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「すべてはいただいたもの」

2022年3月20日 主日礼拝説教(受難節第3主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書35:5~8
新約聖書 コリントの信徒への手紙一4:6~13

             

「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。

今日の手紙では、パウロは随分と強い言い方で筆を走らせているように見えます。今引用しましたのは、7節の言葉でしたけれども、続く8節で彼はさらにこう言います。「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」。あなたがたは勝手に王様になっている。それに比べて、パウロは自分たちのことを次の9~10節で「死刑囚のよう」だ、あるいは「愚か者」であると言います。

コリントの教会の人々に対する、皮肉を込めた痛烈な批判とも読むことができるでしょう。しかし、はたしてこのような皮肉や批判、厳しい言葉を、彼らはどう聞いていただろうか。そのまま素直に聞き入れることができただろうか。そんな疑問さえ持たせるほどに、パウロはここでかなり手厳しいことを言っているのです。

実はパウロ自身、今日のような言葉は相手にとって受け入れ難いものであろうことは、十分感じ取っていたに違いありません。だから一言、断りを入れる。それは次回お読みする14節の所で分かります。「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」。

こう述べながら、しかしパウロは、かつてコリントの地に教会を建てた生みの親として、どうしても言わなければならないことは言う。いささか冒険をして、関係がぎくしゃくするとしても、我が子のようなコリントの人々を生かすためには、どうしても大切だと思うことは言っておかなければならない。パウロはそう覚悟を決めています。否、それは覚悟という勇ましさよりも、神の愛に生かされ、キリストを信じきる者の、しなやかな信仰の姿に他なりません。

前回の3節の言葉を踏まえるなら、パウロにとって、もはや人からの裁きや評価は少しも問題にはなりません。それがいちいち気になっている内は、言うべきことが言えなくなる。しかし今や少しも気にならない。捕われない。否、むしろ捕われるべきはキリストであって、自分がすっぽりキリストのものとされることによって、初めて自由になれる。パウロはそのような境地に立って今日の手紙を書いているに違いありません。


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パウロは今日の6節で、このように語り始めました。「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました」。

「あなたがたのためを思」って書いている。ではパウロは、コリントの人々のどんな姿を思い浮かべながら、彼らのためにこの手紙を書いてきたのでしょうか。それは言うまでもなく、もう何度も繰り返されて来ましたように、コリントの教会の内部で起こっていた分裂問題です。パウロ派、アポロ派、ケファ派があり、さらにはそのような分派のあり方を批判し、自らの絶対的正統性を名乗った、キリスト派まで生まれた。そして互いに仲間割れをしながら、やがて礼拝も一緒にできなくなった。主の晩餐における一致さえ、破壊されてしまう程の深刻な状況に陥っていたのでした。

したがって、パウロはこの問題に心を痛めつつ、またこれを糸口にしながら、手紙の最初から教会の一致を求めてきました。そのための相応しいキリスト者としての姿を示してきました。そしてそのような教えや諭しの中で、パウロはまた、伝道者としての自らの役割や使命についても、特に第3章で詳しく述べました。

今日の6節の最初の一文は、こうした流れを受けての言葉です。パウロは自分のこと、また同労者アポロのことを語りながら、実はあなたがたのことを語っていたのだと、コリントの人々に訴えるのです。伝道者である私たちの話を通して、ぜひ自分たち自身のことを振り返って、考えて欲しい。そんな願いが込められています。

コリントの信徒たちは、いつの間にか自分で全てのことを判断できると思うようになっていました。パウロやアポロなど指導者たちに対する、言ってみれば品定めをしては、「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろに」(6節)するようなことさえ、していたと言います。しかしそうすることで教会の中で党派が作られ、教会が分裂することになった。それはパウロの眼差しには、一にも二にも、「高ぶる」ということに他なりませんでした。


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事は、教会の外ではなく、中での問題です。信仰に関わる問題です。あるいは、信じているその内容、つまり福音の理解を巡る問題です。そういう教会にとって極めて大切な事柄を、しかし都合よく自分の武器にしながら、互いに正しさをぶつけ合って戦うのです。これは正義と悪の戦いといより、正義と正義の戦いでありましょう。教会が立つか倒れるか、人が救われるか滅びるかの問題となれば、どうしても自分が譲るわけにはいかない。妥協することなく主張し、相手を裁き、最後まで戦い抜かなければならない。

