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「神に知られる確かさ」

2022年8月14日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第11日)
牧師 朴大信
旧約聖書 申命記6:4~5
新約聖書 コリントの信徒への手紙一8:1~6

             

私たちがこの日本で、キリスト者として生きるということは、数の上では紛れもなく、少数者として生きるということになります。日本の全人口に対してクリスチャンが占める割合は、僅か1%にも届きません。この事実は、キリスト教以外の宗教的伝統をもつこの日本という国、言わば異教の地で、私たちが様々な神々に囲まれていることを意味し、またそれ故の葛藤を抱えて生きることにもなることを意味します。

それは特に、冠婚葬祭での色々な儀式や儀礼との関わりが必然的に起こってくる中で実感することになるでしょう。そしてそのような時に、私たちはキリストを信じる信仰者として、どのように振舞ったらよいか、多かれ少なかれ戸惑うことがあるかもしれません。例えば仏教のお葬式に参列する時、お焼香をあげてもよいかどうか。また、仏壇や位牌の前で手を合わせることをどう考えたらよいのか。そうした具体的な問題に、私たちはしばしば直面するに違いありません。


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コリントの教会の人々が置かれていた現実も、これとよく似たような所がありました。本日与えられましたコリントの信徒への手紙一の第8章の言葉。その最初に、「偶像に供えられた肉について言えば」という風に書き記されていました。

少し唐突な印象を受けるかもしれません。しかし一つ手前の第7章で、パウロが結婚についてずいぶん事細かに書き記していった時にも、その最初の出だしは、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありました。こうした言い方から分かりますように、既にパウロの手元には、コリントの教会から幾つもの質問や訴えが寄せられていて、それにパウロが一つ一つ答える形でこの手紙が書かれていたのだと考えられます。先ほどは結婚について訊ねてきた。そして今度は、あなたがたが訊ねてきたもう一つの問題、「偶像に供えられた肉について言えば」、という具合にして、パウロはここから新しい問題に触れて語り始めるのです。

「偶像に供えられた肉」。いったいこれが、どのような意味で問題だったのでしょうか。少し背景を知る必要があります。コリントを始めとする当時のギリシアの町々には、様々な神々を祀る神殿がありました。まさにキリスト教にとっては異郷の地であります。そして毎日のように、その祭壇の前には、多くの動物が生け贄として献げられていました。お祭りや冠婚葬祭といった特別な行事の時には、なおさらでありました。

さて、その供え物の肉の行方はどうなるのか。一部は、神殿に仕える神官や祭司たち、あるいはその祭儀に集まった人たちの食卓の上に並べられたと言います。しかしそれでも余る。では残りはどうなるかと言えば、市場に出されて売られたと言います。つまり当時の市場には、神殿の神々や偶像の神々に一度供えられた肉が一般の食用肉として出回るということが、しばしばあったのです。

確かに今日の手紙の少し先の方を読みますと、この偶像に供えられた肉を巡っては、パウロは再び丁寧に書き記してゆくのですが、その中で例えば第10章25節に、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索」してはならないと注意を促す所があります。つまりパウロがそう注意しなければならないような状況があったということです。市場で買う肉は、ひょっとしたら偶像に供えられた代物であるかもしれない、という懸念が人々の心に付きまとっていたからでしょう。肉の出所を確かめることができない不安があった。

もちろんこの事情は、コリントの町の一般の人々にとってはごく当たり前で、何ら問題のないことでした、しかし信仰を持つ教会の人々にとっては、軽んずることのできない戸惑いとなっていたのです。市場で買い物をしない場合でも、異教の神々を拝んでいる家庭で冠婚葬祭の儀式が行われるような時に、その食事の席に教会の人々が招かれるということも多くあったに違いありません。そういう招きを、宗教が違うからと、汚れたものだからと言って、断っていいのか。断らなければならないのか。でもそれはあまりに相手に失礼ではないか…。私たちにも良く分かる葛藤ではないでしょうか。


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しかし今日の手紙をよく読みますと、この問題についてコリントの教会からパウロに寄せられた質問は、どうも、「偶像に供えられた肉は食べてもよいのでしょうか」といった単純なものではなかったことが分かります。むしろこの質問に対するはっきりとした答え、それも深い知識に基づく確信的な答えを持っていたのです。そんな彼らにしてみれば、実はここでその答えをパウロにも認めてもらうことが目的だったのです。言わば、ここでお墨付きをもらうことで、自分たちの教会の弱い人や未だ葛藤の中にある人々に対して、「ほら、パウロ先生もこう言っているではないか」と主張して、指導的な立場をさらに強めようとしていたのでした。

