは、パウロがここで「自由」という言葉は使わずに、「体」という言葉を何度も意図して使っていることです。私たちの「体」は、淫らな行いのためではなく、主のためにある。そうパウロは言います。この「体」という言葉に込められたパウロの思いをよく理解することが、実はこの手紙全体を読み解く上で、これから度々重要となってゆくことを、先に申し上げておきたいと思います。


話を戻しまして、よく考えてみますと、自由にも色々あります。その自由の出発点を、例えば心の自由というものから考えますと、その心の自由は、選択の自由とも結びつきます。そしてその選択の自由は、今度は行動の自由となって現れます。つまり、私たち人間の自由は、具体的な行動、あるいはその行動を為すためのこの「体」とも密接な関わりを持つことになります。私たちのこの、体です。つねったら痛いと感じるこの肉体。あるいは、食べたものをお腹に満たし、空いたらまた食べる、これを繰り返す私たちの日常の体。

この自分の体を、しかしその自由において、いったいどのように、また何のために用いるかが、まさにパウロの主張でした。だから、「みだらな行いを避けなさい」と戒める。そして、だからこそまた「みだらな行いのためではなく、主のために」用いなさいと教える。けれどもこの教えが、単に倫理・道徳的な臭いのする禁欲の戒めに留まってはいない響きを、今日私たちは共に聴き取りたいと願うのです。

パウロはこの戒めに、こんな思いを重ねていたのではないかと私は思います。もはや、淫らな行いに陥らずに済んでいるこの私。否、淫らな行い等しないという決断に既に立って、主のため、また主が愛しておられる隣人のために喜んでこの身を用いようとするこの私。あるいは万引きなんかにもう手を染めなくても大丈夫と思える平安に満たされているこの私。そんな自分自身の姿に、どうか巡り合ってほしい。否、既にあなたは、そのような新しい「体」に造り変えられていることを、ぜひとも知って欲しい。これがパウロの願いであり、また確信であったに違いないと思うのです。

だからこそ、彼は問い質すのでした。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない」(15節)。

あなたがたの体は、気づいていようといまいと、キリストのものに他ならない。自分で自分の体をどのように、また何のために用いようかと、その自由において考えあぐね、いつしか肉の欲望や悪の誘惑の虜となってしまっている、まさにそんなあなたを、まるごとご自身のものとしてくださっているお方がいる。その主なるお方の御体を、どうか目を開いてご覧なさい。そしてその方の御体に結ばれた自分の体をも、どうかご覧なさい。


****

こうしてパウロは、ここで「体」という言葉を何度も使って、私たちの体がどんなに大切であるかを、さらに開いて指し示します。私たちが、キリストのものとされている事実。それは私たちのこの「体」が、「キリストの体の一部」であるという真実に支えられます。そのようにして、私たちの存在全体が、キリストに結ばれて一つとされているという約束です。

パウロはこれらの根拠を、ただ一つ、キリストのお甦りの出来事の中に置きます。私たちの体がなぜ、それほどまでに大切なのか。それは、神が「主(なるキリスト)を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださ」るからに他なりません。14節の言葉です。

私たちはこの復活を、どのように受けとめ、信じるでしょうか。聖書が証言するキリストのお甦りは、心の出来事ではありません。心の中で描く願望や空想でもありません。それは決して心や魂だけの出来事ではなく、この「体」を伴う復活でありました。そして神がそのようにキリストを甦らせたことで、「その力によってわたしたちをも復活させてくださ」る、と告げられるのです。

これも前回申しましたように、コリントで淫らな行いが横行していた背景には、魂と肉体とを分けてしまう考えがありました。肉の体は、罪と欲望にまみれた汚れたものである。そしていつかは朽ち果てるものだ。だからこそ、せめて魂だけはそこから救い出されて永遠に生き永らえるところに希望がある。この魂の救いこそ、キリストによる罪からの救いだと考えたのです。

したがって、その帰結はこうならざるを得ません。汚れた肉体は救いとは何ら関係ないのだから、生きている間はその肉欲の欲するままに、自分の肉体も、相手の肉体も、好きなだけ弄んでよい。そのように都合よく考えて、彼らは自らの淫らな行いを正当化していたのです。

けれども、神が私たちに約束してくださる復活は、魂だけの救いではありません。この体を、単なる魂の殻のようには見ないのです。やがて死んだら朽ち果ててゆくにすぎない、無価値なものとして切り捨てることは決してないのです。そこには必ず、「体」の復活がある。否、「霊の体」としての復活が約束されるのです。


「霊の体」。不思議な言葉を使いました。もちろん今日の手紙にはありません。実は第15章に至って、パウロは、私たちがキリストと同じように「霊の体」をもって甦るとはっきり言うところがあります。その言葉を、パウロは今日の箇所では使わなかったにしても、間違いなく念頭に置いていたに違いありません。そしてその形跡は、今日の17節に見ることができます。「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」。

