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「マラナ・タ!(主よ、来てください!)」

2023年12月10日 主日礼拝説教(降誕前第3主日)
牧師 朴大信    
旧約聖書 詩編31:24~25
新約聖書 コリントの信徒への手紙一16:13~24

             

ただ今、3名の方の転入会式を執り行いました。今回はお三方とも、他教団からの転入ということになります。「おや?」と思われるかもしれません。なぜなら今皆さんの中にも、かつて他の教会からこちらに移って来られた方が何人もいらっしゃる訳ですが、転入の度に、必ずしも今日のように転入会式を行って来たとは限らないからです。ある時は式を行い、ある場合は行わない。なぜでしょうか。

その基準は明らかです。同じ日本基督教団に属する教会から転入して来られる場合には転入会式を行わず、今日のように他教団から移って来られる場合には行うことになります。その要となるのは、「日本基督教団信仰告白」を受け入れるかどうかです。

今回、お三方は一つの教会から一つの教会に移ることになった訳ですが、それは同時に、その教会が属する教団も変わるという事実を伴います。もちろん、教団が変わるからと言って信仰の本質が変わる訳ではありません。世界の教会、代々の教会が基本信条としてほぼ共通に唱えている「使徒信条」があります。私たちも毎週の礼拝毎にこれを唱え、三位一体の神への信仰を告白する訳ですが、これは教団によって多少文言の違いはあるものの、その内容はほとんど一致しています。ですから、教団が変わっても信仰の本質までもが決定的に変わることはありません。

けれども日本基督教団には、この世界共通の使徒信条に先立って告白する独自の信仰告白というものが、その固有の歴史的において作られました。したがって他教団からのお三方には、今回の転入会を通じて初めて直接触れるこの教団信仰告白をぜひ理解して頂き、またこれをこれから私たちと共に受け入れて信じ、告白することを求めました。そして先ほど、お三方とも誠実に、神と会衆との前でその誓約を果たしてくださいました。


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では、「日本基督教団信仰告白」とはどのようなものでしょうか。私たちの教会は、また多くの教会もそうでありますが、毎週これを唱えている訳ではないので、馴染みの薄い方がほとんどでありましょう。週報の裏面には毎回記載されていますが、実際に声に出して告白するのは年に数回程度です。ですから、今日転入会されるお三方だけでなく、ぜひ私たち共に、今一度この教団信仰告白の大切さを受け取りたいと願うのです。

多くは語れません。しかしその大切な要点を幾つか挙げるなら、まず使徒信条が「我は~信ず」と始まるのに対して、教団信仰告白は「我らは信じかつ告白す」という言葉から始まります。要するに、「我」という個の信仰に先立って、「我ら」という教会共同体の信仰が強調されるのです。あるいは、「私」という一人の存在を本当に支えているのは、実は「私たち」と呼ぶべき神の家族、また主にある兄弟姉妹たちであることをここで暗示しているのです。

転入会にせよ、あるいは洗礼や信仰告白(堅信礼)にせよ、そのことによって教会のメンバーに新しく加わるということは、既に他の皆が信じている信仰の内容に同意するということに外なりません。逆に申せば、自分の個人的な信仰を貫くことではないのです。あくまでも、「我らは信じかつ告白す」という共同体の信仰告白を、自らの信仰告白として受け入れ、共に神の御前に告白する、ということなのです。

では私たちは、いったい何を「信じ、告白す」るのでしょうか。以下にこう続きます。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り…」。つまり、私たちが手にしている旧約・新約聖書は、神の聖霊の導きによってできあがった、というのです。これが、私たちの教会(日本基督教団)が信じている信仰告白の最初の部分です。まず初めに来るのは、聖書とはこういうものだ、ということです。

聖書とは何か。確かにそれは、一方では人間の手によって書かれたものです。しかし神によって書かれたものでもある。あるいは、聖書は確かに人の言葉ではあるけれども、また神の言葉でもある、と言い換えることができるでしょう。このことはさらに、私が毎週、聖書に基づいてこの講壇から語らせて頂く説教の言葉もまた、神の言葉である、ということに通じます。皆さんは礼拝毎に牧師の話を聞きながら、しかしそこで本当に聴き取っているのは、また聴き取るべきは、神の言葉に外なりません。神が、人の口と言葉を通して自ら語りかけ、皆さん一人一人に向けて響かせようとする神の言葉、であります。

しかしそうは言っても、聖書をよく読みますと、人間的な事柄もたくさん出て来ます。例えばパウロの手紙。まさに今日が最後となりましたコリントの信徒への手紙一。手紙ですから、最後は挨拶の言葉が並びます。誰々によろしくとか、誰々をこちらからそちらに遣わすとか、このような類は、極めて個別の内容のように思えます。これを神の言葉と言えるのだろうか。

