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「霊的な賜物を受けて」

2023年2月19日 主日礼拝説教(降誕節第9主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 ハバクク書2:18~20
新約聖書 コリントの信徒への手紙一12:1~3              

今週の水曜日から、教会のカレンダーは「受難節」に入って参ります。キリストのご受難を覚える時。キリストの十字架の死を無駄にしないよう、その重みと尊さを繰り返し心に留めてゆく日々です。そしてこの受難節の先に、私たちはまもなくイースターを迎えます。今年は4月9日であります。

このイースターの祝いの日に、私たちの教会で信仰告白をされる方がいらっしゃいます。かつて幼子であった時にご両親の信仰によって幼児洗礼を授けられ、そして今、自らの志によって信仰を公に言い表す。その素晴らしい「時」が備えられているのです。そして先週から、それに向けた事前準備会が始まりました。

いったい教会とは何だろうか。私たちはそのことを、パウロによって書かれたコリントの信徒への手紙から様々に教えられています。前回の主の晩餐の所でも申し上げましたが、教会とは、主イエスの計り知れない恵みとご計画によって、主の食卓に呼び集められた群れのことだと言うことができます。しかし、ここにもう一つ加えるなら、まさにそのような主イエスのお招きに応えて、私たちもまた、このお方に対する確かな信仰を言い表してゆく。その姿というものが、教会の生命線にとって極めて大切です。

今日の手紙の言葉で申せば、第12章3節に記されていますように、「イエスは主である」と告白することです。そのように信仰を同じく告白する仲間が今、私たちの教会に加えられようとしています。本当に嬉しいことです。教会とは、主イエスに召し集められた群れである。そしてそれ故に、その主イエスを真の救い主として告白し続ける信仰告白共同体である。これが、教会が真のキリストの教会であり続ける姿です。


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本日から、新しく第12章に入りました。ここから明らかに話題が変わります。新共同訳聖書には小見出しが付いていますが、その文字通り、「霊的な賜物」についてしばらく語られてゆきます。どこまで続くかと言いますと、実は第14章まで、パウロは随分長くこつこつと語ってゆきます。

そういう訳で、今日の1~3節はその全体の触りの部分とも言えます。けれども私は、ここは単なる前置きではないとも思うのです。むしろその基本的なこと、つまり「霊的な賜物」についてこれから何を語るにしても、まずここではっきり弁えておかなければ、その先の話が進まないと言えるほど肝心なことが、ここに述べられているように思えてなりません。

今日の「霊的な賜物」という言葉は、ギリシア語では「カリスマ」と言います。私たちの日常でもしばしば耳にする言葉です。特別な才能を持つ人に対して使われることが多いように思いますが、例えば、その力がずば抜けていて、人をグッと惹き付ける場合に、またその姿が、ほとんど人間離れしているような神秘性や霊能を兼ね備えている場合に、「あの人にはカリスマがある」等と私たちは称賛します。いっとき、「カリスマ美容師」という不思議な言い方が流行したこともありました。

しかしパウロの言うカリスマは本来、そうしたごく僅かな人だけに与えられた特殊な力を指す言葉ではありません。そうではなく、ここでは、教会に結ばれて生きる全てのキリスト者に、カリスマが与えられていると言います。実はこの言葉には、「恵み」という意味を持つ「カリス」という言葉が含まれていることからも、カリスマとは、「恵みの賜物」とも訳せます。つまり、「天からの神の恵みによって、その実りとして与えられる賜物」、それがカリスマの本来の意味です。

ですから、実際には様々なカリスマがあります。神からの恵みの賜物。その数々の賜物が、14章にかけて語られます。しかしその中で一番初めに、キリスト者に共通して与えられている霊的な賜物がある。実はそれこそが、「イエスは主である」と皆が言えるようになるという賜物です。教会に集められる私たち一人一人が、たとえどれほど互いに違っていても、イエス・キリストを私の真の主として迎え入れて信じ、告白する。その点では皆同じです。同じ恵みに生きている。同じカリスマが与えられている。そして逆に言えば、このただ一人のお方を主とすることによってのみ、私たちの間にも本当の信頼関係が生まれ、共に生きてゆく基盤が造られてゆくのです。


ところが問題は、今コリントの教会の中で、そうした信頼関係や共に生きる基盤がガタガタに揺らいで崩れそうになっている、ということです。その具体的な有様については、これまで私たちは色々見せつけられてきました。例えば前回の部分に限っても、主の晩餐が乱れてしまっている。その聖なる主の食卓が軽んじられ、食事の席に遅れて来る仲間たちを待つこともできないような、今の私たちには信じ難いおかしな姿が続いていたのです。