この一つ前の16節にはこうありました。「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる」。淫らな行いをする者は、その女と結ばれて「一つの体」となる。それに対して、主に結びつく者は「一つの霊」となる。そう対比されます。「一つの『霊』となる」と言われているところが大切です。

そうしますと、ここで対比されるのは「体」と「霊」ということになります。けれどもこれは、「見える肉体」と「見えない霊魂」というような、単純な比較ではないことに注意する必要があります。言ってしまえば、どちらも見える私たちの体の姿なのです。決定的な違いは、両者がどこに向いているかです。「肉の体」は、神に向き合わず、神を求めず、神の道から反れてしまう、私たち人間の罪の姿です。私たちもこの肉の姿から無縁でいられるはずはありません。

けれどもなお、この肉の現実に生きながら、その罪の暗闇に閉じ込められることのない光を浴びて生きる道がある。それが、「霊の肉」として生きる姿です。神を求め、神に従い、自らの無力さや傲慢さに足元を挫かれてもなお、神と共にあろうとする聖なる姿です。神ご自身の聖さによって、私たちの汚れも聖められる、その聖なる姿、霊の体であります。

この違いはどこから生まれるのでしょうか。それは、自分の体を誰のものとして生きるか、の違いに他なりません。自分の体は自分のものであって、自分の好きなように用いるという思い込みからは、娼婦と結び付いて肉へと堕していく歩みが生まれる。しかし自分の体はキリストの体の一部であり、主のものであるという信頼からは、主に結び付いて主と一つの霊となるのです。その霊を宿す「体」が新しく与えられ、その「霊の体」を生きる歩みが始まるのです。信仰に生きるとは、そのような姿を生きることです。


*****

「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。パウロは終わりに差し掛かる19節で、「知らないのですか」と畳みかけながら私たちに問い質します。あなたはもはや、自分自身のものではない。あなたは神のもの、キリストのもの!

この自分の姿を、私たちはどうしたら知ることができるのでしょうか。いったい、私たちのこの体のどこが、神のもの、キリストのもの、聖霊の宿る神殿、そしてまた「霊の体」なのでしょうか。もしかしたら自分自身を見つめる限り、その真実はいつまで経っても見えて来ないのかもしれません。しかしパウロは20節に、それが可能となる根拠を一言で語ってみせます。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」。

これこそ、私たちが神のもの、キリストのものであって、もはや自分自身のものではないことの根拠です。私たちは、代価を払って買い取られた存在である。では誰が、どのような代価を払って私たちを買い取ったのでしょうか。それは父なる神が、独り子イエス・キリストの命という代価を払うことによってです。神が、私たちをご自分のものとしてくださるために、高い代価を、それも独り子を捨てるという、考えられない犠牲を払ってでも私たちを買い取ってくださったのです。否、買い戻してくださった。それほどまでに、私たちを尊い存在として愛してくださった。それが、あの主イエス・キリストの十字架の死と復活の意味でした。


私たちの体が主のものとなったのは、私たちが何か人よりも抜きん出て立派な行いをしたからではありません。神が喜ばれる功績を積み上げたからでもありません。むしろ私たちはそうしようとして、自分の自由を、自分の体を、必ずしも良い仕方で用いることのできない弱さを抱えています。自由であるはずが、いつの間にか不自由の虜となって、誤った判断、早まった決断をすることがあります。万引きをせずにはいられない程に、心の不自由さや魂の飢え渇きを解きに覚えることもあるかもしれません。淫らな行いを繰り返さずにはいられない程に、得体のしれない不安や不満足感を引きずっているのかもしれません。

しかし神は、その魂の叫びを聞いていてくださいます。ご自分の御手で私たちを掴んでいてくださる。そして御子イエス・キリストを遣わし、その「主は(私たちの)体のためにおられる」(13節)のだと約束してくださるのです。お前は私のものだ。否、私はお前のものだ。そうとまで仰って私たちの体と一つとなってくださる。

ここに、私たちの罪が赦される真の平安と喜び、そして自由が、生まれます。「二度と万引きなどしてはならない」、「みだらな行いを避けなさい」と戒められなくとも、神が共にあるこの体を、もう汚すなんてことはしまい。喜んで主のために、また主が愛される隣人のために、この体を用いよう。献げよう。たとえ、いつかは朽ち果てるこの肉の体を生きようとも、「霊の体」とされたこの自分を、今この時から生き始めることができる。

この真実に立ち上がらせて頂きながら、今日の一歩を踏み出してゆきたいと願います。私たちは、この自分の体をもって神の栄光を現すことができるのです。

bottom of page