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12月7日 「十字架の救いの発端にユダ」
『イザヤ書』53:8~10 『ヨハネ福音書』13:21~30 祈ります。 天の父、主の弟子にユダが居たこと、ユダのとった行いの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 先ず、一つ質問しておきます。イスカリオテのユダをめぐる御言葉を今読みました。その中で主イエスのお気持ちがどんなお気持ちだったのか、想像してみて下さい。 主のお気持ちを直接表すみ言葉は余り多くはありません。勿論あるにはあります。ある安息日、会堂に手の不自由な方が礼拝をささげる人の中にいました。訴える口実を見つけようと様子を窺う者がいました。そこで主が問い掛けます。「 安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか。 」誰も答えない 。そこで、イエスは 怒って 人々を見回し、頑なな心を 悲しまれた 」のです(マルコ3:4~5) ゲッセマネでは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスの悲しみの声を生々しくその耳で聞きます。 彼等に言われた。「私は死ぬばかりに 悲しい 。ここを離れず、目を覚ましていなさい 。」(マルコ14:34)。...
1 日前
11月30日「洗足の拠りどころ」
『イザヤ書』53:1~5 『ヨハネ福音書』13:12~20 祈ります。 天の父、足を洗うことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。 弟子達はこの主の命令の言葉に戸惑いました。互いに足を洗うことはいつも行っていたからです。弟子の仲間には、足を洗う僕がいなかったから、お互いに足を洗い合っていたのです。但し、主イエスの足はいつも弟子達が洗っていました。 その様な時に今回だけは何と主イエスが弟子達の足を洗われたのです。弟子達は驚いたことでしょう。驚いたのはペトロの反応でよく分かります。 「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。 」(13:6)あなたが、という呼び掛けの言葉が強調されています。「思いもしなかったことです、まさかあなたが」洗って下さるのですか、と言っているのです。今迄にも主イエスが弟子達の足を洗われた事があれば、ペトロがこの様に反応すること
1 日前
11月16日 「主キリストが足を洗って下さる」
『イザヤ書』53:1~5 『ヨハネ福音書』13:1~11 祈ります。 天の父、主が足を洗い拭き取られた御業の意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスが弟子達の足をお洗いになったことを告げています。足を洗われた、と書いてせんぞくと呼びます。聖書の中に「洗足」という言葉がある訳ではありません。その点は「洗礼」や「聖餐」とは違っています。 主の洗足について先ず目を引くのが主イエスの主イエスの動作、振る舞いが事細かに告げられていることです。席から立ち上がられた。上着をお脱ぎになる。手拭いを腰にまとわれる。たらいに水をおくみになる。自分達弟子の足を洗われる。手拭いでお拭き下さる。何故これ程事細かく告げているのでしょうか。 その頃ユダヤでは、特に食事の前に来客の足を洗う習慣がありました。奴隷の働きでした。僕(しもべ)と言ってもいいでしょう。 主イエスのこの時の動作、振る舞いが全部事細かに告げられている、それは主がこのみ業を手抜きされずになさったことを示しています。あることを人任せになさらなかったことを示しています。僕の
11月27日
11月9日 「ヨハネによる主キリストのまとめ」
『申命記』11:26 『ヨハネ福音書』12:44~50 この44節から50節までは今迄主がお語りになったり、御業をなさったりしたことをまとめて説明されているところです。 後で引用するマルコ福音書の言葉を使うと、主の宣教の要約と言ってもいい。13章からは、主の十字架を集中的に伝えたいという事から、その直前に、今迄の主のみ言葉と御業をまとめておこうとしたと受け取りましょう。何事でも、正しく、正確に理解するためによく使う方法が、全体の要約・まとめをしてみることです。聖書を読む時、この要約してみる、あるいはまとめてみるというのはとても役立つと思えます。中心になる言葉、大切な言葉を見つけて、主の福音を深く豊かに理解できるからです。 ① 主イエスを信じることは、神を信じる事。 ② 主を見ることは神を見る事。 ③ 主が来られたのは、信じる者が、闇から解放されるため。 ④ 主は裁くためではなく、世を救うためにこられた。 ⑤ 不信仰の裁きは終わりの日に来る事。 ⑥ 主の言葉は神の言葉。 ⑦ 主の言葉は永遠の命。
11月13日
11月2日 「預言者の悲しみと希望」
『イザヤ書』6:8~10 『ヨハネ福音書』12:36~43 祈ります。 天の父、光のあるうちに歩きなさいとの主の言葉の意味をお教え下さい。イザヤの預言の伝えようとしていることを聴き取ることが出来ます様に。 主の御名によって祈ります、アーメン。 イエスは、立ち去って彼らから身を隠された 。もう過ぎ越し祭目前です。これから、弟子の足を洗われた洗足の出来事、最後の晩餐、ユダの裏切りの予告、ペトロの3回も主を知らないというとの予告、と続きます。そして、十字架の時が来たことを確かにお覚えになります。17章1節はこう告げています。「 父よ、 時が来ました 。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光をお与え下さい。 」 今迄も主はよく退かれ、人々 から身を隠され ましたね。以前に五千人の人に食事をお与えになったことがあります。その時皆が主を王にしようとしました。すると、 それを避けて、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りで又山に退かれた のです(ヨハネ6:15)。「又」とあります。今また、祈るために 退かれた