あるいはそうでなくとも、この手紙にはこれまでコリントの教会で起こっている様々な問題が、次々と赤裸々に指摘されて来ました。パウロの厳しい言葉が随分と続きました。まさかコリントの教会の人々は、自分たちの恥ずべき教会の姿が後に聖書に記される等とは思ってもみなかったでしょう。当のパウロも、よもや自分の言葉が聖書の一部になるとは想定すらしていなかったはずです。にもかかわらず、なぜこれら人間の事柄や言葉が、神の言葉として読まれることが可能なのでしょうか。


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そこでようやく、この手紙の最後を締めくくる「結びの言葉」、特に終わりの一段落に注目します。「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」(21節)。

パウロの手紙の特徴は、これまでも折に触れてご紹介したように、書記の専門家に口述筆記させていることです。パウロが口で語った言葉を文字に書き起こす。この手紙もそのようにして書かれたと考えられる訳ですが、とうとう最後に来て、手紙を結ぶ言葉は、私パウロが直接筆を執って書きます、と断りを入れるのです。そうすることで、この手紙がパウロの責任に帰すものであることを示そうとしたのでしょう。しかしまた、彼が責任をもって書くということは、むしろそこに最後の心血を注ぎ込んで、いわば命を懸けるようにして書き綴っていく。あるいは愛を注ぎ尽くして本気の言葉を届ける。そんなパウロの気迫さえ伝わって来るようです。

そう述べながら、続く22節の言葉に目を留めます。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」。実に驚くばかりの、大変厳しい言葉です。口語訳では「のろわれよ」とまで訳された言葉です。いったいどうしてこのような言葉が、手紙の結びの挨拶に含まれるのでしょうか。ましてや、この言葉がどのようにして神の言葉に聞こえてくるのでしょうか。それは、まさにこれがコリントの人々に対して向けられた言葉でありながら、しかしまた、生ける神を前にした時にこそ初めて出て来る言葉だったからではないでしょうか。

振り返ってみますと、私たちの聖餐式において毎回朗読される聖餐制定の言葉を、ここで思い起こすことができます。それはまさに、この手紙に記されていた次の言葉です。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(27~29節)。

「ふさわしくないままで主のパンを食べたり…する者」、また「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者」が、ここでもはっきり、厳しく裁かれます。そういう者たちは主に対して「罪を犯」しているのであり、必ず「自分自身に対する裁き」、つまりしっぺ返しを食らってその代償を自分で払うことになる。裁かれて当然、と言うのです。

では逆に、主に対する「ふさわしさ」とか「わきまえ」とは何でしょうか。聖餐において、例えば服装を綺麗にしたり、作法を丁寧にしたり、言葉を整えたり、といったことでしょうか。もちろん、そのことも大切です。しかしそれ以上に大切なのは、まさに22節で端的に言われているように、「主を愛する」ことなのです。

けれどもコリントの兄弟姉妹たちよ、あなたたちは主を信じ、主を愛していると言いながら、教会の仲間たちを愛しているだろうか。その日の労働のために聖餐に遅れて来る身分の者たちを待たずして、自分たちで先に勝手に飲み食いする者たちよ。あるいは、偶像に供えられた肉を食べることに躊躇している者たちを見下して、彼らの目の前で平気でそれを食べ誇っている者たちよ。そのように、主が結び合わせてくださった兄弟姉妹たちを蔑ろにし、除け者にし、愛もくれないその姿は、結局、主のことも愛していないことになるのだ。主に対する愛を捨てた者は、神から見捨てられるということを受け入れるより外はないではないか。


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「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」。

パウロはおそらく、自分は嫌われてもいい覚悟でこれを書いたのではないかと思います。たとえ教会の中の反対者たちが自分を嫌おうと、自分と違った考えを持っていようと、またそれ故に他に好きな指導者(アポロ等)を押し立てて派閥を作ろうと、そのことで彼らを教会から排除しようとも思っていなかったはずです。しかし、もしも主を愛さない者がいたら、それだけは許さない。神から見離されるがいい! 「マラナ・タ」と一緒に言うことができなくなるからです。

「マラナ・タ(主よ、来てください)」(22節)。私たちの主よ、どうか今ここに来てください。そう願う、祈りの言葉です。聖餐において、これを願わない聖餐があるでしょうか。主を愛する心を欠いたままの聖餐、主を抜きにした聖餐は、もはや聖餐としては成り立たないでしょう。私たちはこのお方の体を頂き、血を頂くのです。聖餐の何よりも大切なことは、この主なるお方との生きた交わりに、自らも新しく生かされるということに外なりません。だから、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と共に祈るのです。

この「マラナ・タ」という言葉は、アラム語の発音のままここに記されています。アラム語は、主イエスが日常的に用いておられた言葉です。「アバ(私の父よ)」・「アーメン」と並んで、この「マラナ・タ」もパウロは原語のまま用い、かつ今日の私たちの所にまでそのまま届けられているということは、この言葉の持つ強さと大切さが示されます。

