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7月19日 「天を仰いで、地を歩く」 伝道師 金井恭子
ダニエル書3:13-18 フィリピの信徒への手紙3:17-4:1 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」。 キリストを宣べ伝えることによって投獄され、命の危険にさらされても尚、喜びと確信をもって信仰に生きるパウロは、かつて伝道し教会を建てたフィリピの信徒たちに、このように呼びかけます。 前回ご一緒に読みました16節までの御言葉を思い起こしますと、ここで少し違和感を覚えるかもしれません。パウロは、割礼を受け、律法を厳格に守っている自分こそ完全な者であると主張する人々を「あの犬ども」と呼び、厳しく警戒するように促しました。そして、自分自身については、まだ完全な者となったとは思っていない、すでに目標に到達したとは思っていない、と語っていたはずです。それなのに、ここでは「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言います。何と傲慢なことを言うのだろうか、と思われるかもしれません。 しかしパウロは、自分自身を完全な者と見て自分のような人間になり
2 日前
7月12日「目標を目指して」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:28-31 フィリピの信徒への手紙3:12-16 「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」 広くキリストの福音を宣べ伝え、教会を建て、キリストのためならば死ぬことも喜ぶ生き方をしたパウロでさえ、「完全な者ではない」と言います。「何とか捕らえようと努めている」とは、いったい何を捕らえようとしているのでしょうか。パウロが捕らえようとしているもの、それは一言で言うなら「キリストご自身を知り、深く結ばれること」と言うことができるでしょう。しかし、パウロは13節で「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」と言います。 原文のギリシャ語の動詞には主語が含まれるのに、ここでは敢えて「わたし自身は」と主語を強調しているのは、意味深です。彼ほど豊かに主に用いられてきた人が、自分が完全ではないことを、ことさらに強調するのはなぜか。当時の教会には、人間の努力や宗教的な実績を誇る人々や「自分はもう十分に成熟した信仰者である」と考える人々がいたのでしょう。おそらく
7月18日
7月5日 「誰も退けない福音」 牧師 伊藤節雄
『申命記』25:1 『ヨハネ福音書』18:12~14,19~24 祈ります。 天の父、公然と福音を語ったと言われ、何故私を打つのかと抗議されたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスを捕らえた一行は、先ず、アンナスのところへ連れて行ったのです(13節)。この時ユダヤの大祭司はカイアファでした。その大祭司の所へ連れて行くのが自然だと思われますが、一行はカイアファの舅の前に連れてきたのです。義理の父親アンナスのところでした。 目の前に連れて来られた主イエスに、このアンナスが尋問します。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねたのです(19節)。大祭司とありますが、正確には元大祭司です。しかし辞めてもなお大きな権力を持っていました。それで、今の大祭司を抑えるようにして先に主イエスを尋問し、裁判の時としているのです。尋問は、弟子は誰で何人いるのか、教えはどんな教えなのか、ということでした。大祭司は尋ねたとありますが、これは単なる質問ではありません。「尋問した」との訳もありますが、それも不十分です。これは、
7月6日
6月28日 「喜びなさい」 伝道師 金井恭子
エレミヤ書9:22-23 フィリピの信徒への手紙3:1−11 「喜びなさい」 フィリピの信徒への手紙で、パウロは何度も繰り返します。しかし、どんな時にも喜ぶことは、簡単なことではありません。私たち地上に生きる者の現実は、悩みや悲しみ、苦しみの中に置かれることが多いからです。「神さま、なぜですか」と問い、嘆き悲しむ経験をしたことがある人も少なくないでしょう。では、これはキリスト者にとっても現実的ではない、遠い次元の言葉なのでしょうか。 そうではない、私たちの喜びというものについて、これまでの礼拝で共に御言葉から聞くことができました。私たちは、良いことばかりが起こること・自分の思うような結果が得られることだけを喜びとするのではないことを知らされています。私たちの人生は、神の御手の中にあります。そして神は、ご自分のご計画の中で、私たちを完成へと導いてくださいます。その確信に生きることが、私たちの喜びなのです。現実を見ないで無理に明るく振る舞うことを求められているのではありません。暗い現実の中にあってもなお、「神が働いておら
7月6日
6月21日「神の同労者」 伝道師 金井恭子
イザヤ書52章7節 フィリピの信徒への手紙2章25〜30節 前回の2:19〜24では、パウロがテモテをフィリピの教会に送ろうとしているところを共にお読みしました。彼がテモテを選んだ最大の理由は、テモテがパウロと共に、「息子が父に仕えるように福音に仕える」者であったことでした。テモテが欠点の無い完璧な人物であったからでも、特別に優秀で強い人間であったからでもなく、キリストを第一とする心をもって生きていたからでした。 19節でパウロは、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので」という言葉と共にテモテの派遣を予告します。「力づける」の元の言葉は、「慰める」とも訳せます。彼は慰められたかったのです。パウロは福音によって教会を建て、励まし、慰めてきた人でした。そして、獄中にあっても喜び、キリストのために死ぬことは自分にとって利益であるとさえ思っている人でした。その人が、自分自身も教会の側から力づけられ慰められたいのだと素直に述べていることを、私たちは見過ごしてはならないでしょう。これは単にパウロが弱音を吐いているということではありません。
6月26日