その彼らの確信を言い表す言葉こそ、実は1節で鍵括弧で括られた「我々は皆、知識を持っている」という言葉です。これは、当時のコリントの教会で共有されていた合言葉のようなものだと言ってよいでしょう。そしてこの合言葉で彼らが主張しようとしたことは、およそ次のようなものです。偶像に供えられた肉を食べたからと言って、何が問題になるのか。我々には、そんなことは自由にできるはずだ。なぜなら「我々は皆、知識を持っている」のだから。崇高な知識を持っている人間は、自由だ。自由な人間は、偶像に供えられた肉などに惑わされたりはしない。だから平気で食べることができる。

ここで言われる「知識」というのは、受験勉強で丸暗記しなければならない詰込みの知識や、科学・合理的な知識とは少し違います。あくまでもそれは信仰と結びついた知識のことであり、曲がりなりにも、信仰がもたらす神秘的な知識、あるいは霊的な知識と言っても良いものです。したがって、そのような知識を持っている分だけ、その人は高められるような気分になる。否、それどころかこの世を抜け出してしまえる程の自由さを手にする。この世の様々な束縛からも自由になれる。そんな、自由をもたらす知識です。


さて、このように主張する彼らに対して、ではパウロはどのように向き合ったのでしょうか。「我々は皆、知識を持っている」。だから自由だ。そう息巻く彼らに、パウロも「なるほど、それは確かなことだ」と、一応は同調します。私もあなたがたと同じように、そう信じている。

けれども、このすぐ後に続けて、こう反論するのです。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。つまり知識には問題がある、と言うのです。彼らが自分たちの自由を主張するための根拠とした「知識」には、やはり問題がある。なぜなら人を高ぶらせ、傲慢にさせるからだ。否、単に傲慢という問題だけに留まらない。傲慢になった時、そこで何が一番深刻な問題となるのか。それは、実に私たちが愛を失う、ということに他ならない。だからここでは、知識と愛とが対比させられているのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。

「愛は造り上げる」。パウロはこのような言い回しを掲げました。彼はこの後も、この手紙の中で、愛について何度も語ってゆきます。そこで語られる特色は、まさに「造り上げる愛」です。この「造り上げる」という言葉は、元々は「(家を)建て上げる」という意味の言葉です。足が宙に浮くような高ぶりではなく、下からしっかり基礎を作りながら人を造り上げる。相手が崩れそうになっている時、否、もう崩れてしまった時に、そこに愛が注がれることによって、その人が力を与えられて再び立ち上がることができる。そういう愛です。


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そうした「造り上げる愛」というものをここではっきり問い質しながら、では、その愛に生きるためにどうしたらよいか。何が必要か。パウロはその大切な源について、2節でこう指し示します。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」。

よく考えますと、これは1節をそのまま言い換えた、裏表のような言葉です。そもそも、「知識が人を高ぶらせる」とは、どういう姿のことを言うのでしょうか。それは、本当はまだ「知らねばならぬこと」があるのに、そのことに気づかない程に、否、気づこうともしない位に、自分はもう知るべきことを知ってしまったと錯覚している姿。思い違いをしている姿。そんな私たちの姿に他なりません。

実は、パウロが見つめるこの高ぶりの姿は、今や私たちの傲慢さだけが問題とされているのではありません。そもそも人を高ぶらせるような知識が、本当の知識だと言えるのか。知るべきことはもう知っているけれども、それ故にもし傲慢になってしまっているなら、その態度の部分だけが問題だ、等と言っているのではありません。もはや知識そのものが、真の知識としてそこで成り立っていない、という悲劇をパウロは見つめるのです。


それならば、いったい知識を本当の知識として成り立たせるもの、そして私たちが生きている間に本当に「知らねばならぬこと」とは、何でしょうか。3節はこう語ります。「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」。すぐには、繋がりの見えにくい言葉かもしれません。しかし何度も噛みしめながらこの言葉をなぞると、再びここにも、「愛する」という言葉と、「知る」という言葉の両方が使われていることに気づきます。しかもいずれも、神との関わりで用いられているのです。

私たちが生きている間に本当に知らねばならないこと。知ることが切に期待されていること。それは大きく言ってしまえば、何よりも神、この神というお方の真実こそを知る、ということをパウロはここで言いたかったに違いありません。けれども、ここで少しだけ、「神を知る」ということについて立ち止まって考えてみたいと思うのです。

私たちは聖書を読み、また礼拝で御言葉を聞き続けることによって、少しずつ神について色々なことを知ってゆきます。そのように知識を積み重ねてゆくのです。けれども、知識がどんなに蓄積されても、実はそれだけではまだ、本当に知らなければならないことを知ることはできていないと、言わなければなりません。このことは、知識の深まりが、信仰の深まりを必ずしも生み出すとは限らない、ということと関係します。

