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8月23日 「福音が始まる」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:3-11 マルコによる福音書1:1-11 私たちが4月から共に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙は、先週の主日礼拝で最後となりました。その中で、「教会はキリストの体であり、私たちは主にあって一つとされる共同体である」ということを聞いてまいりました。「では、そのキリストとはどのようなお方で、そのお方に従って歩むとはどういうことなのか」ということを、本日からマルコによる福音書から聞いてまいりたいと思います。 新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。マルコによる福音書は、その四つの福音書の中で一番最初に書かれたものと考えられています。マタイとルカはそれぞれがマルコの記述を補うなど手を加えたものだとされています。そして、ヨハネもまたマルコの存在を知っていたと推測されます。 マルコとは一体どういう人物だったのか。 伝承によれば、彼は十二弟子の一人であるペトロの伝道旅行に同行していた人物だと言われています。ペトロの手紙一の5章13節には「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言
1 日前
8月16日 「満たしてくださる神」 伝道師 金井恭子
歴代誌上29:10-13 フィリピの信徒への手紙4:15-23 4月からご一緒に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙も、今日で最後となりました。先週読みました4章10節以下から、パウロはフィリピの信徒たちが自分のために送ってくれた贈り物について語っています。けれども、パウロがここで目を向けているのは、贈り物そのものではありません。14節でパウロは「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言います。彼が喜んでいるのは、そこに表されたフィリピの信徒たちの姿です。同じキリストに結ばれ、同じ福音に生き、獄中にあるパウロの苦しみを覚え、その働きを共に担ってくれる兄弟姉妹の姿を「主において」喜んだのでした。 ところが、12節では「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言います。パウロはなぜこのような、この世的には失礼ともとれる言い方をしたのでしょうか。これは、支援を軽んじているわけでも「別に自分は困っていない」という強がりでもありません。神との関係に生きる人生を与えられた自分は、貧しくても豊かでも、そ
8月17日
8月9日 「貧しくても、豊かでも」 伝道師 金井恭子
箴言30章7-9節 フィリピの信徒への手紙4章10-14節 「満たされた人生」と聞くと、どのような人生を思い浮かべるでしょうか。 私たちは、経済的に豊かで健康も与えられ、家族も仕事も順調で大きな心配事がない生活を願います。それはごく自然なことと言えるでしょう。貧しさや破綻した生活を避けて生きていきたいと願いますし、そのために努力もします。しかし、人生は私たちが願う通りに進むわけではありません。満たされる時もあるでしょうけれども、突然持っていたものを失ってしまったり、試練を与えれることがあります。 仕事も失い健康も害し、今日食べるものにも事欠く……そのような中で生きなければならない苦しみは並大抵のものではないでしょう。また、経済的に十分豊かであっても、誰かと比べれば足りない、お金と資産を失うことを恐れたり、お金で買えないものの不足に悩んで心騒がせたりすることもあるでしょう。私たち人間は持っているものだけでは、なかなか満たされないところがあります。 先ほどお読みしました箴言30章8−9節には「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしたちのために
8月14日
8月2日 「寒く凍えているペトロ」 牧師 伊藤節雄
『ヨブ記』37:6~13 『ヨハネ福音書』18:15~18,25~27 祈ります。 天の父、ペトロが三度主イエスを知らないと答えたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 捕らえられてしまった主イエスは、元大祭司アンナスの屋敷に連れて行かれました。この後、総督ピラトの所へ連れて行かれます。そして死刑の判決をお受けになる。判決の通り十字架につけられ、息を引き取られ死を迎えます。墓に葬られ、三日目に復活される。 十字架を中心にして、主の復活前までの期間を受難の期間と言えます。福音書が丁寧に書き記して、主の受難に込められた喜びの知らせを何としても伝えたいという強い願いを込めたのです。 主のご受難を丁寧に書き記したと申しました。どの位丁寧に、とお思いですか。勿論、そこに伝えたいと願われている救いの重さを考えれば、ページの多さや文字の多さでは、測りきれません。しかし、福音書の願いの強さが自然にページの多さや文字の多さにあらわれています。ヨハネ福音書の1章から12章迄右手で挟むようにして持ってみて下さい。13章から19章迄
8月14日


デイキャンプ2026開催しました!