このように、自分が大切にする信仰や福音を歪めてしまう相手に対しては、戦わざるを得ない。それがコリントンの教会の中で起きていた現実でした。けれどもこの現実は、世界の教会の現実でもありました。教会の歴史は、教会分裂の歴史でもあったことを、私たちはあらためて知らされます。この二千年の歴史を紐解くならば、古代の正統と異端の戦いに始まり、その後キリスト教会は、大きく東側と西側に大分裂しました。さらには、宗教改革の時代を通して、ローマ・カトリック教会からプロテスタント教会が生み出され、このプロテスタント教会の中から以後、福音主義の諸教会が分かれ、数えきれない教派が併存したまま今日に至っています。私たちの教会も、例外なくこの流れの中に位置しています。

このように、コリント教会の分裂は決して他人事ではありません。コリントで起きていた現実は、世界の教会の現実であり、さらにはこれを引き起こす私たち人間の問題でもあるのです。私たちも、自分たちを良しとし、他の教会や人々のことを侮る。侮るとまではいかなくても、互いに無関心である。知ろうとしない。同じキリストの教会であるのに、一つになれない現実を、痛みとして覚えることがなかなかできない。


しかしパウロに言わせれば、これらに通底する問題は、コリントの教会の人々を初めとする、私たち人間の「高ぶり」だと指摘されます。この高ぶるという言葉は、今日の6節と7節で二度使われていますが、このコリント書全体を見ますと、第二コリント書まで含めて実に40回近く繰り返し用いられています。それだけパウロにとって、重要な言葉だと分かります。パウロの霊的な眼差しだとも言えます。

この「高ぶる」という言葉には、「誇る」というニュアンスも込められています。何かを誇るというのは、別の言い方をすれば、「何かを頼みとし、拠り所とする、あるいはそれに寄りすがる」ということです。そこには「喜ぶ」という響きさえ帯びることになります。

コリントの人々の分派争いを通じて、パウロの霊的な目にはっきり映し出されていったのは、まさにこのような姿でした。彼らは、各々のリーダーを誇り、思いを共有する仲間を頼り、そして自分たちの主張を喜びながら誇っている。しかしその時、主を誇ることを見失っていました。彼らは神の御前で、高ぶる姿でしかなかったのです。


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事は、信仰や福音のために立ち上がり、一生懸命に戦っていた、まさに聖戦とも呼びたくなるような戦いであったはずなのに、いったいなぜ、どこで、彼らは踏み外してしまったのか。高ぶるようになってしまったのか。それは今日のパウロの言葉で言えば、6節の通り、「書かれているもの以上に出ない」ことをしっかり学んでいないためだと、言います。これが何を直接意味するのかについては、様々な解釈があるところですが、この「書かれているもの」というのはやはり、何と言っても聖書のことだと理解してよいでしょう。

神の言葉として書かれた聖書。この聖書を通じて神が語りかけてくださっていること以上のことをしてはいけない。出しゃばってはならない。神の言葉から的を外れて、それを超えた所であなたがたは今、何をしているのか。何を誇っているのか。それをどうか学び直してほしい。振り返りますと、このパウロの思いは、既に読んで来た所にもはっきり書き記されていました。例えば第1章31節の「誇る者は主を誇れ」という言葉。あるいはまた、第3章21節の「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」という言葉。


主を誇ることを見失った人間は、高ぶってしまう。それは罪の姿であります。高ぶりという罪。高ぶっているつもりはなくても、私たちは罪の闇に巧みにのみ込まれてしまうのです。神を神としないこと。神に信頼しないこと。神に従わないこと。あるいはまた神に反逆すること。それは罪です。神の言葉を聞かず、神でないものに頼り、自分の思いに従う。そして自分を神としてしまう。これも罪です。罪ある人間は、自己中心に陥ります。そして自己中心は、人を高ぶらせもするし、また自己卑下にも向かわせます。

私たちの罪の根深さには、ただならぬものがあることを思います。私たちは、信仰においても高慢になる。信じることにおいてさえ、罪を犯してしまう。なんと惨めな罪人なのだろうかと思わされます。どうしたら、自分から目を離して、神を見上げることができるのでしょうか。どうしたら、地上のものに心奪われることなく、心を高く上げることができるのでしょうか。どうしたら、自分のことなど忘れてしまって、隣り人の苦しみを共にすることができるのでしょうか。それはもう、神に救って頂く以外にない。御言葉に聴く以外にない。私たち自身の全てを、そのまま主のものとして頂く以外にはないのであります。

