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4月5日 「復活の主イエス」
『詩編』118:22~29 『コリント信徒への手紙』15:1~9 祈ります。 天の父、御子が復活を与えられたことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 パウロという伝道者は大変頭の良い人でした。若い時からとても熱心に学問に励みました。その頃ガマリエルという名の非常に優れたユダヤ教の学者がいました。ユダヤの議会の議員でもある律法学者です。そのガマリエルの下で聖書の勉学にいそしんだのです。パウロ自身がこう言っています、 この都で育ち、ガマリエルの下で先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じ様に熱心に神に仕えていました (使徒22:3)。そういう点からすればパウロは自分の優秀さを拠り所にし、学問教養を誇りにすれば幾らでも出来たのです。 そのパウロが、主キリストとの出会いが与えられて、その主キリストの救いを受けるということになった。パウロには予想もしなかった大きな人生の転換でした。しかもその上、主キリストを宣べ伝えて、伝道していく伝道者として召され立てられていくことになるのです。昔、エレミヤが預言者とされ
3 日前
3月29日「彼らを守って下さいと祈る主イエス」
『詩編』17:6~9 『ヨハネ福音書』17:6~19 祈ります。 天の父、彼等を守って下さいとの主の祈りの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスは十字架に向かおうとしています。私達が今日、受難週に向かうのと同じです。木曜日には洗足聖餐式、金曜日には受難日祈禱会をして主の受難に向かいます。時間の差、場所の違いこそあれ、今私達は、最後の晩餐を受けている弟子達ととてもよく似ています。 では、十字架に向かわれる主のお心を満たしているのはどんなことでしょうか。御自分のことで精一杯でしょうか。他の人のことを考えたり思い遣ったり出来ないことを自分のことで一杯一杯、等といいます。私達にはよくあることです。しかし、十字架に向かわれる時、主のお心は、ご自分のことで一杯一杯でいらしたでしょうか。 今日読みました聖書箇所で一番多く主がおっしゃったのはどんな言葉でしょうか。そこに主のお心があったことが分かります。14節の中で、何と24回も言われています。第11節には3回も言われています。 私は最早世にはいません。 彼らは...
3 日前
3月22日「永遠の命を与える主イエス」
『詩編』121:1~6 『ヨハネ福音書』17:1~5 祈ります。 天の父、あなたを知り、主イエス・キリストを知ることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光をお与え下さい。 天を仰がれる主がいます。 天を仰ぐという時、日本語では、「嘆く、絶望する」ことを表します。「絶好のチャンスを逸して天を仰ぐ」などと使います。しかし、この時天を仰がれる主のお気持ちは、「嘆く、絶望する」こととはまるで違います。 天は神がおられるところを表します。弟子達の求めに応じるように教えられた祈りの教えがあります。主が、祈りの模範として弟子達にお教えになったものです。主の祈りと言われて、礼拝毎に捧げています。祈りを捧げ、届ける方をどの様に呼び掛けると教えて下さいましたか。「 天に居られる私達の父よ 」と教えられたのです(マタイ6:9)。 天という所に神が住んでおられるという意味ではありません。天も大空も神が創造されたものです。天地万物をお造
3月28日
3月15日 「勝利の主イエス」
『詩編』23:1~4 『ヨハネ福音書』16:25~33 祈ります。 天の父、 私を一人きりにする時が来る。いや、既にきている との御言葉の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスの御言葉を覚えることは大事です。お別れの説教を聴きつつも、弟子達は主の御言葉の意味が分からず、 何のことだろう。何を話しておられるのか分からない 、(16:18)と言い合う程に分からないでいるのです。特に主が予告された時には、想像も出来ないほどに、分からないでいるのです。しかしその主の御言葉が自分の身に起きてみると、その意味が分かるようになるのです。いざ実現し本当に予告された通りになった時、主が予告されたことの意味が分かるのです。自分達の救いと深く結び付いていた教えの御言葉であり、信仰へと導く予告の御言葉であったのだと分かるのです。今、意味が分からなくても、主イエスの御言葉を覚えることは大事です。 ペトロの経験からそれを聴いてみましょう。主イエスが捕らわれて裁判にかけられる時、見つからないようにこっそりと裁判の庭に行きました。しか
3月18日
3月8日 「悲しみから喜びへ」
『エレミヤ書』22:10~12 『ヨハネ福音書』16:16~24 祈ります。 天の父、悲しみが喜びに変わるということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 「 しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。 」弟子達は、この主の御言葉が何を伝えているのか分かりませんでした。それで 弟子達は、何のことだろう、と互いに言った のです。主の御言葉の意味が分からないので、顔を見合わすようにして 何のことだろう、と互いに 質問しあったのです。弟子達は、誰も答えられませんでした。 旧約時代、砂漠であるものを見て、イスラエルの皆が「 これは一体何だろう 」と互いに質問し合ったことがありました(出エジプト16:15)。旧約聖書の言葉ではマン・フーと言います。それでこれは マナ と言われるようになりました。新約聖書では マンナ と言われます(ヨハネ6:31)。マナと言ったことは分かりましたが、マナが与えられたことが何を伝えているのか、何を意味しているのかは、誰も答えられませんでした。その
3月12日
3月1日 「真理の霊の働き」
『エゼキエル書』11:17~21 『ヨハネ福音書』16:12~15 祈ります。 天の父、聖霊に導かれ真理を悟るということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 お別れの説教が続いています。質問できないほどにとまどっている弟子達に、主は励まし、信仰の道を逸れずに進むように教えられます。主が居なくなると直ぐに崩れてしまうような弟子にならないように、主がご配慮されるのです。或いは、主がいらっしゃる時よりももっと力強く御言葉の力を感じられるようになると言ってもいいでしょう。少し前に言われました、「 私が去って行くのは、あなた方の為になる。 」(16:7)主が見えるところに居なくなっても、今迄よりももっと幸いな事が起こると約束されたのです。 真理の霊 が送られて届いて、励まし、信仰の道を逸れずに進むように教えられ 言っておきたいことは、まだ沢山あるが、今、あなた方には理解できない。しかしその方、即ち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。 まず、主が伝えておきたいことが 沢山ある...