6月14日「共に福音に仕える」 伝道師 金井恭子
サムエル記上22:12〜15 フィリピの信徒への手紙2:19〜24 フィリピの信徒への手紙の冒頭に、パウロと共にテモテの名前が記されていたことを覚えておられるでしょうか。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督と奉仕者たちへ」とありました。先程お読みました2章19節においてテモテの名前が再び出るまで、すっかり忘れていたかもしれません。 前回までのところで、キリストの福音を宣べ伝えたことによって捕えられ獄中にあるパウロの教えについて読んでまいりました。彼は自分自身が捕えられていても、そしていつ処刑されるかわからない命の危機にありながらも、フィリピの教会の信仰と「福音の前進」を喜び、自分自身を貶めるような勢力さえ、それがキリストを宣べ伝えるものであるなら喜ぶ、と言いました。キリストに救われた者同士として相応しく生きるにはどうすればいいかを語り、キリストに倣って従順でへりくだった生き方をするようにと勧め、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益である」とま
6月26日
6月7日「一人も失わないと主は言われる」 牧師 伊藤節雄
『詩編』17:6~12 『ヨハネ福音書』18:1~11 祈ります。 天の父、主イエスが御自分から進んで十字架に進まれた意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスが捕らえられ縛られて連れて行かれる時の様子を細かく伝えています。 ナツメヤシの枝で喜んで迎えられた日から始まった受難週の中で、その中心と言える主の十字架の時が来ました。十字架のお苦しみ、苦難をお受けになることを、受難と言います。この一週間を受難週と呼びます。私達の教会も木曜日には、洗足の木曜の聖餐式を行います。金曜には受難日の祈りの会を持ちます。 この受難週を英語では何と言いますか。パッション・ウィークと言います。神学生になったばかりの時、この英語に驚きました。パッションとは、情熱という意味なのです。彼は情熱にあふれている、という風に言う意味なのです。そういう風に覚えていたのです。受難週を、情熱の一週間と読んだのですから驚くのは当たり前です。 十字架の出来事を伝えるのにヨハネには大きな特徴があります。12節に、兵士たちが、イエスを捕らえて縛ったとありま
6月26日
5月31日 「星のように輝く」 伝道師 金井恭子
ダニエル書12章1〜3節 フィリピの信徒への手紙2章12〜18節 「わたしの愛する人たち」と呼びかけるパウロは、自身が獄中にあるため指導者を失ったフィリピの教会の人々に、なおさら従順であるようにと勧めます。前回、共に読みました1節〜11節でも、キリストのへりくだりと従順について語られました。それは、人間の姿形で現れてへりくだられ、神と等しい者であることに固執しようとせず、ご自分を無にして僕の身分となり、十字架の死に至るまで従順であった「父なる神にすべてを委ねる」生き方でありました。私たちは、キリストの従順を真似ることはできないけれども、全てを主にお委ねして、自分を低き者として他者を尊重し、キリストを中心とした歩みを進めていくことはできる、というお話をしました。 12節の「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように」という言葉を見ると、少々緊張感がよぎります。しかし、神が怖いお方であるという意味ではありません。聖なる全能の神であられるお方への敬いと慎みを持ちなさい、ということでしょう。 神学校の学びの中で、新約聖書では「神を信じる」とい
6月6日
5月24日 「聖霊なる神によりキリストの証人とされる」 牧師 伊藤節雄
『レビ記』23:1~3 『使徒言行録』2:1~13 祈ります。 天の父、聖霊降臨日を覚えることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 聖霊降臨日を祝うとは、主の教会の誕生をお祝いすることです。それは、使徒言行録の伝えている聖霊降臨の出来事を、嬉しい喜びの思い出として記念するだけではありません。お祝いする今も、聖霊なる神を新しく受け止めて、神の御言葉を新しく宣べ伝え、新しく聴きとめることへと、聖霊なる神によって押し出されることなのです。 そうすると、毎週の礼拝でいつも聖霊降臨日を祝うことが行われているのだと気付くのです。そのことを、この聖霊降臨日に確認するのです。私達教会は、礼拝の度に、聖霊なる神を新しく受け止めて、福音を宣べ伝え、与えられた主の御言葉にお答えし、聖霊なる神によって押し出されるように礼拝の場からおくりだされるのです。 使徒言行録をルカ福音書は同じ人に書かれました。ルカ福音書が第一巻(使徒言行六1:1)と書かれています。この二つは、前編と後編の様になっています。二つで一まとまりです。この一まとまりを見る
6月6日
5月17日 「キリストのへりくだり」 伝道師 金井恭子
詩編53編1〜6節 フィリピの信徒への手紙2章1〜11節 「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心」という、既に受けている恵みに応答して生きるように、という勧めとともに、その土台となるのはキリストの十字架であることをパウロは示します。そして、彼は宣教のための一致を何度も呼びかけていますが、今日の聖書箇所でも再び、思いを一つにして一致するように呼びかけています。なぜ、このように繰り返し勧めるのか。それは、この時代にキリスト者になるということは、外部からの攻撃や迫害を受けることが多く、殉教の覚悟すら必要だったからでしょう。攻撃や迫害に屈することなく生きていくためには、教会内での一致が最も重要であったと考えられます。 パウロのフィリピの信徒たちへの手紙は、獄中で書いているにもかかわらず喜びと感謝に満ちた、深い親愛の情が溢れる内容です。フィリピの教会では、教会全体を揺るがすような大問題が起こっているという記事は見当たらず、むしろ、熱心さと奉仕において喜ばしい教会であったように見受けますが、どうやら微かな不協和音も存在
5月23日
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