11月13日
10月26日 墓前礼拝説教 「走り抜く競争」
『創世記』22:2,9~12 『ヘブライ人への手紙』12:1~7 おびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。 そこにある墓碑には天に召された方達のお名前が刻まれています。そのお名前の方はあなたにとって、どういうお方でしたか。そこに名前を刻まれた方は、 優しい方でしたか、厳格な方でしたか。 どの様にあなたを守り、支えてくれましたか。 愉快で、よく笑わせて下さった方でしょうか。 物静かで、落ち着いておられた方でしたか。 怒ると恐いお方でしたでしょうか。 本が好きで、本が友達のような方でしたか。 絵が好きでよく美術館に行き、ラファエロがいい、とおっしゃるような方でしたか。 歌が好きでその唇からいつも歌が流れていましたか、時に大声で、時に鼻歌で。 いつも何かしら仕事を見つけて働くお方でしたか。 変わった趣味、又、多くの趣味があってそれを楽しむお方でしたか。 疲れた、喉が渇いた、嬉しい、悲しいとわざわざ理由をつけてビールを飲む方でしたか。 いつも
11月13日


11月8日(土)Joyfulコンサート
松本東教会教会員有志によるコンサートです。伊藤牧師もリコーダー演奏や合奏でも参加されます!皆さんぜひご参加ください。申し込みは不要、入場無料です。
11月2日
10月26日 「十字架を目前にしての主の祈り」
『レビ記』9:1~6 『ヨハネ福音書』12:27~36 祈ります。 天の父、私達の救い主が、私をこの時から救って下さいと祈られたこと、私はこの時のために来ましたと祈られたことの意味を教えて下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 ある時弟子達は、私達にも祈りを教えて下さいと願い出ました。祈りは自然に捧げられるようになるとも言えますが、反対にどういう風に祈るのか分からないという事も言えます。特に人の前で祈るという時、祈りを捧げるお相手の主なる神のことよりも、回りにいる人のことが気になるというのはよくあることです。しかし、祈りは救いを受けた者のなす呼吸みたいなものです。息は吸ってそして吐く、似ていて神のみ言葉を聴いて、それに応えることです。神の御心を知らされて、そのみ心に従います、と言って応えることです。御心に従える者として下さいと願うことです。 弟子達の願いに基づいて教えられたのが主の祈りです。礼拝毎に教会の祈りとして捧げています。今日はそれと様子の違う主の祈りを聖書は伝えています。 「 今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私を
11月1日
10月19日 礼拝説教「福音は世界に向かう」
『詩編』47:1~5 『ヨハネ福音書』12:20~26 祈ります。 天の父なる神様。主のもとにギリシャ人が訪れたこと、一粒の麦の譬の意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 ギリシャの方を友達にお持ちの方はいますか。私は機会に恵まれて、今迄に、グリーンランド、チュニジア、ペルー、ウクライナ、イスラエルその他色々の国の方と出会うことがありました。しかし残念なことに、ギリシャの方とお会いする機会は未だありません。 ギリシャ人がと呼ばれる方達が、登場します。 さて、祭りの時礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。彼らは、ガリラヤのベツサイダ出身のフィリポの許へ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 新約聖書の伝える ギリシャ人 は今のギリシャの国の人だけではありません。新約時代のユダヤの人は、ユダヤ人以外の人のことをギリシャ人と呼んでいました。異邦人という呼び方もありました。北からの人も西からの人も、遠くから来た人も、ユダヤ人以外の人はギリシャ人と呼んでいたのです。
10月23日
10月12日 礼拝説教 「ロバに乗られる主イエス」
『ゼカリア書』9:9 『ヨハネ福音書』12:12~19 祈ります。 天の父なる神様。ホサナと祈ったこと、主がロバにお乗りになったことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 詩編20編10節を引用します。予め開いて読んでおきます。 「エルサレム入城」と言われているところです。これを記念する主の日を「棕櫚の主日」と呼びます。一週間後の日曜が「復活祭」になるのです。この間に「洗足の木曜日」があり十字架の日「受難日」があるのです。救い主としての主のご生涯が、この一週間の中にぎゅーっと詰めこられているのです。丸い円の中心のようなものです。この中心と関わらない主の御業はない。十字架と復活と関わらない主の教えはない。「山の上の説教」も「放蕩息子の譬」もこの中心と結び付けて聴くのです。神の用意して下さった一週間なので、「聖なる週」と呼ぶのです。 この一週間は、私達にはあまり馴染みのない群衆の出迎えで始まります。 群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、ナツメヤシの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名に
10月23日
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