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「殺してはならない」

2023年3月5日 主日礼拝説教(受難節第2主日)       
牧師  朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:1~12、13
新約聖書 マタイによる福音書5:21~26

                

第1週の主日礼拝では、十戒の教えを神の言葉として聴き続けています。本日は第6の戒め、「殺してはならない」です(出20:13)。

ところで、この第6戒に限らず、そもそも十戒の教えというのは、その一つ一つを見ますと、何か特別珍しい教えが謳われている、という風には必ずしも言えないのかもしれません。いつの時代、どこに生きていても、人間である以上、「そりゃ十戒の教え通りに生きるのが良いに決まっている」。そう思える内容のものばかりだと言えます。中でも特にそう思える代表的なものが、今日の第6の戒めだと言えるでしょう。「殺してはならない」。そんなことは分かっている。言われなくても当たり前ではないか。解説は必要ない。

確かに頷けます。特に殺すということは、人が一番してはならない最大の罪であって、私たちはこれに勝る罪はないと、言わば常識として理解しているのではないでしょうか。けれども、すぐに疑問や反論が起こるかもしれません。そんなに当たり前なら、ではなぜ、毎日のように殺人事件のニュースが後を絶たないのか。昨日も今日も今この瞬間にも、この日本で、世界で、否、すぐ身近なところで、悲惨な現実が続いている。

はたして、私たちはこうした現実を他人事のように突き放すことができるでしょうか。人を殺すというのは、例外的な人だけがするのであって、自分はこれまでもこれからも殺人とは無縁だ。だから今日の戒めは、特別な人だけが心して守るべきものだ…。しかし、もし私たちがそう考えて今日の教えを聞いてしまうなら、実はこの戒めを授けてくださった神の御心を、十分に知ったとは言えないでしょう。


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殺すとは、あらためてどういうことでしょうか。それは、人の命を奪うということです。あるいは誰かの存在を否定し、消し去ってしまうことです。要するに、「あんな人はいない方がいい。お前などいなくなれば」と思うことです。「思う」と申しました。そうです、聖書が意味する「殺す」とは、文字通りの身体的な意味に限らず、心の中で相手を否定してしまう時点で、既に人殺しなのです。

本日併せてお読みした新約聖書の言葉。主イエスはこう仰いました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:21~22)。

主イエスは、「殺してはならない」という第6の戒めをよくご存知でした。「殺すな、人を殺した者は裁きを受ける」ことの厳しさを仰います。けれども、では人を殺しさえしなければ裁きから免れるのか。そうではありません。むしろ主は、自分の兄弟に腹を立てて心で憎み、口で「ばか」とか「愚か者」と言ってしまうことも、人を殺すことと同じ裁きの報いを受けるのだと断言されるのです。

コロナ禍のためにここ数年お休みをしている、「ハイデルベルク信仰問答」の学びのことを思い起こします。その問105~107に、今日の第6の戒めについての問答が記されています。「殺してはならない」というこの短い一言のために三つの問いが重ねられ、この教えの奥行きを示しています。一部を省略しながら、ご紹介します。


 問105 第六戒で、神は何を望んでおられますか。

 答 わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。


 問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ語っているのではありませんか。

 答 神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。


 問107 しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか

 答 いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。


殺さないということは、ただ相手を殺さないでいる、ということではなく、その相手を生かすこと。それも積極的に生かすことだと教えられます。つまりその人を自分の隣人として愛し、敵にさえも善を行うということです。この関連で思い起こす一つの御言葉があります。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」(ヨハネ一3:15)。

ここでも、兄弟を憎むことが既に人殺しであることがはっきりと言われます。だから人を憎むなと。もし憎しみを抱いたまま生きるならば、それは憎まれる方も辛いけれど、憎み続ける方も実は苦しいに違いない。神の永遠の命の中で平安に生きているとは言えない姿だ。否、もしあなたが人を愛することを学ばなかったら、それは本当に生きていることにはならない。死んだも同然ではないか!