3月7日
2月22日「苦難と栄光の時予告」
『エゼキエル書』11:17~21 『ヨハネ福音書』16:1~11 祈ります。 天の父、あなた方を躓かせないためということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 これらのことを話したのは、あなた方を躓かせないためである。人々はあなた方を会堂から追放するだろう。しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 最後の晩餐は私達の聖餐式の基になりました。だから、時間をさかのぼれば、主イエスの裂かれたパンを主から受け、ぶどう酒の注がれた杯を主から受ける、そんな様子を心の中に思い描くことが出来ます。最後の晩餐の指し示す最も重要な事柄です。 パンとぶどう酒の配餐の後、お別れの説教と呼べる幾つかの教えをお語りになりました。新しい掟は、 互いに愛し合いなさい という言葉でした(13:34)。「 私は道であり、真理であり、命である 」、と宣べ伝えられました(14:6)。 この様な御言葉が続いてきて、「 世があなた方をも迫害する 」と話されたのです(15:20)。世の迫害が、高じて憎しみとなってやってくる、と
2月26日
2月15日「この世の罪」
『詩編』69:5 『ヨハネ福音書』15:18~27 祈ります。 天の父、この世が主を憎んだという御言葉の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 今読まれた御言葉は26節で段落が変わっていることからも分かるように、二つの内容が告げられています。18節から25節までには、この世における弟子達の宿命が伝えられています。弟子とは、この世でどの様に見られるのか。どの様に理解されるのか。どの様に評価されたり、理解されるのか。主の弟子達はこの世でどういう見方で見られるのか。主イエスが居なくなった後、弟子達がこの世でどの様に生きていくかという事が問題となっているのです。 後半の26節から27節までには、この世で弟子達が果たす大切な働きとそれを約束する聖霊なる神が与えられることが告げられています。 世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい (18)。この世はこの後で、弟子達を憎むことになるけれども、世は先ず私を憎みました、それをよく覚えておきなさいと命じられています。憎まれても、気落ちしなくてい
2月26日
2月8日「選ばれ立てられる私たち」
『申命記』7:6~8 『ヨハネ福音書』15:11~17 祈ります。 天の父、主に選ばれ、立てられていることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。 よーし、私は牧師になるんだと志を立てた人がこの御言葉を聴いた時、分からなかった大事なことを教え示されます。牧師の務めでなくてもいい、何でもいい、神のために役立つ者となりたいと願う方にも大事なことを示します。また反対に、もう神から離れよう、神の国に生きることを止めようと、感じている方にも大事なことを示します。 あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ と主は言われました。私達の思い行いとしての選びではなく、主の思い行いとしての選びだと教えているのです。 あなた方が私を選んだのではない、 これは私達の側の決断が最初ではないと伝えています。ヨハネ福音書の初めの言葉を思い出しましょう。 初めに言葉があった 。(ヨハネ1:1)これに支えられてみます。初めに私があなた方を選んだ、となります。主イエスが、先ず、私
2月26日
2月1日「主イエスはブドウの木」
『申命記』24:21~22 『ヨハネ福音書』15:1~10 祈ります。 天の父、主イエス・キリストにつながっているということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 私は真のぶどうの木、私の父は農夫である 。聖書のは色々な植物が出て来ます。木や花、あるい木の実、穀類。植物のお好きな方なら「聖書の植物」というテーマで聖書を楽しんで読めるでしょう。主イエスを待ってザアカイが登った木は、 いちじく桑 。(ルカ19:4)主がエルサレムに入城された時皆が打ち振って迎えた葉の木は、 ナツメヤシ 。(ヨハネ12:13)主がエルサレム入城の時に乗る子ろばを用意するようにお語りになった所のある山の名が、 オリーブ 畑。(ルカ19:29)可憐な花の咲く アーモンド の木も、現れます(コヘレト12:5)。名前からは想像もつかない アビヨナ という木もあります(コヘレト12:5)。[あめんどう] 色々な木がありましたのに、主は、 私はぶどうの木 ですと仰いました。何故<ぶどう>なのでしょうか。答えてみませんか。何故<ぶどうの木>なのでし
2月26日
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