それだけに、パウロはこの「マラナ・タ」という信仰の言葉を、たとえ離れていても、否、離れているからこそ、コリントの教会の仲間たちと一緒に唱えたかったに違いありません。だからこそ、この合言葉を共にできない者たち、つまりは、「主を愛さない者」は、「神から見捨てられるがいい」と言わざるを得なかった。神の御心に照らして、使徒としてはどうしてもそこまで言わざるを得ない。しかしそこに込められるパウロの本心は、戒めや呪いではあり得ません。神に見捨てられることなく、共に聖餐の命に与り続けることができる愛の共同体への招きなのです。その恵みを知る者でなければ記すことのできない、これ以上ない程の、勇気ある愛の言葉です。


その愛を全て注ぎ込むようにして、彼は最後の言葉を綴ります。「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(23節)。主の恵みを最後に祈ることは珍しいことではないでしょう。恵みというのは、信仰者ならいつでも口にする愛用の言葉とさえ言えます。ただそのように重ね重ね用いている内に、いつしか、その本当の意味が分からなくなってしまうことがあるかもしれません。恵みとは、ただ神さまのご好意であって、いつでも自分を喜ばせ、満足させてくれるもの、ということのように思い込んではいないでしょうか。

ある人がこう言いました。「主の恵みは、神が、イエスにおいて、殊にその生涯の核心である十字架と復活において、全く心よりしてくださったことを指す」と。恵みとは、そういう特別な出来事から出ていると言うのです。キリストが私たちのために十字架にかかり、甦ってくださった。その事実によって私たちは無条件に罪赦されて、神さまの愛の中を共に生きることができるようなった、まさにそのことの内に見られる恵みであります。

ですから、恵みを思い、恵みを祈る度に、私たちは主の十字架の死と復活を見上げなければ、恵みは恵みとしての本来の力を持たなくなってしまいます。恵みを、私たち人間の願望や経験から求めてしまうと、神の御心を見失ってしまうのです。だからこそパウロは、そうした特別な思いを込めながら、この「主イエスの恵み」という言葉をコリントの教会の人々に贈ったに違いありません。あなたがたの命が、どこまでも主の恵みで満たされますように!


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最後に、もう一節続きます。「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(24節)。

パウロは最後の最後に、自分の愛も重ねて挨拶の言葉とします。23節の主の恵みを願う所で終わっても十分だったかもしれません。それなのに、なぜパウロ自身の愛を加えたのでしょうか。

教会の問題を巡って厳しい言葉を受けて来たコリントの人々は、心が刺さるような痛みを覚えただけに、やはりパウロの愛の言葉を求めていたと思います。パウロもその必要をよく知っていたでしょうし、できる限りの愛を伝えたいと願っていたに違いありません。彼自身も愛を求め、愛に生きたいと願っているのです。

しかし彼は、自分の愛の貧しさも同時に知っていたことでしょう。とても主イエスの愛には及ばない。自分の愛は、主の恵みによって清められなければいつでも偽善に陥る儚いものであることをよく弁えていたはずです。だからこそ「わたしの愛が、キリスト・イエスによって」と言わなければならなかったのです。私の愛は、どこまでもキリストの愛に支えられてこそ、本物になると。


私も、このパウロの姿に倣って、愛の言葉を贈りたいと思います。私はこの教会の牧師として、御言葉のご奉仕をさせて頂きながら、皆さんの歩みに寄り添う隣人でありたいと願っています。共に歳を重ね、老いを重ねていきたいと願っています。だんだん朽ちてゆくこの弱き肉の体を憂いながら、そしてやがて迎える死に対する言いようもない恐れや戸惑いを共に分かち合いながら、しかしそれでも、私たちを最後まで見捨てることなく助け、勝利し給う主を見上げて、共に「マラナ・タ!(主よ、今ここに来てください!)」と祈り上げたいのです。叫び続けたいのです。

嘆くべき現実は今この世界中に溢れています。主イエスが生まれ、宣教活動をされたイスラエル・パレスチナの聖なる地が、どうして血を流し合う戦場と化してしまったのか。主よ、どうかかの地にも来てください。クリスマスにインマヌエルの主として来られたあなたが、再び終わりの日にこの地に来てくださると約束してくださったのですから。

今日、転入会式でご一緒に唱えました「日本基督教団信仰告白」。その後半からは使徒信条が続きますが、そこに向かう最後の言葉に、次のような告白があります。「(教会は)主の再び来りたまふを待ち望む」。まさにここでも、私たちは共に「マラナ・タ」と祈るのです。


「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」(15:24~28)。


<祈り>

 天の父よ。「マラナ・タ!」。主を待ち望むこのアドヴェントの時、誠に相応しい信仰の言葉が与えられました。この世の罪深き、暗い現実が、私たちの絶望を深めます。深まる闇の中で私たちはさ迷い、辿るべき道を誤り、御心が分からなくなります。あなたの希望が見えなくなります。主よ、どうか今ここに来てください。たとえこの祈りを自分一人ではできない時であっても、共に祈る仲間が与えられています。今日、あなたがこの群れに3名の兄弟姉妹たちを新たに加えてくださった祝福を、心より感謝いたします。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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