けれども、そのおかしさはどこに根差していたのだろうか。元を正せば、それはあなたたちがどんなに素晴らしいカリスマを頂いているかということを、見失っているからではないのか。あるいは、その恵みの賜物を巡って、どこか履き違えている所があるからではなかったか。そうしたパウロの思いが、ここには滲み出ています。

私は先ほど、この第12章から話題が変わったと申しました。しかし、ここから全く別のことが新しく語り始められるというよりは、むしろ、ガタガタ揺れ動くコリント教会の根本問題にいよいよ切り込んで、その土台をしっかりと据え直す決意を、パウロは募らせているように思えるのです。


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カリスマを受けるということ。「霊的な賜物」を頂くということ。それはいったい、どういうことでしょうか。2節に、「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」とあります。

コリントという町は、今のギリシアにありました。したがって、コリントの教会は、ギリシアという全くの異文化世界に建てられたと言うことができますし、そこに集まる人々も、やはりその多くがギリシア人であって、それはユダヤ人から見れば異邦人ということになります。そして彼らの中には、かつてはギリシアの偶像の神々を熱心に拝む異教徒であった人も多くいました。たとえ熱心には拝まなくても、ギリシアの宗教世界特有の神秘体験というものに触れたり、それを好んだりする人も、教会にはそれなりにいたことでありましょう。

神秘体験と申しましたが、ギリシアの神々への偶像崇拝においては、一種の宗教的興奮状態がつきものでした。これとよく似た言葉にエクスタシーという英語がありますが、この語源には、「自分の存在の外に出る」という意味があります。自分自身から離れて、まさに我を忘れる。恍惚とするような体験です。だからそうなった時に、ある意味、自分で責任が持てないような状態になることがあります。そして何かを語らせられるままに語る、ということも起こるのです。

次回以降でパウロは「異言」について語りますけれども、それは、この典型的な一つの例だと言ってよいでしょう。あるいは、神々の像の前で興奮状態になって踊ったり、叫び声を上げたりしながら、その神々と自分が一体となったような気持に浸るのです。そのように、ある宗教的興奮を伴ってエクスタシー状態になる。そして最高の真理は、実は人間の狂気の中に顕著に現れる、という当時のギリシア文化の思想が根強くあり、教会もその影響を受けていたのです。


こうして、パウロが2節で述べたように、コリントの人々がまだ異教徒だった頃に、彼らは文字通り「誘われるままに」、何か不思議な力に引っ張り出されるようにして、偶像の前に連れて来られた。ところがそこで対面することになった神の偶像は、パウロの面白い表現によれば、「ものの言えない偶像」だったというのです。

彼らにこれを思い起こさせながら、いったいパウロは何を言わんとしたのでしょうか。彼らが熱を上げて拝んでいた偶像がどれも、ものを言わないということは、言い換えれば、その前に立つ人間の方が、言いたいことを言うということです。お互い黙っているのではない。神が黙っているなら、こちらが好き勝手なことをあれこれと言う。あるいは、黙り続けて何もしてくれない神には、文句さえも言い放つ。否、呪いの言葉さえ吐き出してしまう。

そのようにして、彼らも知らぬ間に、我を忘れて口にしてしまう言葉があった。それが、3節のもう一つの鍵括弧の言葉。「イエスは神から見捨てられよ」です。「イエスは主である」とは正反対です。私たちからすれば、とんでもない言葉です。言ってはならない言葉です。けれどもコリントの人々は、異教徒からキリスト者となって教会に結ばれた今でも、ギリシア的な古い宗教的慣習を引きずっていた。引きずるどころか、極度な宗教的興奮の中で、神秘体験から発せられるこの呪いの言葉さえ、自らの霊的充満においては良しとしていた。そして優越感に浸っていたのです。

しかしパウロはまさにここに、深刻な問題を読み取ってゆきます。先ほども申したように、この第12章は、決して全く別の新しいことを述べているのではありません。特に直前の、主の晩餐のことが心に懸かっていた。教会の生命線に関わる死活問題です。そのことを語っていた箇所で、例えばパウロは、晩餐に遅れて来る人のことを待てずに勝手に飲んだり食べたりする人は、神の教会を見くびっていると言いました(11:22)。

なぜそう厳しく言ったのか。それはまさしく、彼らが今日の箇所で、狂乱の内に「イエスは見捨てられよ」と言っていることが、既にあの食卓の場で、言い訳できない程に現実として起きている事態に他ならなかったからではなかったでしょうか。そのようにして、晩餐の食卓を備えてくださった主イエスの姿を、彼らは無視したのです。そして主イエスの尊い死をも軽んじて、捨て去ったのです。