私たちは今日も主の祈りを祈りました。その中でこう祈ります。「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく」。しかしそう言った傍から、自分が全く人を赦しなどしないまま生きていたことが明らかにされ、恥や痛みを覚えずにはいられないのは私だけでしょうか。同じように私たちは誰もが、他人の人殺しの現実に対してとやかく言う資格などもつはずもなく、既に自分自身が、今日の第6の戒めの一つにも耐えられない存在であることに気づかされるのです。


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さて、「殺してはならない」と戒められなければならない現実は、もちろん私たちだけではありません。既に聖書の中にも描き出されています。人殺しと言えば、どの箇所を思い浮かべるでしょうか。その代表例は、やはり人類最初の殺人事件と言われる、あのカインとアベルの兄弟物語ではないでしょうか。

アダムとエバとの間に、この二人の兄弟がいました。ところが、兄のカインが弟のアベルを殺してしまう。なぜか。二人ともに神様に献げ物をしたにもかかわらず、どういうわけか、神は兄を顧みず、弟アベルの献げものを喜ばれた。そこで兄は弟にやきもちを焼いた。妬んだのです。神に恨みをぶつけるのではなく、弟に対して嫉妬を募らせたのです。

こうして、人類最初の人殺しが、家族に対する妬みに端を発して起こる。嫉妬のためにはたった一人の弟さえ殺すという悪しき思いが、心の中に入り込んで巣食ってしまう現実を、私たちは笑い飛ばすことができるでしょうか。そしてさらに聖書を読み進めていくと、この後、殺人に至る動機の一つが妬みならば、もう一つの動機として示されるのが、復讐心です。つまり仕返しです。

私たちは、もしも誰かに酷いことをされたら仕返しをしたくなります。別に教えられなくとも、子どもの時からそうでありましょう。しかもその仕返しをする時に、例えば兄に一回ひっぱたかれたら、二回ひっぱたき返すということをしなければ気が納まらない。これも残念ながら、私たち人間の性というものでありましょう。

だからこそ、聖書にはまた、「目には目を、歯には歯を」という教えがあります。一見すると、聖書も随分残酷なことを勧めるものだなぁという印象を持つかもしれません。しかしこれは本来、対等の報復しか許さない戒めなのです。目をやられたら、目だけをやり返せ。歯をやられたら、歯だけをやり返せ、といった具合に、限度を超える復讐を禁じるための教えなのです。

こうして、一つの仇に対して二つをもって報いる。二つをもって報いられた者はさらに三つをもって報いる。そのようにだんだんとエスカレートしていけば、結局行き着く先は、お互いを殺し合うという悲劇になることは容易に想像できます。ではいったい、私たちはどうしたら復讐心を抑えることができるのでしょうか。


私は昨年、FEBCというキリスト教放送局の番組で証しをさせて頂く機会がありました。リレー形式で何名もの牧師が繋いでいったのですけれども、その中に私の神学校時代の数年後輩にあたる先生もおられました。そして学生時代には知り得なかった彼の過去と、なぜ献身に至ったかについてのお話を、私は期せずして初めて伺うことになりました。

詳細は割愛いたしますけれども、不遇な家庭環境に育ち、決して裕福とはいえない生活だったと言います。しかしどうにかそこから抜け出すべく、必死に努力を積み重ねて、ついにある就職先を勝ち取ります。東京駅前に立つ丸ビルにオフィスを構えるIT企業です。これで自分の人生を取り返す。やっと幸せの光を掴むことができる。そう意気込んで我武者羅に働きました。それが社長の信頼を得ることにもなり、将来が見込まれる程でした。

ところがある時、同僚が犯したミスがなぜか彼のせいにされて、濡れ衣を着させられることになります。そのことで信用を失うことになったのです。当然怒りがこみ上げてくる。自分の失敗ならまだしも、犯してもいないミスの責任をどうして自分が負わなければならないのか。不条理だ。赦せない。仕返しをしてやろう。そう心に決めて、その週末は復讐心をメラメラと燃やしていたと言います。

しかしどういうわけか、そんな自分を次第にどこか情けなく思い、暴走する心にブレーキがかかり始めたと言います。そしてインターネット検索で次のような言葉を入れて調べたそうです。ずばり、「復讐心を収める方法」。色々出てきました。しかし検索上位に挙がった解決方法は、どれも彼を満足させるものではありませんでした。そしてさらに検索を続けると、ある一つの言葉が目に留まりました。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。

聖書の言葉でした。そしてこれが、彼にとって初めて出会った神の言葉でした。もしかしたら、これまでも聖書の言葉を耳にする機会はあったのかもしれません。しかし御言葉が真実をもって彼に迫り、時を得てその心を捕え、全くの方向転換に導くことになったのです。そして不思議と、自分の中から復讐の思いがスーッと抜け出ていったことを彼は証言しました。一歩間違えればどうなっていたか分からなかった彼が、しかし今は、牧師として豊かに用いられています。


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神のなさることは、時に適って実に不思議で、素晴らしいと思わずにはおられません。そして、彼が確かに聴き取った神の言葉は、あらためて次のような言葉でした。


愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12:19~21)。


最後にある、「善」をもって勝たなければならない「悪」とは、この場合、復讐心のことでしょう。では、この復讐心に打ち勝つ「善」とは何でしょうか。メラメラと込み上げる復讐心を必死に歯を食いしばって抑えようとする、自らの内なる善き力のことでしょうか。しかし、そうした自助努力を促す言葉には聞こえません。そうではなく、この善とは、自分のもっている善ではなく、キリスト自身の善き力に他なりません。この私を、燃え上がる復讐心の虜から解き放ち、しかも、復讐の相手を愛して受け入れられるようにまで導く、キリストの真の力なのです。

もう一度、聖書の言葉をよく聴いてみましょう。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。なぜそう言われるのでしょうか。「復讐はわたし(神ご自身)のすること、わたし(神)が報復」してくださるからです。

相手に復讐をしたいと思う時、大事なことは、自分自身の怒りに任せるのではなく、どうかそこで、愛する者たちよ、「神の怒りに任せなさい」とパウロは呼びかけます。神の怒りに任せる。それはきっと、私たち人間の怒りとは比べものにならない程の怒りに違いありません。真剣に考えようとするだけでも恐ろしく、たちまち死を予感させます。


けれども、ここでよく立ち止まってみたいのです。神の怒りとは、あらためて何だろうか。そしてそれは、誰に対する、どんな報いとなって実現するのでしょうか。もちろん単純に考えれば、その報いとは、まず私たちが復讐したいと思っているその相手に対してなされるものでありましょう。神が何らかの仕方で必ずその人を戒めてくださる。だから私たちもそこに委ねればいい。

けれども、はたしてそこに甘んじるだけで良いのだろうか。実は、神の怒りと復讐は、自分こそが正しいと思っているこの私にも、否、この私にこそ、向けられているのではないだろうか。ただし、もし神の怒りというものを、私たち人間の怒りの延長線上で考えてしまうならば、とんでもない誤解に陥るでしょう。

私たちが怒るのは、責められるべき非が相手にあるからであって、自分は決して間違っていない。明らかに自分は正しいという確信があるからです。変わるべきはあなたであり、私ではない。大袈裟に言えば、この自分の怒りは正義のためなのであって、まるで自分が神にでもなり代わったようにして相手の不義を叩こうとする時です。実はここに、既に私たちの隠された罪の姿があります。けれども、それで全てが本当に解決するのだろうか。それによって再び相手の復讐を買い、結局自らも自分の首を絞めることになる。堂々巡りの血の流し合いにはまるのがオチではないか。


でははたして、神の正義は、私たちの正義と同じなのでしょうか。私たちの正義は、どこまでもそれを刀のように振りかざすことで、相手を見事に論破し、裁こうとするでしょう。そして責任を問い、その代償を本人に払わせようとするに違いありません。しかし神の正義は、それと本当に同じなのだろうか。むしろ真逆であることを私たちは知るべきではないか。

なぜなら神は、その正義によって怒りを露わにされるのではなく、その怒りをご自身の内に向けることを決意されたからです。私たちを責めることでその代償を払わせようとされたのではなく、私たちを赦し、真に生かすために、本来この自分が負うべき罪の代価を、事もあろうに、我が愛する独り子イエス・キリストに負わせられたからです。それが、あのキリストの十字架の出来事に他なりませんでした。あの十字架上にこそ、神の正義が極まり、神の愛が決定的に満ち溢れたのです。


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私たちは今、受難節の日々を歩んでいます。いったいキリストの十字架によって映し出される私たちの姿とは何でしょうか。それは、神の子イエス・キリストの命が、いけにえとして献げられなければならなかった程にまで、私たちの罪が深刻であるということです。しかしまた、それ程にまで、否、それ以上に、私たちは深く赦され、そして互いに喜びの内に生きることを、神に強く願われているのだという真実です。

この、決して変わることのない、神の永遠の祝福と救いの御業が、私たちの気づかぬ内から始められ、今ここに集められている一人一人に約束されています。だから今日、キリストの十字架の向こう側から聞こえてくる神の御声に、もう一度耳を澄ませてみましょう。「殺してはならない」。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)。


<祈り>

天の父よ。あなたは今日、「殺してはならない」と教えてくださいました。あなたの願い、ご命令であり、そしてまた、私たちにそうさせまいとするあなたの固いご決意と御業が迫ってきます。この世界は、そのあなたの御心に反する姿になお満ちています。私たちの身の回りや私たち自身の内側を見てもそうです。どうか主よ、私たちの肉においても、心においても、人を打ち消さずにはおられない憎しみから解き放ってください。そして、もう人を否定などしなくても平安に生きていけるほどの恵みの中に、連れ戻してください。キリストが、そのために十字架にかかってくださった命懸けの愛の出来事を、微塵も軽んじることがありませんように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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