否、しかし実はもうなっている!あなたがたも私も、主のものとされているではないか。私たちはキリストのもの。そして神のもの。その真の主のご支配される所に、もう既に与っている存在なのだ。だからこそ、この世界の全ては、私たちのものとさえなっている。先ほど参照した第3章21節以下にはこう記されています。「…すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの」。

しかしそれなのに、あなたたちは今も「大金持ち」のように、あるいは「王様」のように、何でも自分の力で手にしたいと日々戦い、その手柄は自分自身にあると思っている。誇っている。いったい、あなたの持っているもので、神から頂かなかったものがあるだろうか。生きるのに必要なものは、全て頂いたものではなかったか。そうであるなら、なぜ頂かなかったかのような顔をして高ぶるのか。


パウロはこのように迫っていきます。けれども興味深いことに、コリントの人々がまるで大金持ちで王様のように振舞っている姿に対比させるようにして、今度はパウロは、自分たちのことを何と呼んだのか。それは、死刑囚のようだと言うのです。人々の見世物とさえなるような、耐え難い辱めを受ける死刑囚のようだ。あるいは11節では、「わたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく」と書いています。それなのに、自分たちは自ら稼いで自分の生活を作っていかなければならない所に置かれている。パウロはそのように、自分たちの惨めな姿を対比させます。

しかしここで、私たちが見失ってはならないことがあります。パウロは、自分がこのように見世物になっているのは、実は神がそうしておられることだと、述べているということです。自分が選んだのではない。運命によってそうなってしまったのでもない。神が私に、そのようにしておられるという確信に立っているのです。

なぜ、そう言えるのでしょうか。その一つの鍵となるのが12節の「侮辱されては祝福し」という言葉です。パウロが伝道者として立たされ、人々からの様々な評価や裁き、時には侮辱さえ受けながら、しかし教会を教会として建て上げてゆくためにしなければならないことは、そこで呪いを語ることではなく、神の祝福を告げる、ということです。神の祝福を証しし続けるということです。そしてその祝福に、自らが生かされる場所に立つということです。

それは、高い所に立って、金の冠を被った王様のような姿で「あなたがたに祝福があるように」と言うことではありません。むしろ侮辱されながらも、その所で祝福する。下から祝福を告げるのです。この姿こそ、パウロが10節で、「わたしたちはキリストのために愚か者となっている」と言い表していたことでした。キリストのために、キリストを通じて、キリストの恵みの中で、パウロは愚か者の場所に立っているのです。

いったい、侮辱を受けながらも祝福をもって返したのは誰なのか。それはまず、主イエスご自身がなさったことではなかったでしょうか。このキリストに導かれ、このキリストと共に歩む者とされる時、私たちが置かれるのは、高い所ではなく、低い所であるはずです。もし私たちが本当の意味で王様のような自由を手にすることができるとすれば、それはまさにこの低い所において、私たちがキリストのものとされ、それ故に全てのものが私たちのものとなっている、その信仰の現実においてではないでしょうか。


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本日、併せてお読みしたイザヤ書第35章には、神がイスラエルの救いを完成してくださることへの希望が語られています。荒れ野や砂漠に水が湧きいで、そこに川が流れ、野ばらの花が一面に咲く。あるいは見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がり、口のきけなかった人が喜び歌う。そのように、主に贖われた人、罪赦された人のための道が整えられ、主ご自身が先頭に立ってその民を導いてくださる様子が描かれます。

その救いへと向かう旅路の中で、8節に「愚か者がそこに迷い入ることはない」と記されています。これは、愚かに生きる者であっても、もう迷い込むことはない。否、キリストと共にある愚かさに生きる者に、外れの道はない。それどころか、救いへの道を確かに歩むことなるのだ、という約束です。

キリストの信仰に生きるというのは、今この時において、豊かで、賢い、力ある者となっていくということではありません。そうではなく、むしろキリストを信じることによって、私たちはこの世では自分がどこまでも愚か者であることを受け入れることができるようになる、ということです。主イエス・キリストと結ばれる愚か者は、自分の知恵や力に依り頼んでいる賢い者には決して得られない、大いなる喜びと希望が与えられているのです。

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