しかし、カリスマを受けるということ。「霊的な賜物」を頂くということは、あらためてどういうことでしょうか。パウロは語ります(3節)。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。神の霊、聖霊によって私たちに与えられるのは、呪いの言葉ではありません。霊的な熱狂や興奮でもありません。霊の賜物がもたらすもの。その行き着く所。それはただ「イエスは主である」という私たちの告白以外、何ものでもないなのです。この告白を生まないものは、決して聖霊の賜物とは言えないのです。

「イエスは主である」というこの言葉は、教会の信仰の最も短い要約であり、信仰告白の中核です。冒頭で申した、信仰告白式の事前準備会でも、やはりここが中心となります。けれども、この言葉をただ口に出すだけで意味があるのではありません。告白は、心で信じていることが表され、信じていることが命となり、生活となり、人生となってゆくことに他ならないからです。そしてそれは、どこまでも「聖霊によらなければ」実現し得ないことであって、「ものの言えない偶像」には決して為し得ないことだからです。そのような偶像は、私たちに語りかけることはなく、自らを啓示することもないのです。


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「イエスは主である」と告白すること。それは、この私は主の僕であるということを告白することと表裏一体です。僕はどこまでも、主人の言葉を聴き、その命令を待ちます。主が語り、僕は聴く。それが主と僕の関係ではないでしょうか。「イエスは主である」という告白は、この主の前に自らは口を閉ざし、沈黙してその御言葉にひたすら耳を傾ける、ということに他ならないのです。

「彫刻師の刻んだ彫像や鋳像/また、偽りを教える者が何の役に立つのか。/口の利けない偶像を造り/造った者がそれに依り頼んでも/何の役に立つのか。/災いだ、木に向かって『目を覚ませ』と言い/物言わぬ石に向かって『起きよ』と言う者は。/それが託宣を下しうるのか。/見よ、これは金と銀をかぶせたもので/その中に命の息は全くない。/しかし、主はその聖なる神殿におられる。/全地よ、御前に沈黙せよ」(ハバクク2:18~20)。

「口の利けない偶像」の下にある人と、生ける真の神の下にある人との最大の違いが、実はここにあります。偶像の下にある時には、私たちが語るのです。私たちの語る言葉がそこを支配し、満ちる。しかし、生ける真の神の下にある時には、神がお語りになります。教会をその聖なる神殿とし、そして私たち一人一人の体の内をも、御自らが住まわれる神殿としてくださって、語り給う。私たちは、その神の語られる言葉をただ沈黙して聴き続けるのです。


今日の手紙にあるコリントの教会の人々の異様な姿は、私たちの現実とは大きくかけ離れているのかもしれません。しかし翻って、私たちの信仰はどうでしょうか。生ける神の御前に黙し、その語られる言葉を聴くという信仰になっているだろうか。私たちの言葉、自分の言葉ばかりが声を大にして語られ、神を沈黙させてしまってはいないだろうか。

もしそうであるなら、たとえ「イエスは主である」と告白しているとしても、私たちはこのイエス・キリストを、真の主ではなく、「ものの言えない偶像」にしてしまっているのです。そこで私たちが語る言葉は、たとえどんなに冷静に語られているとしても、霊的興奮状態の中であらぬことを口走っているのと少しも変わらない姿で、「イエスは見捨てられよ」と言っているのと同じなのです。

願わくは、私たちの沈黙が、主イエスの言葉をはっきりと聞こえさせるものとなりますように。私たちの鎮まる心が、イエス・キリストの真の主なるお姿をよりはっきりと浮かび上がらせる鏡となりますように。そして、私たちの真の主人であられるお方と真実に出会うことができるよう、今も聖霊の風が働き続けていることを信じ、その聖なる賜物に導かれて、私たちが心から「イエスは主である」と讃美告白することができるよう、祈ってやみません。


<祈り>

天の父よ。今日の御言葉を感謝します。私たちはしばしば、自分の賜物が少ないとか、人より劣っているとか、そのような仕方であなたに不平不満を抱いてしまう者であります。また時に自らの賜物を誇り過ぎて、それを与えてくださった方を忘れ、それが何のための賜物であるかの意味も見失う中で、傲り高ぶる姿があることも告白します。主よ、どうか聖霊による賜物によって、私たちがあなたを真の神と讃え、御子イエス・キリストを真の主として告白することができますように。そしてこの喜びが、ここに建てられている私たちの教会を、ますます生けるキリストの体の教会として造り上げるものとなりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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