2026年8月1日、毎年恒例、夏のデイキャンプを開催しました。 9時から19時まで、松本東教会には子どもと大人の楽しい歌声と笑い声があふれました。 来年も、新たなお友だちを交えて、一緒に過ごせることを心待ちにしています! 【プログラム内容】 開会礼拝 川遊び・スイカ割り@薄川 昼食 工作(手形、イエス様のイラスト、みことばを含めた作品づくり) 賛美 おやつ 自由時間(教会別館では卓球も盛り上がりました) カレー作り・夕食 花火 花火、、川遊び、スイカ割りなど、たくさん楽しみました(プライバシー保護のため写真は加工しています) 賛美タイム♪ すてきな作品ができました!
8月3日
7月26日 「人知を超える神の平和」 伝道師 金井恭子
イザヤ書26:3-4 フィリピの信徒への手紙4:2-9 パウロは二人の女性の名前を挙げてこう言います。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と。 この二人の間に、何らかの不一致があったようです。考え方の違いであったのか、働き方をめぐる意見の対立であったのか、詳しい原因は分かりません。しかし、パウロが二人の名前を知っており、遠く離れた獄中からこのことを書いているのですから、この二人の関係は、教会にとって見過ごすことのできないものとなっていたのでしょう。 当時、キリスト者として生き、福音を宣べ伝えることには、さまざまな困難が伴いました。パウロ自身が今、キリストの福音を宣教したことによって投獄されていることからも、そのことはわかります。ですから、彼が「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」と語るほど、エボディアとシンティケという二人の女性は、福音のために労苦を共にしてくれた、大切な同労者だったのです。そのような二人の間の不協和音を放置すれば、やがて教会の交わり全体を傷つけることにもなりかねないと、
7月29日
7月19日 「天を仰いで、地を歩く」 伝道師 金井恭子
ダニエル書3:13-18 フィリピの信徒への手紙3:17-4:1 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」。 キリストを宣べ伝えることによって投獄され、命の危険にさらされても尚、喜びと確信をもって信仰に生きるパウロは、かつて伝道し教会を建てたフィリピの信徒たちに、このように呼びかけます。 前回ご一緒に読みました16節までの御言葉を思い起こしますと、ここで少し違和感を覚えるかもしれません。パウロは、割礼を受け、律法を厳格に守っている自分こそ完全な者であると主張する人々を「あの犬ども」と呼び、厳しく警戒するように促しました。そして、自分自身については、まだ完全な者となったとは思っていない、すでに目標に到達したとは思っていない、と語っていたはずです。それなのに、ここでは「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言います。何と傲慢なことを言うのだろうか、と思われるかもしれません。 しかしパウロは、自分自身を完全な者と見て自分のような人間になり
7月24日


7月12日「目標を目指して」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:28-31 フィリピの信徒への手紙3:12-16 「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」 広くキリストの福音を宣べ伝え、教会を建て、キリストのためならば死ぬことも喜ぶ生き方をしたパウロでさえ、「完全な者ではない」と言います。「何とか捕らえようと努めている」とは、いったい何を捕らえようとしているのでしょうか。パウロが捕らえようとしているもの、それは一言で言うなら「キリストご自身を知り、深く結ばれること」と言うことができるでしょう。しかし、パウロは13節で「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」と言います。 原文のギリシャ語の動詞には主語が含まれるのに、ここでは敢えて「わたし自身は」と主語を強調しているのは、意味深です。彼ほど豊かに主に用いられてきた人が、自分が完全ではないことを、ことさらに強調するのはなぜか。当時の教会には、人間の努力や宗教的な実績を誇る人々や「自分はもう十分に成熟した信仰者である」と考える人々がいたのでしょう。おそらく
7月18日
7月5日 「誰も退けない福音」 牧師 伊藤節雄
『申命記』25:1 『ヨハネ福音書』18:12~14,19~24 祈ります。 天の父、公然と福音を語ったと言われ、何故私を打つのかと抗議されたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスを捕らえた一行は、先ず、アンナスのところへ連れて行ったのです(13節)。この時ユダヤの大祭司はカイアファでした。その大祭司の所へ連れて行くのが自然だと思われますが、一行はカイアファの舅の前に連れてきたのです。義理の父親アンナスのところでした。 目の前に連れて来られた主イエスに、このアンナスが尋問します。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねたのです(19節)。大祭司とありますが、正確には元大祭司です。しかし辞めてもなお大きな権力を持っていました。それで、今の大祭司を抑えるようにして先に主イエスを尋問し、裁判の時としているのです。尋問は、弟子は誰で何人いるのか、教えはどんな教えなのか、ということでした。大祭司は尋ねたとありますが、これは単なる質問ではありません。「尋問した」との訳もありますが、それも不十分です。これは、
7月6日
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