なぜなら神についての知識が、神に対する信仰へと実を結ぶためには、何よりまず、神というお方を愛することが必要だからです。もちろん、神に対する愛が無くても、神についての知識を得ることはできます。しかし神を愛すること無しに、神を信じることができるでしょうか。実は私たちが今、神を信じることができているのは、私たちが神を愛しているからに他なりません。神を愛しているからこそ、私たちは神を信じることができる。そして実は、私たちが神のことを本当によく知ることができるのも、まさに、私たちが神を愛することによってしかできないことなのです。


「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」。この3節の言葉を通してパウロが言いたかったことも、まずはそのようなことであったに違いありません。神をより良く知ろう。否、神を愛しながら、神のことをもっとより良く知ろう。そして実際、このことだけを本当に強調しようとするならば、ここは理屈通り、「神を愛する人がいれば、その人は神をよく知ることになるのです」等と記されてもよかったはずです。

ところがパウロは、そうは書かなかったのです。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」。実に不思議な書き方です。つまりパウロはここで、人間の側の論理には立っていない、ということです。私たちが神を愛し、そのことによってさらに神をより良く知る、という一方通行の理屈をはるかに超える、神と私たちとの出会いの真理の上にこそ、立っているのです。

私たちが神を本当に愛することができた時、それはいったい何を証しすることになるのでしょう。それは、そのまま私たちがそれに比例して神をより良く知ることができる、等という次元をはるかに超えて、実は神の方が、私たちを深く知ってくださっていたという隠された真実こそを、そこで証しするものに他ならないのです。

別の言い方をすれば、神と私たちとの関係を支えているのは、私たちが神を知っている事実ではない、ということです。私たちが神を知るのではなく、神が私たちを知っていてくださるという真実。愛してくださっているという真実。この真実に、神と私たちとの関係の土台があります。信仰の土台があるのです。私たちが神を愛し、信じ、そしてそれ故に神をより良く知ることができるのは、他でもない神ご自身が、この私たちを知っていてくださり、愛していてくださるからなのです。この、自分が神に知られており、愛されているということこそ、信仰者として生きるために、私たちが本当に知らなければならないことなのです。私たちが知るべきは、神を知ること以上に、神に知られていることを知る、ということなのです。


*****

こうして、この第8章に入りまして、パウロはしばらく偶像に供えられた肉、あるいは偶像そのものを巡って、それとの関わりについて語ってゆきます。しかし既にこの1~3節までの所で、それらに向き合うために必要な心構えの根本については、ほとんど全て語り尽くしているように思います。そしてこれを受けて、続く4~6節においては、「神に知られている」と言った時のその神とは、いったいいかなる神であられるかが語られます。

私たちが知ってゆく神よりも、私たちを既に知っていてくださる神とは、どういう神なのでしょうか。4節でパウロは、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」と断言します。勇ましい確信です。実際には、世の中にはなお、偶像の神は有形無形に存在しています。しかしもはや、それらに支配されない所の確信に立つからこそ、「偶像の神などいない」とはっきり言えるのです。私たちは、ありとあらゆる偶像から自由になって生きることができるのです。

そして最後の6節で言います。真実に存在するのは、「唯一の神、父である神」、そして「唯一の主、イエス・キリスト」。この唯一のお方がいてくださるからこそ、全てのものがそこから生まれ、またそこに帰ってゆく。今この時を生きる私たち、この私たち自身も、この唯一の方のものとされて生かされている。この世に存在する、ありとあらゆるものの根源と帰着を約束する唯一のお方がいらっしゃらない所では、全てが虚しいばかりではないか。パウロの確信の声が響きわたります。

こうして、今朝申命記を通して伝えられた、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という神讃美が、さらにここに重なり合います。この旧約以来の至言が、パウロの時代、そして今この時代にまで伝えられ、私たちも同じように讃美できる喜びを、共に噛みしめたい思います。高ぶる私たち、そしてまた、人生の様々な葛藤や挫折に直面して崩れそうになる私たちに、今日も唯一の主は、「造り上げる愛」をもって満たし続けてくださいます。立ち上がらせてくださるのです。

そして、偶像に供えられた肉をどうしたらよいか、という今日の問題に代表されるこの世の様々な葛藤も、私たちが「神に知られている」その確かさの中でこそ、確かな道筋が整えられ、開かれてゆきます。私たちが生きている間に本当に知らねばならない知識は、どこまでも私たちを生かす、喜びの知識だからです。


<祈り>

天の父よ。コリントの教会の時代、否、教会が誕生したその時から、キリスト者としてこの世を生きていくことには、様々な葛藤や困難があることを思わされます。そこに信仰の闘いがあり、またその闘いの中で傲り高ぶりの罪を犯し、あなたに対する不信仰の罪があることをさらに思わされます。しかしどうか、それ故に、そこに何一つ変わらぬ確かな真実が貫かれますように。私たちが、他でもない唯一のあなたによって知られている、ただその確信によってこそ、信仰の闘いを、なお望みをもって続けていくことができますようにお助けください。主の御名によって祈ります。アーメン。


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